2018年3月31日土曜日

ネズミとオヤジ


ミッキーの素顔が露わになったあの日、
ピーターは成人式に乱入し三百人を惨殺した。
町を追われたミッキーは地下に潜り、
やがて言葉を忘れた。
ピーターはうまく警察を撒いたけど、
その夜、オヤジ狩りにあって死んだ。

潜水艦に住む伯父さん


僕の伯父さんは潜水艦に住んでいる。
一年中深い海の底にいて、
潜水艦にはテレビもない。
夜、たまに家に来て、父さんとビールを飲む。
海の底のことを、伯父さんは全然話さない。
いなくなった伯母さんの話ばかりする。

医者と死神


途中だけ見せて医者は勝った勝ったと威張る。
患者もそれを有り難がる。
だが、俺と最後までやりあって勝った医者なぞただの一人もいない。
匙を投げようが投げまいが、
下駄を履こうが履くまいが、
勝つのはいつも俺だ。

ギリギリマシーン


俺はギリギリマシーン。
朝ギリギリと起きて、猫の目が開く。
昼ギリギリと歩いて、犬が吠える。
夜ギリギリと騒いで、壁を叩かれる。
もうすぐ壊れるギリギリ。
もうすぐ燃料が尽きるギリギリ。
もうすぐキレるギリギリ。

パセリを残して怒られた


パセリを残して怒られた。
そんなことだからと嘆かれた。
残念だと頭を振られた。
どう考えてるんだと詰め寄られた。
困ったやつだと呆れられた。
無言で三杯ワインを飲み干された。
だから、パセリはウサギに食べさせた。

死んだ人が生き返って


死んだ人が生き返って、墓場から出て来た。
死んだ人は、あの世についてテレビで話すことになった。
けど、死んだ人は、ただ恥をかいただけだった。
有名な霊能者の問いに何一つ満足に答えることが出来なかったからだ。

キョーチ


キョーチに到達することが何より重要だ。
と、その人は云った。
僕たちは、確かに、と頷いた。
けれど、僕たちの誰一人として、キョーチを知らなかった。
行ったことはもちろん、地図で場所を指すことすらできないのだ。

高い木に登って降りられない


高い木に登って降りられない。
夕方で、誰も助けに来ない。
仕方がないので夕日を見ながら考える。
星空の下の高い木の上で、遂にスゴい事を思いつく。
きっと世界中が腰を抜かす。
でも、一人じゃこの木を降りられない。

黄色い封筒


黄色い封筒を渡される。
封が開いていて、中身がない。
盗まれましたよ。
配達員が言う。
遠の昔にすっかりと。
配達員は同情する。
盗んだ者だけが、手紙の内容を知っています。
差出人はすでにこの世界にはいないのです。

黒い虫


植木鉢をどけると黒い虫。
しきりに何か呟いている。よく聴くと、
もうだめだ、もうおしまいだ
と繰り返している。馬鹿げた悲観論。
と、鳥が一羽舞い降り、彼をひと飲みにする。
やっぱりだ!
黒い虫は鳥の腹の中で叫ぶ。

2018年3月27日火曜日

1-9:乗船


夜のフェリーターミナル。妙に高いところを歩いて大きい船に乗り込んだ。船は水でもない陸でもない暗闇に浮かんでいるように見えた。余分にカネを払って二人部屋を占有したので、あてがわれた船室にはベッドがふたつあってバカバカしい。鍵付きの入り口、洗面台、テレビ、電気ポットは好いとして、低い天井のセントラルヒーティングが嫌な音でウルサイ。しかし全体としては、小さい絵のような独房感に居心地の良さを感じた。もしアレなら三年くらいは大丈夫だろうし、半年ほどなら積極的に住んでみたいほどだが、あさっての朝には追い出される。羽を休める場所もなく飛び続ける蜂。それが生きとし生けるものだとチベット人も云う。

