2021年12月13日月曜日

『日本沈没〜希望のひと』の最終回

Å:しばらく「日記」の形式で書き続けて分かったことがある。自分にとって、この「とにかく毎日書く」というやり方は、非生産的


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memo:

”ホッキョクグマの毛は透明で、透過した光が黒い皮ふで反射される。 この反射光と太陽光が、毛の中の空洞と泡状の無数の穴に当たって乱反射を繰り返すので「白く」見えるのだ”


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Å:「頭のいい人が〜」とか「頭のいい人は〜」という見出しや書き出しには、とにかく、頭が悪い感じしかない。


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『日本沈没〜希望のひと』の最終回を(日本列島が沈んでいくさまをゲラゲラ笑いながら)楽しく観た。『日本沈没』のモチーフは、「他国に国家を占領されたり奪われたりするのではなく、そもそもの国土自体をまるごと失うとわかった時、国民とその政府にはどんな選択肢があるのか?」だから、岡田斗司夫の予想と違って、最終回で日本が「沈没」することは「わかっていた」。


『日本沈没』を日本が沈没しない「セーフ」のオハナシにするのは、例えば、最初の『ゴジラ』を「怪獣(モンスター生物)」映画だと理解するのと同じくらい「何もわかってない」(ただし、金儲けの才は長けている)。


あるいは、『日本沈没』は『宇宙戦艦ヤマト』ではない。『日本沈没』の日本と、『ヤマト』の地球を入れ替えて考えると、日本の沈没を防ぐための手段・装置を手に入れようとする物語が『ヤマト』であり、地球はもう救えないので、どこかの惑星に移住しなければならないと苦闘する物語が『日本沈没』。だから、『日本沈没』で日本が沈没しないのは、『宇宙戦艦ヤマト』でヤマトが移民船になるのと同じくらい、物語の本質が変わってしまうこと。


ドラマの製作者が北海道と九州を「残した」のは、ちょうど、理屈ではそれで何らモンダイない(不都合はない)とわかっていても、それでも「人間、死んだらあとはなにもない」とは言いたくないし思いたくないメンタルと同じだろう。つまり、日本人にとって、日本という国土がすっかり消えてなくなる事態は、想像したくないし、やっぱりどうしても想像できない、理解を超えた状況で、とても日曜日の夜9時のテレビで「こんなのどうです?」と披露できるようなものではなかったのだろう。


もうひとつ。まあ、日曜日のあの枠は、どれもあんな感じなのかもしれないけど、陳腐な舞台劇みたいな演技の多さには閉口した。特に「未来推進会議」の議論の場面はいつもヒドかった。


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因みに、最初の『ゴジラ』は、人々が成す術もなく蹂躙される「被災映画」であり、ゴジラ(驚異的な危険生物)を相手に人類が奮闘する映画ではない。だから、ゴジラは、東京大空襲で上空を埋め尽くしたB29であっても構わない。B29はアメリカの爆撃機だが、その襲来を招いたそもそもの発端は、当の日本政府でもあるのだから、構造としては、ゴジラの東京襲来と同じである。