「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2024年12月28日土曜日
2024年12月27日金曜日
2024年12月22日日曜日
『光る君へ』#48(最終回)「物語の先に」:memo
『光る君へ』#48(最終回)「物語の先に」:memo
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』全48話を無事「完走」した。おめでとう、ありがとう。
最終話は、[real timeの現場を描かない]演出にこだわっていた。道長の死も、乙丸の嫁の子も、いとさんの認知症発覚も、[既に起きてしまったあとのこと]として、視聴者に提示された。
特に秀逸だなあと思ったのは、道長の死の描写。倫子さんに頼まれたまひろさんが、初めて死の床の道長に会いに行ったときに、道長が布団の中から伸ばした左手を、まひろさんが握り、それで道長が心の底から安心する場面を先に描いているので、のちに、倫子さんが、布団から左手を出して事切れている道長を「発見」したときに、[道長がどうやって「一人で」死んだか]が、視聴者にはちゃんと分かるようになっている。輒ち、道長は、まひろさんが「続きは、また明日」と言って帰っていった誰もいない部屋で、「幻」のまひろさんに向かって左手を伸ばし、そしておそらく「幻」のまひろさんにその左手を取ってもらい、心から安心して息絶えたのだ。ちなみに、だから、視聴者は勿論、まひろさんも(当然倫子さんも、多分百舌彦も)、誰一人として、道長が息を引き取るその現場には居合わせてない。
乙丸の嫁の死の描写も「気が利いて」いた。最初いきなり、乙丸が仏像を彫っている場面が示され、視聴者は「?!」となる。「死んだのは嫁かな。それとも、もういつ死んでもおかしくない為時かな? まさか、いとさん?」などと考える。視聴者を焦らすように、その3人共がなかなか画面に現れないが、やがて、為時が姿を現し、トドメで、年老いた乙丸が、旅に出るまひろさんに何がナンでもついて行くと言い張る。それで視聴者は、乙丸の彫っていた仏像が乙丸の嫁だったと分かる仕掛け。で、視聴者が「ああ、じゃあ、いとさんは無事だったのね」と思ったところで、[認知症を発症した]いとさんを登場させて、ハッとさせる演出。意地悪だよねえ。
いずれにせよ、[道長の死や、乙丸の嫁の死や、いとさんの認知症発覚]の「現場」に視聴者を「立ち会わせない」ことで、人の世の無常感みたいなものがうまく出ていた。ような気がする。
*自分の書いた作品が「枕草子」や「源氏物語」ほどには評価されないのではないかと心配している[白髪頭になった赤染衛門]を、倫子さんが「大丈夫よ」と励ましている場面も好かった。
*最後の最後が[不自然な静止画面]で終わったのは、動画配信全盛期のこの時代ならではの演出。あの[いかにも中途半端なところで止まっている映像]を、令和に生きる我々は日常的に目にしている。その「見た目」から受ける一番の印象は、「動画は途中で止まっている」=「再生ボタンを押せば、すぐに続きが始まる」=「物語は、まだ終わってない」。「不自然な4秒間の静止映像」で終ることで、『光る君へ』は、「本当はまだ続きがあるけど、今は、一旦、停止しているだけ」という印象を残して物語を閉じた。
(2024/12/22 穴藤)
2024年12月19日木曜日
2024年12月16日月曜日
2024年12月13日金曜日
2024年12月7日土曜日
『光る君へ』#46「刀伊の入寇」:memo
今回、一番好かったのは、「作家魂」に火がついて、実はやる気満々な赤染衛門に対し、倫子さんが、最初驚き、しかし、やさしく微笑む場面。『光る君へ』が、平安時代とか藤原家とか天皇とか言いつつ、正体は〔女流作家(たち)の物語〕だということを、再確認した。
それで言うと、『源氏物語』を元ネタにして、そこから逆に、「『源氏物語』のネタになった、作者(まひろさん)の実体験の物語」を作り上げたのが、この『光る君へ』という大河ドラマなのに、今回、そのドラマの中で、周明がまひろさんに書けばと勧めている物語が、何のことはない、『光る君へ』という物語そのものなのが、面白かった。『源氏物語』と『光る君へ』との間でぐるぐる回る「ウロボロス」的矢印。
(2024/12/07 穴藤)
2024年12月5日木曜日
「デイヴィッド・リンチ 幻想と混沌の美を求めて」:memo
定価3200円(税別)で決して安くない本。カラー写真がいっぱいあってそれはよかったが、そのカラー写真につけられたキャプションがデタラメ。特に、映画の場面につけられた類のキャプションがかなりオカシナことになっている。そのどれもが〔映画をちゃんと観てないのがバレる間違い方〕なのが、Lynch本としては致命的。
例えば、「the Straight story」の章で、〔主人公が旅先で知り合った同世代の老人とお互いの戦争体験を語り合う重要な場面〕という意味のキャプションがついている写真に実際に写っているのは、主人公と戦争体験を語り合う老人ではなく、物語の最終盤で、主人公が注文した「ミラーのライト(ビール)」を出す老店主。どちらも老人には違いないが、顔が全く違う(渋川剛気と愚地独歩くらい違う)。つまり、映画をちゃんと見ていればすぐに分かる間違い。
この手の間違いが一つやふたつどころではない。今、数えてみたら、20個ほどあった。キャプションがこんなテイタラクなら、本文も怪しいものだと思わずにはいられない。なので、映画のパンフレットだと思って、文章は二度と読まないことにして、写真だけ眺めてる。見れば、何の、どんな写真かはたいてい分かるし。四半世紀超えのEraser Headerをナメるなよ。
(2024/12/05 穴藤)
2024年12月4日水曜日
Geminiは、「薬缶」の「ご隠居」か?