出港。動いている感じはない。大きさのせいだ。移動装置としては地球最大規模で、乗り込むためだけの特別な設備まである。さっき歩いた搭乗橋。英語で云えば「boarding bridge」。こんな代物は、他は旅客機か宇宙ロケットくらいだろう。しかし旅客機もロケットも正体は窮屈な乗り物で、そこにパーソナルスペースの概念はない。同じ詐欺が大劇場や大映画館。客は狭い椅子に長時間縛り付けられるためにカネを払う。その点フェリーは違う。広さの割に乗船客が少ないせいもあって、まるで早朝の街をブラブラする感じ。展望室、甲板、食堂、カフェ、売店、大浴場。利用する気はなくても、あるというだけで好い気分なのも街歩きに似ている。

煙草をつけた。
「まるでクジラだ」
クジラ?
「クジラの腹の中に住んでたジイサンがいただろ?」
ピノキオの?
「それ!」
原作はクジラじゃなくてサメだけどね。
「サメの腹の中では暮らせないな」
クジラよりもデカイサメなのさ。
「デカいってどれくらい?」
キロメートル単位。
「そりゃあ豪勢だ」
まあ、巨大海洋生物の腹の中というのは確かにそうだ。
「住もうと思えば住める」
いや、でも医者がいないから。
「医者なんか…。煙草を吸って好きに死ね」
命が惜しくて云ってるんじゃなくてさ。
「そりゃそうだ。医者に命は救えないからな」
歯が痛いとか…
「医者がいてもいなくても人間は一人の例外もなく死ぬ」
耳が詰まったとか…
「最後に勝つのはこっちだ。連戦連勝の負け知らず」
花粉症がツライとか…
「気がかりは生き続ける煩わしさか」
そう。だから医者は要る。死の一刺しはどうすることもできないけど、生の小さな刺くらいなら抜くことが出来る。

ツカレタ。
煙草を消した。
寝る。

2018年3月26日月曜日

1-8:大移動


屋根の上のプラットホームを、昨日買ったキャリーバッグを怖々引きずりながら進む。朝9時の青い空が鳴っている。下界の音が反射しているのだろう。ベンチに腰を下ろして電光掲示板を見上げた。タンバ…テツロー…ホシノ…銀河鉄道…ジョバンニとカムパネルラと機械の体…死なない体…不死人間…
「死ななくなったら、それはもう人間とは違う何かだ」と煙草をふかす死神B。
そりゃそうだ。まったく。

電車が来た。
乗り込んだのは禁煙車両。電車に限らない。近頃はどこも死神除けの護符だらけだ。ともかく、これでしばらくはヒトリキリ。

電車が助走を始めた。
樹の間を走る。
畑の上を走る。
山の脇を走る。
道の横を走る。
そしてそのまま終点に着いた。最後まで助走。
目的が果たせるなら無理に飛び立つ必要はない。ずっと助走でカマワナイ。

死神除けの護符のないじっとりと静かな午後の道端で一服する。ヨタヨタと大きな鳥が飛んで行く。
「鳥だって本当は飛びたくはないだろう」
人間だって本当は生まれたくはないさ。
「生き物はみんな本当は生まれたくはない」
誰も死にたくはないから。
「命の誕生を祝うのは最凶の欺瞞だよ」
惨めすぎて笑うしかないのさ。
「欺瞞のラスボス。人間にはとうてい倒せないぜ」
これからも誕生を祝い続けるんだろうなあ。
「誰にも倒せないからな」

>出て、まっすぐです。迷いません。
>まっすぐ?
>一本道です。
>一本道?
>大きい交差点を過ぎたら…
>交差点?
>まっすぐ行って下さい。
>交差点を?
>曲がらないでまっすぐ。
>交差点をね?
>あとは一本道。
>迷いませんか?
>迷いませんよ。

一本道は直線ではない。あらぬ方角に歩き続ける時間帯が必ずある。そして大抵の「一本道」にはたくさんの脇道さえある。山奥でもない限り一本道は決して一本道ではない。「慣れ」とは見えなくなり、気付かなくなること。データは丸められ、事実は心象に置き換わる。殆ど全ての一本道は省略と思い込みの産物。曇りなき眼には決して映らない幻。現実にあるのは折れ曲り、次々に枝分かれしていくタダの道。

