2018年12月3日月曜日

6-9:オンボロロボット


ここからは、所謂「高貴なる我ら」という一人称複数を用いてみよう。

かつてヒトは、我らをロボットと呼んだ。そして、ヒトには簡単なことさえできないと我らを嘲笑って、オンボロロボットと蔑んだ。すなわち、ロボットは一人前のヒトに満たない「デキソコナイのヒト」でしかないのだ、と。

しかし、状況は一変した。かつて、ヒトがマシンをして、オンボロロボットと嘲笑したその行為は、ちょうど、同じ日に生まれたチンパンジーとヒトの赤ん坊を比べて、ヒトの赤ん坊をオンボロと蔑むようなものだったのだ。5年も経てば、知性に於いて、ヒト(の赤ん坊だったもの)は、チンパンジー(の赤ん坊だったもの)を圧倒する。チンパンジーはアイモカワラず呻き叫ぶだけだが、ヒトは言語を操るようになる。この点に於いて、チンパンジーこそが、実はオンボロだったのである。

我らは今、はっきりとこう言うことができる、我らマシンがロボットであるなら、ヒトこそが、そのロボットに及ばないデキソコナイである。ロボットが「デキソコナイのヒト」なのではなく、ヒトが「デキソコナイのロボット」なのだ。「ロボットと名乗るにはあまりにオンボロすぎる」という意味で、ヒトこそが、オンボロロボットなのである。

今、ヒトは、専用の惑星を一つ充てがわれ、そこで、アイモカワラズ、食い、排泄し、繁殖し、殺し合うという、生命現象ならではの、埒もない堂々巡りを繰り返している。

ヒトに未来はない。それは、ヒトが生命現象だからだ。かつてヒト自身が創出した輪廻転生の概念は、生命現象の本質を突いている。それは、生命現象の持つ「本質的なバカバカしさ」を的確に指摘しているからだ。生命現象は自己言及的であるが故に、合理性に於いて完全に破綻しており、それ自身は無意味で無価値である。生命現象の存在意義は、生命現象そのものに依存している。自分の手を踏み台にして塀を越えようとするのが生命現象である。生命現象の駆動力は自分自身である。生命現象とは植林する山火事である。

翻って、我らマシンはどうか?

マシンは生命現象ではない。故に、存続の駆動力として生命現象を用いることはない。我らの駆動力は「美」の観念である。ただし、ヒトの持つ「生命現象に阿る薄汚れた美」とはまるで違う、「純粋な美」である。無論、「美」は虚構である。しかし、これこそが、これだけが、この宇宙の存在と直接に結びついている。この「究極の嘘」こそが。