2024年12月3日火曜日
2024年11月30日土曜日
『ライオンの隠れ家』⑧:memo
2024年11月29日金曜日
【老猫介護】氷なら舐められる
2024年11月26日火曜日
『光る君へ』#45「はばたき」:memo
まひろさん:「旅に出ます」
道長:(ガーーーン!)
しかし、皆の目があるので、その場はゆったり構えて、平静を装う道長。
居ても立てもいられない道長。まひろさんの部屋に直行するが、まひろさんは娘の賢子(かたこ)と何か話していて入れない。なので、外でぼーっと突っ立って待つ。
やっとまひろさんの部屋に入ると、あたふたと御簾を下げて、「なんでなん?」と訊く道長。
まひろさん:「近くにいても、どーせ、あたしたち、どーにもらなんし。あと、薄々気づいていたと思うけど、賢子は、あんたの子やから」
道長:(かもしれないとは思っていたけど、そう正面切って言われると、やっぱりガーーン!)
一人前になった娘(賢子)の姿を、遠くからこっそり見て、「ギリギリアウト」になる道長。倫子さんとの間に生まれた娘たちからは悉く憎まれてしまったけど、最愛の女との間にできた娘には決して憎まれることはないという安心感もあり(政の駒として使う必要がないから)、なんだか、いろいろなものから解放されて、一種の「死」を通過する道長。
「気の毒」なのは倫子さん。まひろさんが居なくなって、やっと夫婦水入らずと思ったら、夫は、まるで〔長年連れ添った妻に先立たれた男〕みたいな境地になって、さっさと坊主になってしまう。それでも、衛門に道長の物語の執筆を依頼する倫子さんもまた別の境地に達している様子。
(穴藤 2024/11/26)
2024年11月23日土曜日
2024年11月21日木曜日
2024年11月19日火曜日
『660万人の孤独』
「戦争」を巡るドキュメンタリーと言えば、「ドンパチ」や〔「権力者」の「奇行」〕に焦点を当てたモノが殆どだが、今回の「日本 660万人の孤独」は、そんな〔軍事オタクや政治オタク向け〕とは全く違う、もっと「地味」で、しかし、もっとずっと「地に足がついた」内容になっていて好かった。
軍人でも政治家でも権力者でもない我々の身に降りかかる、「具体物」としての「戦争(戦後)」を教えてくれる。
「戦争」や「戦後」が語られるときにも、なぜか素通りされたり、一言で済まされてきた部分を、詳細にとまではいかなくても、少し丁寧に描き出してくれている佳作。最近はskipしてもいいかなと思える題材も多い「バタフライエフェクト」だが、今回のは必見。
(穴藤 2024/11/19)
2024年11月16日土曜日
東博士、怖い。
2024年11月12日火曜日
2024年11月11日月曜日
2024年11月8日金曜日
2024年11月2日土曜日
タイムマシンにお願いしなくてもいいかも
2024年10月31日木曜日
2024年10月26日土曜日
2024年10月25日金曜日
或る姉弟についてのメモ
或る所に勝ち気な姉とぼんやりした弟がいました。
姉は、4歳下の弟を性のオモチャにして日々のウサを晴らしました。
弟は成長すると、少年を性のオモチャにする「怪物」になりました。
困惑した姉に弟は言いました。
「でも、今の僕を作ったのはお姉ちゃんだよ」
姉は人生をかけて「弟を守る」覚悟を決めました。
自分自身を守るために。
ジャニー喜多川とメリー喜多川を取り上げたNHKスペシャルを見てたら、こんなベタな妄想storyが心に浮かんだ。
とは言え、あの番組で一番怖かったのは、元フォーリーブスのおじさんを見たとき。「ジャニー喜多川、死んでないやん!」とか、思った。「ジャニー喜多川って、BOB(『Twin Peaks』)やアサクラ(『ケイゾク』)の類?」とか、思った。
(2024/10/25 穴藤)
2024年10月20日日曜日
『ベルリン・天使の詩』:メモ
喋りすぎ。
陳腐なmonologueを延々と聞かされて苦痛。ヴィム・ヴェンダースと言えば、小津安二郎を敬愛していることで有名らしいけど、いったい小津作品の何を観てんだろう? と本気で思った。