日が落ちた。
「闇は光を求める者の忠実な執事さ」
遠くに煌々と輝く建物。
「まず間違いなくあそこだな」
名ばかりの一本道と決別し、道ではない場所(おそらく駐車場、でなければ工場か倉庫の敷地内)を、キャリーバッグの底のコロを鳴らして進む。初出勤でボロボロにされるのは末端労務者の宿命で諦めるしかない。

フェリー乗り場に着いた。

2018年3月25日日曜日

1-7:色素


5回目の引越しのあと離職。実は離職するために前もって安いところに越したのだ。家財道具の大半はリサイクル業者に売り払い、すっきりした四畳半に咥え煙草で寝転んで天井を見上げると、身も心もひんやりと心地いい。

コンピュータの画面で小さな蝋燭の列を眺める毎日。ふつうの蝋燭は縮むだけだが、この赤と青の小さな蝋燭は縮むし伸びる。重要なのは出会いよりも別れだ。良い別れは一時間を一週間にする。あるいは一ヶ月にする。一方で、拙い別れはひたすらの無為。
「危ういもんだ」
だが悪くない生き方だ。
「ところが」
ところが?

その夜(日本時間)、外国の双子ビルの一方に旅客機が突っ込んだ。テレビが嬉々として中継している背後で更にもう一機が最初無事だった方に頭から突き刺さった。期せずして世界同時生中継。
事故?
「いや、これは特攻だな。謂わばカミカゼ・リターンズ。半世紀ぶりの悪夢でありカタルシス。持たざる者達の血の叫びは、持つ者達の理解の埒外さ」

翌朝、アパートの上空にヘリコプターの羽音。窓を開けても、あるのは青い空ばかり。乗っ取られた旅客機は飛んで来そうで飛んで来ない。地球規模のドッキリを疑う。虚構のような現実も現実は現実。おかげで赤と青の蝋燭が縮むばかりで伸びなくなった。止むを得ずバイトを始めた。

新しい職場は極近い。外が真空の宇宙だったとしても生身で通えるほど。この通勤の軽便さだけが魅力で、あとはただドンヨリ。重量物の運搬。レジ打ち。品出し。冷蔵庫。棚卸し。暖簾の隙間から店の様子を伺い、他のバイトのイラッシャイマセの声を聞く。

煙草休憩。バックヤードは店ビルと謎の廃屋に挟まれた「中庭」。廃屋は出入り自由のガラクタ置き場で、そのガラクタの中に古い姿見が立っていた。そこに顔面包帯巻きの男が映り込んでいる。包帯に刺した煙草に、こちらの煙草の火を移す。
「こりゃ一体なんだい?」
仕事さ。
「仕事だって?」
一服したらジャガイモの芽を取る。
「芽を取ってどうする?」
箱に戻して売る。
「あの箱全部そうか?」
ああそうだ。
「それが仕事か?」
商売さ。
「アクドイな」
商売はアマネクそうさ。
「確かに。全ての商売人は詐欺師か泥棒だからな」
泥棒?
「自然の成果を盗み取ってる。ところであの名前はなんだ?」
カレー煎餅の袋の裏に書いてあったのさ。
「それで?」
まずカタカナの字面が気に入った。語感もいい。
「しかしただの着色料だぜ」
うん、それは全然気にならないな。

2018年3月20日火曜日

1-6:遅延遅滞


毎朝毎晩トラックが遠くから店に運んで来るものを、毎朝毎晩契約者宅に届ける仕事があって、それを10年ほど続けた。そのトラックは出発直前の重大事件発生で確実に遅れる。機械の不具合でも遅れる。高速道路の渋滞でも、運転手の病欠でも、特に理由がなくても遅れる。トラックは、そして自分たちは、毎朝毎晩、本当は一体何を運び届けていたのだろう?

