「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年7月4日木曜日
isotope 24「変身」
その朝、妹は兄を起こそうと部屋を覗いた。
だが、ベッドの上に兄の姿はなかった。
代わりに一匹の毒虫がシーツの上で仰向けになって無数の脚を動かしていた。
妹は年老いた両親に「お兄さまは毒虫になった」と伝えた。
両親は驚き、倅の部屋の覗いた。
妹がベッドの上の毒虫を指さす。
両親は抱き合って「倅は毒虫になってしまった」と云った。
一家は大黒柱を失った。
家族は話し合い、部屋を貸すことにした。
無論、毒虫(=兄=倅)の部屋だけは別だ。
貸せはしない。
ドアに鍵をかけ、その鍵は家族だけが持った。
毒虫(=兄=倅)の姿を他人の目に触れさせるわけにはいかない。
三人連れの男が下宿人になった。
妹と両親は居間へ移った。
ある日の夕食後、妹はバイオリンを演奏した。
下宿人たちが無理に強いたのだ。
妹の演奏を聴きながら、薄ら笑いを浮かべ合う三人の下宿人。
妹は蔑みに耐え、バイオリンの弓を動かし続けた。
その時、下宿人のひとりが床に一匹の小さな毒虫を見つけた。
彼は「おい、困るなあ、汚い虫がいるぞ」と云った。
妹と両親は揃って「あっ」と声を上げた。
「なあに、こんなものはこうやって」
別の下宿人はそう云うと靴の底で勢いよく毒虫を踏み潰した。
両親は床に崩れ落ち、妹はバイオリンを放り出して絶叫した。
そして三人ともそのまま意識を失った。
下宿人たちは「大袈裟だな」と顔を見合わせ笑った。
その時、毒虫の部屋でゴトリと音がした。
三人の下宿人は〈開かずのドア〉に目を向けた。
無音。
ドアの下から一匹の小さな毒虫が這い出した。
「まただよ」と下宿人のひとりが顔をしかめた。「掃除はちゃんと……」
云い終わる前にドアの下から更に3匹の毒虫が現れた。
続いて4匹、5匹……〈数〉はすぐに〈量〉になった。
ドアの下から溢れ出すそれは、まるで黒い液体だった。
ザワザワと鳴る無数の脚を持った異様な一塊。
それは床を流れ、壁を這い上がると、天井の隅の暗闇に吸い込まれ、消えた。
三人の下宿人はその間ずっとテーブルの上で抱き合って震えていた。
さて、あの朝、妹が部屋を覗くとベッドに兄の姿はなかった。
一匹の小さな毒虫がシーツの上で仰向けに無数の脚を動かしていただけだ。
妹は「お兄さまは毒虫になった」と云った。
両親も「倅は毒虫になった」と云った。
三人は決して部屋の奥にぶら下がった兄=倅の死体を見ようとしなかった。
男は首を吊った。
死体は、毒虫たちに食い尽くされたあの晩までそこにぶら下がっていた。