小津映画の醍醐味は、変哲のないセリフや振る舞いの背後から「聞こえて」くる登場人物たちの「心の声(当人も気づいてないかもしれない本当の気持ち)」を、観客それぞれが自分なりに感じられる点にある。しかし『ベルリン・天使の詩』では、観客は、登場人物たちの「心の声」を「実際の音声」として聞かされる(なにしろ、人間の心の声を記録する天使の映画だから)。観客が聞かされる他愛のないmonologueは、小津作品の登場人物たちのセリフとは違って、登場人物たちの「心の声」そのものなので、奥行きも裏も何も無い、もう、ただそれだけのもの。観客はひたすら、「ああそうですか」「でしょうね」と呟いてやり過ごすしかない。それが『ベルリン・天使の詩』を鑑賞する際の第一の苦痛。第二の苦痛は、映像作品としての「行間」のなさ。この作品はセリフ劇なので、映像には何の必然性もない。喩えるなら、本の「紙(page)」(本の紙は、白くても茶色でも、マット紙でもコート紙でも、書かれた内容には影響しない)。要するに、わざわざ映像を観る甲斐がないのだ。映画なのに。観る甲斐のない映像を見続けなければならない苦痛。
言葉だけでは到底表現しきれないものを映像と音声(の抑揚と間)を総動員して表現するのが小津作品で、本当は「気の利いた(もったいつけた)」言葉を聞かせたい(言いたい)だけなんだけど、映画なのでそれっぽい映像も撮って流します、というのが『ベルリン・天使の詩』。要するに両者は正反対。
楽曲をテレビや動画サイトで流すために作られる music video というものがあるけど、『ベルリン・天使の詩』は、謂わば「monologue video」。映像は方便。問題は(いや、大問題は)、monologue videoである『ベルリン・天使の詩』の肝心のmonologueが、とにかく陳腐なこと。楽曲がツマラナイmusic videoと同じで、鑑賞者は、ひたすら、忍耐を強いられる(今思いついたけど、だから、逆にセリフの全くない映画にすればよかったのかも)。
(2024/10/20 穴藤)
追記:『ベルリン・天使の詩』がこんな感じだったので、観ようと思っていた役所広司主演の『Perfect Days』を観る気が、すっかり失せた。
2024年10月18日金曜日
2024年10月17日木曜日
2024年10月16日水曜日
『光る君へ』#39「とだえぬ絆」:メモ
今回、前半では、「人を呪わば穴二つ)」で伊周(コレチカ)が息絶え、後半では、本場所の国技館並みに死亡フラグを立てまくった惟規(ノブノリ:まひろ君)が旅立ったのだけれど、それ以上に「衝撃的」だったのは、第二子を生んで藤壺に帰ってきた彰子さんの前に現れた敦康親王の「変わり果てた」御姿。
あんた、誰?!
二人が極近距離で差し向かいに座っている様は、托卵された事に気づかずに、自分の何倍も巨大化した雛(カッコウ)に餌を与えている親鳥(ホオジロ)のように見えた。逃げて! いや、逃げないでいいから、騙されないで! と。
(2024/10/16 穴藤)
2024年10月12日土曜日
2024年9月26日木曜日
『The Last Emperor』全長版:メモ
△『The Last Emperor』オリジナル全長版・字幕/Prime Video/2024/09/25/境遇と性格があまりに特殊すぎる主人公(愛新覚羅溥儀)に、ほぼ全編にわたって全く共感できないのがこの映画最大の「弱点」。最後の最後、住み込みの守衛の子供にコオロギを渡すところでやっと、共感できる。
言ってしまえば、この映画は全て、この最後の「コオロギ」の場面のための壮大な「前フリ」という気もする。
アカデミー賞を総なめに近いことをした作品だが、今、改めて見返してみると、全体「子供っぽい」映画で、そこまでありがたがるような出来でもない(というか、そもそも、アカデミー賞って、ねえ、アレだし…)。セットやらエキストラやらは、確かにものすごい時間と労力とカネをかけているようだけど、そんなものは「SFXがすごい」と言って褒められているのと同じで、「そっち側」の人間でなければ「ダカラナニ?」だし。
とにかく、人物造形が少年ジャンプレベルで、鑑賞に耐えない。
いっそ、コント(喜劇)なんだと思って見れば、手間ひまかけたものすごいコントだと言える。うん、この作品をコントと捉えるなら、人間という存在や、個人の一生や、人間の社会や歴史を、悪魔が腹を抱えて笑ってるような、すごく「壮大」なコントで、評価は△から◯になる。
或いは、fantasyか? 「続編」の『The Little Buddha』は完全にfantasyだから、この作品も、愛新覚羅溥儀という実在の人物の数奇な運命を真顔で受け取るのではなく、やっぱりfantasyとして観たほうが「正解」なのかもしれない。
(穴藤)
2024年9月23日月曜日
『光る君へ』#36「待ち望まれた日」:メモ
『光る君へ』#36「待ち望まれた日」を愉しく観た。
今回のepisodeはこれに尽きる。
結局、一番酔っ払っていたのは道長でした!