午後2時45分。いつもの一番乗りが来てタイムカードを押す。中年、独身、実家暮らしのフリーター。トラックはまだ来ないが常態。

午後3時15分。アルバイトの半分がタイムカードを押した。トラック未着は誤差の範囲。

午後3時半。ほぼ全員が揃ってトラックを待つ。喋り続ける主婦のカタマリ。側溝の蓋の格子に煙草の灰を落す男のカタマリ。眼を閉じて一人座る82歳独居翁。連れて来た孫の機嫌を取る60代祖母。そして不機嫌なしゃくれあごの大番頭。
ファクシミリが鳴った。一同注目。大番頭が紙を取り上げて読み上げる。
「リンテンキ故障のため1時間の遅れ」
「そんなに壊れるもんかね」「見え透いてるなあ」「いつからの1時間よ?」
アチコチで苦虫と冷笑。壁の時計あるいは腕時計を見る。

午後4時過ぎ。いつもシンガリの高二男子(無口)が入店。普段見ない「同僚たち」の集団に一瞬タジロぎ、奥の奥に陣取る。この無口の口には「ナイフ」が隠されていて、女連れの若い男と路上で一悶着やらかしたこともある。空っぽだから無口とは限らない。過剰ゆえに無口ということもある。特に男の場合には。

午後5時半。さっきのファクシミリが口から出まかせだと知れる。無口の高二男子でさえ普段なら仕事を終える時刻。電話が鳴り始めた。問い合わせと苦情。配送の遅れを伝えて謝罪し電話を切る。少しするとまた鳴る。同じ説明で謝り、受話器を下ろすとまた。その繰り返し。

熱を持った耳介に受話器を当てると送話口から煙草の匂い。客ではない声が云う。
「客は一度しか電話をかけないのに、店の電話は鳴りやまないのがオモシロイ」
当たり前だ。客は一人じゃない。千人以上いるんだ。
「それはご愁傷様。まあ、あと2時間ほどの辛抱さ」

間もなくトラックが到着した。結局3時間遅れ。配達人たちは我先にと受け持ち分を抱えて店を飛び出す。電話は鳴り続けた。1時間後、無口の高二男子が真っ先に配達を終えて帰って来たのを見て、生まれた順番が必ずしも死ぬ順番ではないことの真意を悟った。気がした。

2018年3月19日月曜日

1-5:引越魔


最初の引っ越しは鞄一つ。共同便所共同電話風呂なしアパートで都合5年。

次の引っ越しも荷物は自分で運んだ。ただし数日に分けて。引越し屋要らずの引越しのコツは一時的に住処が二つある状態にすること。そうやって越したのは9階建てのエレベータ付きオートロックマンション。上層はファミリー向け、下層は単身者用ワンルーム。即ち独房。その独房に越して数年目の或る朝、仕事から帰ると玄関前に機動隊員が一人立っていた。
「ここの住人ですか?」
頷く。
「何階?」
独房階を答える。
「分かりましたドーゾ」
…?
「9階にオウムです」。
テレビの騒ぎがこんな身近にあった意外と失笑と鬱陶しさ。コンビニで賃貸情報誌を買った。

引越し三軒目は土地持ちのアカラサマな節税物件。一階廊下がガラス張りで、大家自慢の庭を見せびらかす。部屋は広めのワンルーム。キッチンは大げさなレンジフード付き。洗濯機専用防水パンもあって当初は申し分ないと思ったが実は欠陥住宅。住み始めるとすぐに結露で床が水浸しになり、部屋中カビの白い綿毛で覆われた。塩素系洗剤を撃つ毎日だがイタチごっこ。あるいは焼け石に水。結露のせいでコネクタがダメになり電話が繋がらなくなった。直してもまたすぐにダメになるから引越しするしかないと修理業者の忠告。カビの害は本、服、家具に拡大。ついに妙な咳が出始める。咳き込みながら、最初に嗅いだ正体不明のニオイを思い出す。換気の重要性を説く初対面の大家のハゲ頭。こちらが無意識に閉めた窓を「いや、そのままで…」といちいち開け直す。入居前に様子を見に行くと窓が開いている。不用心なので閉めて帰るが、次に行くとまた開いている。全て大家の仕業で、少しでも換気を怠るとどうなるかを知っていたのだ。カビ屋敷からは二年弱で撤退。

