2018年3月18日日曜日

1-4:珈琲


仕事仲間のハンチング帽のオヤジが「仕事の前にまずは珈琲だ」と誘った。連れて行かれたのは、大通りに面した古い薬局。実は喫茶店を併設している。事務所の目と鼻の先にあって、朝晩前を通り、何度か薬を買ったことさえあったのに、まるで気づかなかった。外観はほぼ完全にただの薬局。母娘で経営していて、薬局を娘(六十代)、喫茶店は母(八十代)が担当。入り口は一つ。一旦薬局に入り左側の暖簾をくぐると喫茶店が現れる。店内はカウンターの三席のみで極狭い。
誰もいないので適当に座る。
イラッサイ、と老婆が奥の住居部分から登場し、ヤア、イツモオオキニ、とハンチング帽に愛想を云った。縮んで色が抜け生地も薄くなった古タオルのような老婆。ヤア、オカーサン、マタキタヨ、と黒ずんだ顔に満面の笑みのハンチング帽。メニューは、珈琲、紅茶、牛乳の三つのみ。二人とも珈琲を注文。それで初めて知ったのだが、ここの珈琲は謂わば「鍋焼き珈琲」。よく云えば西部劇スタイル。無論、常連のハンチング帽は最初から知っていた。
カウンターに座って、片手鍋の中で珈琲が煮えるブシブシという音を聞いていると3人目の客が入ってきて最後の席に座った。老婆はチラリとその客を見て、しかし「う」の字のカタチで黙って鍋の柄をつかんでいる。
オカーサン、ハイザラ、モラエル?
老婆から灰皿を受け取ったハンチング帽は煙草をつけた。第三の男も、顔面にぐるぐる巻きした包帯の口元に煙草を刺した。老婆は「う」の字のままでまたチラリとそれを見た。包帯男は、右手は上着のポケットに入れたまま、白手袋の左手でライターを擦って煙草に火をつけ、フーと白くて大きい煙を吐いた。ハンチング帽は全く気づいていないようだが、老婆はそっと煙を払う仕草をしてから、湯気の立つ珈琲を鍋からカップに注いだ。
「どうだい?」と包帯男が珈琲の味を尋ねた。
こんなもんだろう。
「真の珈琲好きはどっちだろう?」
何が?
「珈琲と名がつけば何でもやたらに飲む奴と、美味い珈琲以外は口にしない奴と」
カフェイン中毒なら前者さ。でもそれは〈好き〉とは違うよ。
「工業用アルコールは〈好き〉では飲まないよな」
それさ。
「だが滅多に美味いと思えないのも?」
本当は好きじゃない?
「その可能性は高くないかな?」
なるほど。珈琲に限らず、映画でも音楽でも男でも女でも、何についても同じことが云えそうだ。この視点は案外に応用範囲が広い。
鍋焼き珈琲を啜る。