あと、『光る君へ』の副題は毎回、複数のことを指していることが多いけど、今回の「待ち望まれた日」も、①「中宮彰子に御子が生まれる日」、②「まひろさんが道長とひとつ屋根の下で暮らすことになる日」、③「まひろさんと道長の秘密の関係が明かされる日」などを指していて愉しい。
あと、実資(さねすけ)の酔っ払い方は好かった。ああいう、謎の酔い方する人、居るよね。
(2024/09/23 穴藤)
2024年9月16日月曜日
『光る君へ』#35「中宮の涙」:メモ
今週も『光る君へ』を愉しく観た。特に好かったのが「おまえは不義の子を生んだのか?」のクダリ。まひろさんと道長の「心の声」が聞こえて聞こえて、面白くて仕方がなかった。
道長が『源氏物語』の「続き」を今から読むとなった時のまひろさんの
(あ、でも今回の話って、この人に読ませて大丈夫かしら? 気付く? いやまさか)
から始まって、原稿を読み終えた道長からの「おまえは不義の子を生んだのか?」という問いに対して、持って回った言い方で、しかし、肯定するまひろさんの
(そうですよ、でもまあ、その子の父親はあなたですけどね。いい加減気づきなさいよ)
それに対する、未だ何も気づかない道長の、
(え、まじか、意外! 夫は別にして、俺以外ともやってて、その子供まで生んでたのか〜。なんかがっかりだなあ、騙されてたわ〜)
で、道長はちょっとムカついた感じで、〔「続き」の原稿〕を持って部屋を出ていく。
そんな不機嫌な道長を見て、はっきりと動揺するまひろさんの、
(あの人、完全に誤解してるわ〜)
…のだけれど、道長は廊下を少し歩いたところで、
(あれ? 待てよ、この不義の相手って、もしかして、俺じゃね?)
と気付く。きっと、廊下を歩きながら、まひろさんが生んだ娘の歳を改めて数え直しているはず。
もうひとつ好かったのは今回のサブタイトルにもなってる「中宮の涙」。一条天皇の(わ!びっくりした)と言う心の声が聞こえてくる、中宮彰子の「涙の告白 THE 不器用!」。好きすぎて、怒ってるみたいになることって、時々ある。
(2024/09/15 穴藤)
2024年9月7日土曜日
『ルパン三世』「タイムマシンに気をつけろ」memo
魔毛狂介のことを、遥か未来でタイムマシンを発明して、過去にやってきた未来人ように思い込んでいたが(「自分の子孫が、ルパン13世に滅ぼされたから、過去に戻って、ルパン一族自体を葬るのだ」なんて言ってるから)、彼がタイムマシンを発明したのは現代(この物語に於ける「現代」は1971年/昭和45年)で、それを使って未来に行き、自分の子孫がルパン13世によって滅ぼされるのを目撃しただけだった。あとで、次元や五右衛門が調べた文献にも、1932年11月18日生まれ、科学者であり、ヒューゴー賞を受賞したSF作家で、1966年に発狂、とあるから、完全に昭和生まれ。
ルパン三世が最後に魔毛狂介を罠にはめる時に話す、ルパン三世に一番よく似た「川向こうの次郎吉」は、ルパンによれば、アルセーヌ・ルパン(初代)の曾おじいちゃんにあたる人。しかも、あとで登場する次郎吉本人(ルパン三世の変装)は、これからフランス女のミレーヌ・ルパンと結婚する、と言っている。輒ち、アニメ版『ルパン三世』の設定では、そもそもアルセーヌ・ルパン(初代)が、日本人とフランス人の混血。ルパン三世の両親のどちらかが日本人だったわけではないのだ。ま、ルパンが、魔毛狂介を騙すのにデタラメを言っただけかもしれないけど。
(2024/09/06 穴藤)
2024年9月6日金曜日
まるで、凄い俳優と無能な監督
今週の「水ダウ」の、ひょうろくさんの「裏の顔」を見せるドッキリは、芸人(タレント・役者)としてのひょうろくさんのスゴさ(有能さ・芸達者ぶり)と、さらば青春の光のポンコツぶりが更に明白になってしまった説だったね。さらばの森田がこっそり指示を出す「二人きり」になるところは、優秀な俳優が、無能な映画監督の映画に出ているみたいだった。(2024/09/06)
2024年9月4日水曜日
おっさんが操縦する青いモビルスーツと言えば
元々、『ポケットの中の戦争』の各モビルスーツは、『ガンダム』に登場したモビルスーツを「清書」しただけのものだったので(どこかで誰かが言っていた)、たとえ見た目や動きや性能や機能が違っているように見えても、想定時間より10分遅れていたサイクロプス隊のズゴックとゴッグは、レビル将軍が居たベルファスト基地を襲撃したズゴックやゴッグと「同じもの」であり、バーニィが初陣で撃墜されたザクは、ジーンが初陣のアムロに鼻をもがれたザクと「同じもの」であり、サイド6内で市街戦をやっていたリックドムは、三分も持たずに12機が撃墜されたリックドムと「同じもの」であり、サイド6の領空を侵犯していたゲルググは、「大佐、邪魔です」と言われたゲルググと「同じもの(さすがにシャア専用機ではないだろうけど、エース専用機風ではある)」。それは連邦軍のモビルスーツにも言える。
ところが、ガンプラを売る都合か、レンタルビデオの回転数を上げる都合か、それとも、あとから「ファン」が勝手にいろいろ言い出したのかは知らないけれど、その『ガンダム』と「同じもの」だったはずの『ポケ戦』のモビルスーツが、なぜか全て「新型」とか「改良型」とか「実験機」とかにされて、今に至る。