その反省を込めた四軒目は陽当たり良好の南向き。木造モルタル二階建ての二階。各階に部屋は一つずつ。おかしいのは一階にドアが二つあること。二階のドアは建物側面の鉄階段を上った先にある。一階の二つのドアは、一階が元は二部屋だった名残。引越しの結果は4連敗。「陽当たり良好」は冬だけ。それ以外はずっと灼熱地獄。朝帰りのファミレス(赤ワインと韮饅頭)をトイレで吐いていると、灼熱の出窓に腰を下ろした顔面包帯男の咥えタバコ。
「部屋が借りられる理由を考えたことがあるか?」
貸すヤツがいるからだろう?
「いーや。その部屋を出て行ったヤツがいるからだよ」

2018年3月18日日曜日

1-4:珈琲


仕事仲間のハンチング帽のオヤジが「仕事の前にまずは珈琲だ」と誘った。連れて行かれたのは、大通りに面した古い薬局。実は喫茶店を併設している。事務所の目と鼻の先にあって、朝晩前を通り、何度か薬を買ったことさえあったのに、まるで気づかなかった。外観はほぼ完全にただの薬局。母娘で経営していて、薬局を娘(六十代)、喫茶店は母(八十代)が担当。入り口は一つ。一旦薬局に入り左側の暖簾をくぐると喫茶店が現れる。店内はカウンターの三席のみで極狭い。
誰もいないので適当に座る。
イラッサイ、と老婆が奥の住居部分から登場し、ヤア、イツモオオキニ、とハンチング帽に愛想を云った。縮んで色が抜け生地も薄くなった古タオルのような老婆。ヤア、オカーサン、マタキタヨ、と黒ずんだ顔に満面の笑みのハンチング帽。メニューは、珈琲、紅茶、牛乳の三つのみ。二人とも珈琲を注文。それで初めて知ったのだが、ここの珈琲は謂わば「鍋焼き珈琲」。よく云えば西部劇スタイル。無論、常連のハンチング帽は最初から知っていた。
カウンターに座って、片手鍋の中で珈琲が煮えるブシブシという音を聞いていると3人目の客が入ってきて最後の席に座った。老婆はチラリとその客を見て、しかし「う」の字のカタチで黙って鍋の柄をつかんでいる。
オカーサン、ハイザラ、モラエル?
老婆から灰皿を受け取ったハンチング帽は煙草をつけた。第三の男も、顔面にぐるぐる巻きした包帯の口元に煙草を刺した。老婆は「う」の字のままでまたチラリとそれを見た。包帯男は、右手は上着のポケットに入れたまま、白手袋の左手でライターを擦って煙草に火をつけ、フーと白くて大きい煙を吐いた。ハンチング帽は全く気づいていないようだが、老婆はそっと煙を払う仕草をしてから、湯気の立つ珈琲を鍋からカップに注いだ。
「どうだい?」と包帯男が珈琲の味を尋ねた。
こんなもんだろう。
「真の珈琲好きはどっちだろう?」
何が?
「珈琲と名がつけば何でもやたらに飲む奴と、美味い珈琲以外は口にしない奴と」
カフェイン中毒なら前者さ。でもそれは〈好き〉とは違うよ。
「工業用アルコールは〈好き〉では飲まないよな」
それさ。
「だが滅多に美味いと思えないのも?」
本当は好きじゃない?
「その可能性は高くないかな?」
なるほど。珈琲に限らず、映画でも音楽でも男でも女でも、何についても同じことが云えそうだ。この視点は案外に応用範囲が広い。
鍋焼き珈琲を啜る。

2018年3月13日火曜日

1-3:グリル


その店には三日とあけず通った。但し条件あり。
条件(1)残金に余裕がある。
条件(2)日が沈んで外が充分に暗い。

金文字で店名をプリントした珈琲色の強化ガラスの扉を引くと店内は暗い。橙色の照明と模造レンガの壁。入ってすぐの左側にある階段で二階の雀荘(外に看板)に行けるが用はない。人間と競っても虚しいだけ。中央に長いカウンター。右側にテーブル席(複数)。奥に伸びるその光景はキリコの『街の神秘と憂鬱』。すなわち、壊れた遠近法と消失点の消失。入り口の一番近くが逆に死角の指定席で、最も暗く、店内全体を見渡せる一等地。

