「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年12月19日水曜日
現の虚 2014-4-7【消火栓の手品男】
僕は管理人のエリちゃんに描いてもらった地図を取り出した。廊下のどん突き。この赤い金属の箱が、おそらく地図に示されたチェックポイントの消火栓だ。
蓋を開けた。空っぽだった。箱の底によく分からない小さな虫の死骸がいくつも干からびていた。ゴキブリでも蠅でもない、脚の無数にある楕円形の虫の死骸だ。他には何もない。
仕方がないので蓋を閉めると、何かがつっかえた。なんだろうと思って開け直してみたら、さっきはいなかった裸の男が狭い中に膝を抱えて座っていた。なんだか生きてる人間ではないような、具合の悪そうな顔。その上、髪の毛も眉毛も腕毛も臑毛も、そしてたぶん睫毛もない。きっと無毛症なのだ。
手品…
その、なんだか生きてる人間ではないような顔をした無毛症の男がぼそりと云った。僕はうっかり、エッと訊き返す。男はもう一度繰り返した。
手品…
無毛症の手品男は唐突にスキンヘッドをカリカリ掻いた。
終わり…
手品男はそう云ったきり黙った。あとはただ恨めしそうなギョロ目を僕に向けるだけ。僕は辺りを見回した。他に消火栓は見当たらない。
探してるの…?
手品男が訊く。僕は頷く。
何を…?
僕は手品男に地図を見せ、消火栓を探しているのだと云った。手品男は膝を抱えたまま眩しそうな目でしばらく地図を眺め、首を傾げた。そして僕を見た。
閉めて…
と、手品男。僕は一瞬何のことだか分からなくて無反応だ。
蓋…
と、辛抱強い手品男。ああ、と僕。僕は消火栓の蓋を丁寧に閉めた。今度は最後まできちんと閉まった。
僕は噛み終えて味のなくなったガムを窓から投げ捨て、最後の一枚を口に入れた。つまり、どこかで新しいガムを手に入れない限り、もうあまり時間がない。珈琲味のガムをゆっくり噛みながら、地図をグルグル回して、来た道を思い返す。道を間違えたとは思えない。やっぱりこの消火栓だ。どう考えてもそうだ。僕は再度消火栓の蓋に手をかけた。
まだ…
中から手品男の声が聞こえた。
あ、もういいよ…
僕は蓋を開けた。手品男の姿はなかった。虫の死骸もキレイになくなっていた。代わりに未開封のガム(10枚入り)が置いてあった。
やる…
どこからか手品男の声がした。僕は遠慮なくそのガムを貰った。するとまた手品男の声が、
閉めて…
僕は云われるままに消火栓の蓋を閉めた。
開けて…
開けた。また未開封のガム(10枚入り)が置かれていた。
無限増殖技…
僕はその行程を何度か繰り返し充分な数のガムを手に入れた。