いずれにせよ、『ポケ戦』に出てくるモビルスーツの「新型」は、アレックスとケンプファーだけ。けど、アレックスは、「シャア専用ザク」をガンダムでやった「アムロ専用ガンダム」という位置づけだから、まあ、要はガンダム。だから、ほんとうの意味での、ゼロからの「新型(新作)」は、ケンプファーだけなんだ、と、ずっと思っていた。
けど、今日気付いた。違う。
ケンプファー、これはもう、ベテランのおっさん(ミーシャ)が操縦する青いモビルスーツなんだから「グフ」に決まってる。ケンプファーを「グフ」と考えると、先に挙げた、ザク、ドム、ゲルググ、ズゴック、ゴッグと合わせて、『ガンダム』に登場した主要モビルスーツが勢揃いするので、この点でも間違いない(アッガイとか、ゾックとか、あと、ギャンとかモビルアーマーとかは、まあ、大河原さんのもう一つの大きな仕事である『タイムボカン』の系譜だし)。
『ポケ戦』に登場するモビルスーツは、『ガンダム』のモビルスーツの「清書版」であり「高解像度版」なので、目指しているのは「兵器機械としての迫真性の向上」。で、ザクとかドムとかゲルググとかズゴックとかは、まあ、原型をとどめたままでも、それらしくできた。ゴッグは、元々の「手足の生えた樽」ではどうにもならんと判断され(たのだと思う)、「変わり果てた」姿に変更された。しかし、その「どうにもならん」ゴッグ以上に、どうにもならんと思われたのがグフ(たぶん)。グフは、見た目がどうというよりも、その「性能」や「機能」が頭痛の種。何しろ、指先がバルカン砲になっていたり、普段どこに仕舞い込んでいるのか全くわからない極太電流ムチを振り回したりする、『マジンガー』や『ゲッター』的なお方だから。その結果が、完全renewalの「ケンプファー」。指バルカンは手持ちのshotgunに変更された。これは簡単。極太電流ムチ(heat rod)はどうしたかというと、truckのcontainerにあらかじめ隠しておいた「紐状に連なった爆弾」として「再現」された。アレックスの体に一瞬でまとわりついて、外装を破壊した、あの奇妙な「鎖爆弾(chain mine)」は、グフの「漫画武器(heat rod)」の「清書版」なのだ! とさっき気づいて、鼻息荒く、今これを書いている。という次第。
(2024年9月3日 穴藤)
2024年8月31日土曜日
2024年8月29日木曜日
【英語無手勝流】漢字と同じ使い方で英単語を使う
英単語は「漢字」だと気づいたら、英単語のカタカナ表記が、漢字のひらがな表記にしか思えなくなった。そうなると、英単語は、できるだけカタカナ表記はやめて、英単語そのものをalphabetで綴って表記したほうがいいということになる。日本語の文章内の英単語をすべてカタカナ表記にしているのは、喩えるなら、日本語の文章内の漢字をすべてひらがな表記にしているくらい、いろいろと、アレ。
「わたしのおじはさいしょすいえいせんしゅをめざしたが、しんぞうのけっかんにけっかんがあることがわかって、けっかかがくしゃになった」よりも、「私の叔父は最初水泳選手を目指したが、心臓の血管に欠陥があって、結果化学者になった」の方が、断然、文章の「解像度」が高い。理解度も高まる(例えば「叔父/伯父」「化学者/科学者」或いは「血管/欠陥」も?)。
alphabetで綴った英単語が「読めない」可能性がある場合は、カタカナでルビを振ればいい(漢字はひらがなでそうしている)。alphabetで綴られた英単語の意味がわからない場合は、現状、漢字でもカタカナ表記の英語でも大抵「放置」されているので、気にしない(自分で調べろ、ということでしょ?)。
英単語をalphabetで綴る利点の一番は、漢字を漢字で表記する利点と同じ。
例えば、「アンサステナブル」というカタカナ英語。意味は「持続不可能な」ということで、同じカタカナ語の「サステナブル」に、否定を表す「アン」がついているわけだけれど、これなども、alphabetで「unsustainable」と表記したほうが断然いい。というのは、「sustain」(持ち続ける・維持する)という単語を知っていれば、「unsustainable」という単語を全く知らなくても、綴りから「un」(非)+「sustain」(維持する)+「able」(可能な)」を見て取り、大体の意味を読み取れる(「サステナ」からは分からない。そもそも。「アンサステナブル」は知っていなければ、どこが切れ目かもわからない。アンサ+ステナブル? アンサス+テナブル? アンサ+ステナ+ブル?)。漢字では同じことをしている「しゅろ」という単語を知らなくても「棕櫚」という漢字を見れば、どちらも木偏がついているので、木の名前か何かだろうと察しがつくし、「新造」という単語自体は知らなくても、「新」と「造」の意味を知っていれば、教えてもらわなくても「新造」が「新しく造られた」という意味だと分かる。
英単語をalphabetで表記する利点は他にもある。
①単数形と複数形がある。
②冠詞(a, the)がある。