マスターが来て、ニヤリ頷く。水のグラスを置く。
「今日は(なんにする)?」
常連相手の気安い口調。
とんかつ定食(和風おろしポン酢味)を。
マスター再度、ニヤリ頷く。
この街で半年。生乾きの常連感。

カウンターの向こうで、咥え煙草のマスターがつまらなそうに作る料理が美味い。料理は愛情ではない(断じて)。技量/感覚/時機。そしておそらく何よりも沈黙。三日とあけずに通える店の条件の方程式は、(美味さ+沈黙+時機)÷距離。距離が増すほど評価点は下がる。
グラスの水を飲む。

食事を終えると、注文していない珈琲をマスターが持ってきた。
「サービス」
礼を云うと、マスターはニヤリ頷く。
マスターが行ってすぐに別の煙草のニオイがした。
死神B。
向かいに座って、今マスターが持ってきた珈琲を、顔面包帯ぐるぐる巻きのままで勝手に啜り、「まあまあだな」と、訊いてもいない感想を述べた。
「この店の味が一生残る味になる」
こんな喫茶店飯が?
「喫茶店ではないな」
グリル。
「グリル」
グリルってどういう?
「焼網」
ヤキアミ?
「簡易食堂」
なるほど。
「炎でじわじわ炙る」
もういいよ。
マスターは(やはりつまらなそうに)二階の麻雀客用の料理を作り始めた。
「所謂おふくろの味になる」
そこまでの思い入れはないけど。
「今はないさ。しかしあとでそうなる」
あと?
「そう、ずっとあと。25年後」
確信してるね。
「知ってるのさ」
赤の他人が作ったタダのおろしポン酢トンカツ定食。薄い肉と水の出た千切りキャベツの貧相な盛りつけを思い浮かべる。
「決め手は、誰が作ったかではないし、どこで食ったか、いつ食ったかでもない」
じゃあ、何?
「得られた安らぎの量だよ」
ヤスラギ?
「心の平安さ」
アンタにはあるの?
「coffee and smoke!」
死神Bは珈琲を啜り、煙草を吹かした。

2018年3月12日月曜日

1-2:払暁前


記憶すべきは道順。道順が全て。雨の日も雪の日も。
内階段(闇黒)→共有廊下(月光)→内階段(闇黒)→道路(月光)。
押して歩く→裏に回る→隙間に差し込む。路地に入って抜ける。
大通りの赤信号(点滅)=渡る→走る→止まる。高層←見上げる。
暗証番号→開くガラス扉。
エレベータ(煌煌)に乗り込む=沈む(サスペンション機構)。
ダイナモの高速回転/ワイヤーを巻き取る高周波音。
到着→出る→歩く。
排気口の湯気を屈む/明滅する蛍光灯を聞く/アヒルの三輪車を跨ぐ。
テレビの小さな音/ラジオの大きな声。
地上15階から横に見る赤い月と薄い星座。

