2021年12月3日金曜日

単なる人気焼き鳥店の名物オヤジたちでしかない

2021年12月2日 木曜日


天気:雪。最高気温2℃。猫散歩休止。



【第17話「恋情すてて死の願い」】


(本編での表記は「恋情すてて死の願」で、最後の「い」はない)

監督:長谷和夫


錠「割と手間食ったな」

鉄「楽して儲かる仕事はそうザラにあるもんじゃねえ」

(人の気配に身を隠す二人。相手が主水だと気づいて)

鉄「おめえか、びっくりするじゃねえか!」

主水「なんだ、お前たちか。今頃、どうしたんだ?」

錠「仕置を済ましてきた」

主水「例のババア、ぶっ殺したか?

鉄「分前貰おうか。そのために出張ってきたんだろ?」


清七は、但馬やの娘たちを唆し、「念書泥棒騒ぎ」を引き起こすことで、堺屋たちを慌てさせ、与力が預かっている念書を高値で売りつけようと目論んだ。



『フランケンシュタイン』は、mad scientistのハナシなどではない。なぜなら、「主人公」のフランケンシュタインの人物造形が全くscientistではないからだ。単に設定が「scientist」なだけで、キャラクター的には、むしろscientistとは正反対。何より、自身が成し遂げた科学的成果、すなわち、人工生命どころか人工知性体の創造になんのヨロコビも見出していない。倫理的なモンダイはともかく、自身の科学的探求がひとつの到達点に至ったのを喜ばない科学者はいない。科学者にとっては、自然科学の振る舞いに比べたら、倫理などは所詮「ママゴトの決まりごと」に過ぎない。しかし、この作品の中の自称scientistのアインシュタインは、ひたすら倫理に悩むだけ。作品『フランケンシュタイン』の正体は倫理小説であり、科学者とか人造人間などというのは、神様だの悪魔だのの言い換えに過ぎない。その証拠に、主人公が人造人間(怪物)を作り上げる具体的な描写も具体的な説明も、作中には一切登場しない。単に「気味が悪いのを我慢して、頑張って、苦労して作りあげた」的なふわっとした表現があるだけ。



Å:所詮、ビートたけしや松本人志は、「浅草キッド」や「チキンライス」のメンタルなんだよ。要するに、wet。その点、徹底的にdryなタモリには、到底及ばない凡人たち。まあ、単なる人気焼き鳥店の名物オヤジたちでしかない。