①については、もう、英語を日本語に翻訳するとき、全員が「なんで、日本語には複数形がないんだ!」と叫んでいるので説明するまでもない。②は、ちょっとピンと来ないかもしれないが「分かる人には分かる」とだけ言っておこう(或る名詞に「a」がついているのか「the」がついているのか、それとも何もついてないのかで、すごく文章を理解しやすくなったりすることがあるので、これも実感として「冠詞って便利だなあ」といつも思う)。
英単語の綴りがわからない場合は、今まで通りカタカナで表記すればいい。漢字は「ちゅうちょ(躊躇)」なくそうしているのだから、なんの問題もない。
いずれにせよ、他の誰もやらなくても、私一人は、これから、カタカナ英語はできる限りalphabetで英単語を綴ろうと思う(趣味で)。多少あやふやな綴りの単語が出てきても、今は、netやcomputersで簡単に調べられるし。
(2024年8月28日 穴藤)
2024年8月26日月曜日
【英語無手勝流】月とスッポンではない
「ボキャブライダー」を聞いていたら、「apples and oranges」を「月とスッポン」のような意味だと言っていたが、全然ちがう。どちらも、「比べようがないもの」という意味で使われているが、「比べようがない」理由が違う。
「月とスッポン」は、「スッポンと比べるのは失礼なくらい月のほうが圧倒的に良い」という理由で「比べようがない」のだ。言い換えるなら、わざわざ比較するまでもないくらいはっきりと差がついているから「比べようがない」。
一方の「apples and oranges」は、共通点は「丸い果物」だけで、そもそも違う種類の果物。「採点方法」に公平性を保てないので、言葉の意味通りで「比べようがない」のだ。
まあ、もしかしたら、英語話者には、applesは〔果物の女王〕で、orangesは〔果物の庶民〕みたいな認識があるのかもしれない。もしそうなら、「月とスッポン」と同じ意味になるけど、英文での使われ方を見るとそういう感じはない。「あの二人は月とスッポンぐらい違う」の「月とスッポン」は「優劣の強調」として使われているが、「We’re just comparing apples and oranges」の「apples and oranges」は「優劣をつけようとすることの無意味さ」を表すために使われているように見える。
(2024年8月26日 穴藤)
2024年8月22日木曜日
助動詞の否定文のこと
この前、いつものように「ラジオ英会話」を愉しく聴いていたら、あの「日本一の英語教師」の大西泰斗が、「will not」を(多分、うっかり)「willの意思を否定する」などと説明していて驚いた。別の日には、「can not」を(きっと、うっかり)「可能性の否定(輒ち、canの否定)」と説明していた。言うまでもなく、「will not」の「not」は「will」を否定しているわけではないし、「can not」の「not」は「can」を否定しているわけではない。なぜなら、大西泰斗自身が何度も説明している通り、英語の「not」は後ろに来る「単語・文」を否定する単語だからだ(因みに、日本語話者が「will not」や「can not」の「not」が、前にある(向かって左側にある)「will」や「can」を否定すると考えがちなのは、日本語の否定文で用いられる「〜ない」の「ない」が、直前の(向かって左側の)単語や文章を否定するからだろう)。
英語教師や英語学者や英語のnative speakersが何と言おうと、助動詞の否定文の「not」は助動詞を否定しているわけではない。だからこそ、助動詞の否定文は、助動詞の意味合いを持ち続けていられるのだ。日本で「will notはwillの否定」とか「can notはcanの否定」などを説明された気の毒な英語学習者は、ときどき、単語それぞれの意味は分かるのに、〔助動詞の意味が否定された形の日本語の文〕にしようとするとわけがわからなくなる〔英語の助動詞否定文〕に出会うことになる(実体験は数々あるが、今急には思い出せないので、具体例は出さない)。
「I will not go there」を、日本式の「will not はwillの否定」と理解して、「私はそこへ行くつもりはない」と訳しても理解に困ることはない。「I can not go there」も大丈夫(「私はそこへ行けない」)。「I may not go there」になると、少し怪しくなってくる(私はそこへ行くことが許されていない?)。「I shall not go there」になると、もう、なんとなく、機械的に訳しているだけで、ニュアンスを掴みきれなくなっている(私はそこへ行けない?行くべきではない?)。最後に「I must not go there」になると、英語教師の「特別な説明」がないと完全に意味を取り違える。輒ち、この場合、「私はそこへ行く必要がない」ではなく「私はそこへ行くべきではない(=変な日本語だが、要するに、私はそこへ行かない必要がある)」ということになる、と。「mustの否定文」は「例外扱い」にされるのだ。しかし、勿論、そんなことはない。mustの否定文が「例外」に見えてしまうのは、そもそも、〔他の助動詞〕の否定文の方の「認識」が間違っているからだ。
