2025年10月3日金曜日

『GEN V』season 2 /episode 5 : memo

昨日、寝てる間に思いついたこと。

*サイファー学部長も実は「操り人形」。本体は、ズルムケ人間。輒ち、「閉じ込め症候群」状態のゴドルキンさん。なので、サイファーの手(自分の手ではないから平気)をナイフで刺したりするし、サイファー学部長経由でジョーダンの「中」に入ったときに、閉じ込められてることを苦しがっていたりする。

*「1ヶ月前」の場面で、「世界一頭のいい人間」(キャラ名忘れた)とsexしていたのは、サイファー学部長経由のズルムケ人間(ゴドルキンさん)。

*だから、サイファー学部長自身は、マリーの最初の「見立て」どおり、ただの人間。

*サイファー学部長(と言うか、ズルムケ人間のゴドルキン)の目的は、①マリーを「最強」にして、ゴドルキンさん基準では「出来損ない=未完成品」に過ぎない[ホームランダーを含む現行のスーパーヒーローたち]を一掃すること。もしくは、②「閉じ込め症候群」状態にある自分自身を、マリーの能力を使って「復活」させること(でも、「壮大な計画」といってたから、②は違うかも)。

【追記】

*サイファー学部長が、自分の手にナイフを突き立てたり、「世界一頭のいい人間」(名前忘れた)に顔面を思い切り引っ叩かせたりするのは、ズルムケ人間(ゴドルキンさん)の「操作」に「抵抗」する(「操作」から逃れようと「暴れる」)サイファー本人を「黙らせる(おとなしくさせる)」ために、ズルムケ人間(ゴドルキンさん)がやってること。


2025年10月2日木曜日

『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』第一話:メモ

『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』第一話を観た。

ブランド食材を取り揃えて、高級調理器具で作りあげた、凝った盛り付けの、美味くも不味くもない料理

という印象。

【追記】
「白紙のおみくじ」と「『Black Rain』の松田優作」は好かった。

2025年10月1日水曜日

「ザコキャラ属性」

*ここ一年ほど、ストーム久保(元プロゲーマー)の愉快な配信を愉しんでいるのだが、先日観た動画は、ゲームは一切やらず、親方がションボリ、涙をこらえながら喋るだけの内容だったので驚いた。聞けばどうやら、ネット上に跋扈する「ザコキャラ属性」個体群の毒気に当てられてしまったらしい(但し未確認)。とんだ災難。お大事に。

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*「ザコキャラ属性」の「ザコキャラ」とは、『北斗の拳』の各episodeの冒頭に出てきて、ケンシロウ(時々レイ、極たまにラオウ)に一蹴される、所謂「人間のクズ」たちのこと。

*「ザコキャラ属性」の最大の特徴は「meta認知」能力の貧弱さ。つまり、自分自身の行動を客観視する能力の欠如。だから、「ザコキャラ属性」の個体は、自分の行動が周囲の人間にはどう見えているかが分からない(もし分かるなら、生きているのが恥ずかしくて、とっくの昔にククルかトビオリルかしているはず)。

*仮に「ザコキャラ属性」個体たちが『北斗の拳』を読んでも、登場から1ページ半で主役キャラに「秒殺」されているのが、自分たちのお仲間だとは気づかないだろう(meta認知能力が貧弱とはそういうこと)。

*残念なのは、「ザコキャラ属性」個体が現実世界の職場・学校・路上、そしてSNS上にゴロゴロしている一方で、「ケンシロウ」や「レイ」や「ラオウ」は漫画の中にしかいないこと。

*もう一つ残念なのは、たとえ「ザコキャラ属性」で脳みそグズグズでも、生物学的には「同じ」Homo sapiensなので、世界中の大抵の場所で人権が認められていること。つまり、「ザコキャラ属性」個体たちが、イッパシの人間ヅラをして、のうのうと生きているわけだ。

*「ザコキャラ属性」のもう一つの特徴は、群れたがること。しかし、そうすると自分以外の「ザコキャラ属性」個体の所業(悪行)を目にしていることになる。それにも関わらず自分たちの「真の姿」に気付けないのだから、彼らの欠陥(或いは障害、それとも個性?)は、単に[meta認知能力の欠如]だけではないことになる。

*結局、P. K. Dickが忌み嫌った「アンドロイド」=「姿形は人間と瓜二つだが、感情移入能力を持たない人間モドキ」が、「ザコキャラ属性」個体たちの「正体」に最も近いのだろう。

2025年9月26日金曜日

NHKドラマ『母の待つ里』(全4話):メモ

*葬式に駆けつけた4人の「子供」(利用者)のうち、松永(中井貴一)だけが、藤原ちよさんの「正体」を知らされない展開になるのは、彼だけが自身の抱える「寂しさ」に対して「無自覚」だから。

*自身が抱える「寂しさ」を受け入れた古賀(松嶋菜々子)や室田(佐々木蔵之介)は、無事、「ちよ教」に「入信」し「出家」できた。しかし、「成功者」として「充実」した人生を送っている(と思い込んでいる)松永は「俗世」を捨てられず、都会に戻ることを選ぶ。

*新幹線を待っているときに届いた秘書からのメールを見て初めて、「俺はこの女の居る場所には帰りたくはないのだ」と気づいた松永は村に引き返すが、バスの運転手に行き先を確認されたところで、「母の待つ里」は既に存在しないことを思い出す。

*松永はバスの中で、行くべき場所がない存在になってしまった自分自身を笑う。

*松永がポケットに入れて持って帰ってきた「折りかけの折り鶴」は、「ちよ教」の信者になり損なった松永の象徴。

*ちよさんが松永に語って聞かせる昔話の元ネタは『遠野物語』の「寒戸の婆」?

*ちよさんの「迫真の演技」の理由は、ちよさんが、事実、[深い後悔を抱えこんで、子供の帰りを待ちわびている老母]だったから。

*カード会社の受付け嬢の「画」は要らない。

2025年9月18日木曜日

21世紀版の「生類憐みの令」か?

今、日本やルーマニアで起きている「熊騒動」の背後には、21世紀版の「生類憐みの令」の影がちらつく。軒下にスズメバチが巣を作れば、問答無用で駆除するクセに、ヒグマやツキノワグマが相手になると、途端に動きが鈍るのは、やっぱり、21世紀版の「生類憐みの令」が祟っているからとしか思えない。もっと死人が必要なのか?