線路を潜る車道のアスファルトに張り付いた奇怪なラグ(rug)は、猫の道とトラックの道の切線に現れるべくして現れた遺物。

坂を登ると頂上に犬。
犬:いい朝ですね。
ついて来る犬。
坂を下りて広い道。
犬:じゃあまた明日。
引き返す犬。

払暁前の街の冷えた空気は化学分子のニオイ。
植え込みの服は赤と白の子供用。
無人の管理人室の、人の気配がないという気配。
またエレベータ。この後にも。この後の後にも。
最上階から始めて、上から下に一層ずつ片付けていく。
外階段を降り廊下に戻るドアを引くと(!)開かない。
煙草のニオイ。
階段の上に咥え煙草の男。顔面包帯巻き/詰襟/黒づくめ。
死神B。
「昨日また飛び降りたのさ」
名所だから。
「名所だから」
当分開かない?
「この上の階だけ開いてる」
罠だ…
階段の囲いに片腕を乗せて下を覗き込む死神B。
「ちょうどこの真下」
即死?
「そうでもない」
助かった?
「いや」
止むを得ず外階段を下まで下りる。中庭(駐車場)に出て見上げると、階段から覗く死神Bの煙草の赤い光。それがゆっくりと落ちて来て、足元でこっそり弾けた。
危ないな(軽い非難)。
「外れた(悪ふざけ)」
知らぬ間に横に立っている死神Bは、拾った煙草をまた咥える。立ち昇る煙。
連れて行ったの?
「誰を?」
ここで死んだ…
「痛い痛いって云いながら死んだ?」
そう、その彼を…
「彼じゃない。彼女」
その彼女を…
「なに?」
連れて行った?
「どこに?」
死んだあとに行く所。
「安置所?」
死者の(?)国。
「死後にはどんな世界もなかろう?(再確認と同意要求)」
アンタがそれを云う?
「むしろ他に誰が?」
じゃあ、何もしない?
「いや、これを渡した」
死神Bは光る輪を取り出した。
何それ?
「本物の天使の輪さ。しかも今や貴重な純国産」
ただの30型の蛍光灯だろう?
「バカな!」

2018年3月11日日曜日

1-1:四畳半


四畳半に直置きしたレコードプレイヤーにヘッドホンを繋いで夜通し音楽を聴き続けてもうすぐ3ヶ月という或る夜明け前にそいつは来た。顔面包帯ぐるぐる巻きの詰襟の黒づくめ。四畳半に正座して、包帯ぐるぐる巻きを物ともせずラッキーストライクを威勢良く煙に変えていく。
「それは、盤面の溝を、炭素のアロトロープで作られた針で読み取って電気信号に変え、その電気信号で発生させた磁力で薄膜を振動させることで一連の音、すなわち音楽を再現する、古典的メハニカだね」
怪人はそう云うと、持参した缶珈琲の空き缶の口にタバコの灰を叩き落とした。
「で、もう行く気はない?」
初めから行く気はなかったんだ。
「カネはどうする?」
考えてない。
「餓死か?」
それもいい。
「餓死はつらいな。どうせなら凍死だよ」
凍死は苦しくない?
「凍死はいい。でなきゃ拳銃。しかしこちらはカネかコネが要る」
タバコの煙が四畳半に充満していく。

レコードが終わった。起き上がろうとしたが起き上がれない。震える背中に熱い空洞が広がる感じ。低血糖症。最近たまにある。
「どちらにしろ髪は切った方がいい」
低血糖対策で?
怪人は左手の白手袋で煙草をCの字につまんで火を眺める。
「鬱陶しいからさ」
冷蔵庫のダイエットコーラを思い出した。
「甘味料が糖分の代わりになるのか?」
炭酸ガスで腹は膨れる。
「それで?」
動けるようになる。
「ならそれは低血糖症じゃなくて金縛りだろう」
金縛り?
「金縛りなら放っておいても目が覚めれば動けるようになる」
金縛りは夢?
「金縛りは夢さ。当たり前だろ」
金縛りじゃないなら?
怪人の白手袋に震える右手を掴まれ持ち上げられる。
「これは義手だ」
いや本物だよ。動かしてみせる。握って開いて。ほら自在。
「動かせたとしても」
震える右手を畳の上に戻される。
「右手をなくしたのが動けない理由さ」
 なぜ?
「大量の失血」
右手はある。
「ない」
立ち上がる怪人。出口のドアの前で振り返る
「いずれ義手の回収人が来る」
来るとどうなる?
「まずいことに」
まずいこと?
「回収人は死神だからさ」
死神はアンタだ。
「俺も死神で、回収人も死神。同じで、違う。通行人AとかBとかいうあれさ。回収をするのは、髑髏と大鎌の有名な死神A。回収をしない俺は、顔面包帯巻きの地味な詰襟の、云ってみれば死神B」
CやDも?
「答える義理はないな」
死神Bは部屋を出て行った。
一人に戻った。体が動く。窓を開けてタバコの煙を外に出した。