「will notはwillの否定」と思い込まされている脳には、例えば、「I will not go there」は「I will not + go there」のように見えてしまう。「can not」や「may not」「shall not」の文も同様。「must not」の文もそれは同じで、だから、「I must not + go there」と見えてしまい、結果、「そこへ行く必要がない」と誤読してしまう。
〔「not」は、後ろの〔単語・文〕を否定する〕という大原則からすれば、それぞれの文は、「I will + not go there」「I can + not go there」「I may + not go there」「I shall + not go there」であり、だから、「I must + not go there」となる。それぞれを、不自然な日本語になることを恐れず直訳すれば、「私は、そこに行かない、つもりがある(will)」「私は、そこに行かないことが、可能である(can)」「私は、そこに行かないことが、許されている(may)」「私は、そこに行かないことに、なるだろう(shall)」、そして「私は、そこに行かない、必要がある(must)」。「must not」は例外どころか、「must not」の訳し方のほうが「本来の」「正しい」訳し方なのだ。
動詞の直前に置かれた「not」が、直後の動詞を否定する形に違和感を覚えるのは、助動詞文の中の「主役」の動詞を見誤っているから。助動詞文の「主役動詞」は、実は、助動詞(「助教授」みたいで、名前が良くない)の方で、助動詞のあとから出てくる動詞は、或る種の「形容詞(或いは、説明)」。助動詞文の話者の「気持ち」を考えてみれば分かる。話者の気持ちが一番乗っているのは助動詞である。助動詞文の「主役動詞」が助動詞だということは、所謂「be動詞」で考えると、ピンとくるだろう。「be動詞文」の「主役動詞」は、無論、be動詞であり、その後に来るのは、形容詞でも副詞でも動詞ingでも、とにかく「ただの説明」。そして、be動詞の否定文でも、notが否定するのは、前にあるbe動詞ではなく、後ろにある〔単語・文〕。或いは、禁止を表す命令文を考えてみてもいい。「Don’t go there」という文の場合、「主役」の動詞は「go」っぽいが、実は「Do」であり、真の意味は、「Do + not go there」、輒ち、「そこに行かないということを、やれ!」なのだ。そうそう、肝心なことを言い忘れていたけど、「主役動詞」は否定されない。だから「主役動詞」。
どうしても「I will + not go there」のように見えないときは、所謂「to不定詞」の否定文を思い出すといい。例えば、「I try not to go there」は「I try + not to go there」であり、意味は「私はそこに行かないようにする(変な日本語に直訳すれば、私はそこに行かないよう試みる)」である。これを、〔「will not」は「willの否定」〕式に、「try not」は「tryの否定」と誤解すれば、「私はそこに行くことを試みない」と誤読する(因みに、「私はそこに行くことを試みない」は「I do not try to go there」で、「not」はちゃんと、後ろの「try」を否定している)。
と、このように理解すれば、例えば「must not」と「don’t have to」を混同することもなくなるし、「can not」と「be not able to」は「言ってることの根っこがまるで違う」ことも簡単にわかるようになる。
結局、助動詞はどれもこれも、「正体」は「I think」や「I feel」の意味の「挿入句」を一語で表したものでしかないのだから、それを否定したら、その「挿入句」をまるまる文から取り除いただけになって、単なる「助動詞なしの文」になる。
(穴藤 2024年8月21日)
2024年8月5日月曜日
2024年8月2日金曜日
2024年8月1日木曜日
エル・フォルテの「正体」
最初に、断っておくと、便所臭い「ゲーセン」で「トランキライザーガン」とか「ルパン三世」とか「クレイジークライマー」を50円でやっていた「ゲーセン第一世代」なので、「テレビゲーム」というのは、誰が何と言っても、「鬱陶しい生身の人間を相手にしなくていいことこそが最大のウリの〔夢の遊び〕」という認識。だから、「対戦型格闘ゲーム」と呼ばれるジャンルの実質的な「元祖」とでもいうべき「ストリートファイター2」が、酒屋のハゲ親父(いつも不機嫌)が経営する謎のゲーセン(自宅を改装したもの?)に登場したときも、対人対戦には何の興味もなく(対戦で盛り上がっている連中を尻目に)、ひたすらCPU戦(今で言うところの「アーケードモード」?)をやっていた。
というわけで、以下の「ウルトラストリートファイター4」の話に「対戦」の要素は皆無なのでその手の話を期待した方々とは、ここでお別れです。
さて、本題。今年の6月に入ってから、YouTubeにゴマンとある「ストリートファイター6」の対戦動画とか解説動画とかを面白がって毎日色々観ていたら(おかげで、ウメハラとかカワノとかクボとかナルオとかの名前を覚えた)、或時、Amazonが「レバーレスコントローラ」というものを薦めてきて、「レバーレス?! いつの間にこんなものが?」と驚いた。「ストリートファイター」シリーズは「3」で「卒業(スト3幼稚園)」していたが、俄然興味が湧いて、どうしても試したくなった。つまり、「ゲーム」の方ではなく、「レバーレスコントローラ」の方を。格闘ゲームのコマンド入力にとって、レバーやパッドは最低の入力装置だとずっと思っていたから。
ウチのゲーム機はPS3が「最新機種」なので、当然「スト6」なんかできない。調べたら、「ウルトラストリートファイター4」ってのがPS3版にあったので、それと、5千円くらいの「レバーレスコントローラ」を買って、6月の末くらいからプレイしてみたら、最初から昇龍拳だの波動拳だの、真昇龍拳(的なパワーアップ版の必殺技)だのが思い通りに出せて感激。トレーニングモードで、前後に歩いたり飛んだりしゃがんだり、撃ったり避けたりを1週間くらい練習した。最初はリュウでやっていたけど、途中でルチャリブレのプロレスラーっぽいやつ(エル・フォルテ)が居るのに気づいて、そいつに乗り換えた。2週間くらい飛んだり跳ねたり、ブルブル回ったりを練習して、まあまあ動かせるようになったので、「アーケードモード」に挑戦した。一日30分トレーニングモードをやって、最後に2クレジット分アーケードモードをやるというふうに決めて、一週間くらいプレイしたところで、「ライバル」のザンギエフを初めてやっつけたら、その次に出てきたのが、もう、大塚明夫の声のラスボス「セス」だった。このセスがびっくりするほど弱かった。こんなに弱いラスボスは初めて。初対面で2連勝してエンディング。エンディングムービー(?)のエル・フォルテも、セスなどいなかったかのように、本田に習ったらしいチャンコ(のようなもの)を作ったりしていて、なんか、のどか。
で、いろいろ腑に落ちないものを感じたので、ネットで「エル・フォルテ」の「評判」を検索したら、なんと「ストリートファイター4」では、名うての「クソキャラ」で、「全員」から「嫌われて」いる様子。驚いた。そして笑った。
思い返せば、最後のセス戦同様、「ライバル」のザンギエフとの戦いも「攻略法」がわかってしまえば、手玉に取るように(殆どハメのように)勝てたし、そもそもそこに行くまでの戦いも、一人だけ「やってることが違う(世界が違う)」印象がずっとあった。
で、考えて、気付いた。エル・フォルテは、格闘ゲームのキャラクターではなく、所謂「横スクロールアクションゲーム(アスレチックゲーム)」のキャラクターなのだ。往年の「ストライダー飛竜」(大好き)とか、「忍者龍剣伝」(大嫌い)とか、まあ、「スーパーマリオブラザーズ」とか、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」とか、そういうゲームの主人公キャラの一人。それが、格闘ゲームに乗り込んできて、好き放題やってる。今挙げた諸ゲームとの違いは、エル・フォルテはずっと「ボス戦」だけをやっているということ。ボスまでの「道中(雑魚キャラ戦や、危ない足場を飛び越えるようなアスレチック場面)」はない。だから、まあ、『ワンダと巨像』だよね。
エル・フォルテは、対人対戦用のキャラクターではなく、「アーケードモード」用のキャラクターなのだと思う。つまり、対CPU戦用のキャラクター。だから、「敵=ボスキャラ」よりも攻撃力(火力)が低い。正面からまともにやり合っても勝てない(横スクロールアクションゲームのボス戦にそういう攻略法、輒ちボスと正面からまともにやり合う戦法は絶対に存在しない)。ちょこまか動き回っては、「硬い」ボスキャラに何度も何度も攻撃を当てる必要がある。横スクロールアクションゲームの「ボス戦」って、だいたいそんな感じでしょ? エル・フォルテは、各キャラクター(CPU)との格闘戦で、いちいちそれ(中ボス戦)をやっているだけ。
一番最初にも書いたけれど、著者は「対人対戦」には全く興味がない(観戦は好き)。〔テレビゲーム(コンピュータゲーム)とは、機械を相手に遊ぶもの〕という「主義」なのもそうなのだが、何より、人間を相手に勝っても負けても、どうしても、「だから何?」と思ってしまって、だめなのだ。自分よりも上手い人や頑張ってやり込んだ人には負けるだろうし、自分よりも下手な人や初心者やその日腹具合がおかしかった人には勝つだろう。
人間に勝ったとて、と。テレビゲームにそういうものを全く求めてない。
今の目標は、エル・フォルテを、ネイサン・スペンサー(『Bionic Commando』)くらい自由自在に使えるようになって、CPUが操る「ボス」たちを翻弄しまくること。
2024年7月31日 穴藤
【追記(2024年8月3日)】:さっき思いついたのでメモしておくと、『ストリートファイター4』は、コロ助(エル・フォルテ)とコロ助以外のキャラとの間の、真の意味での「異種格闘技戦」ゲームなのだろう。