2019年2月28日木曜日

7-1:低い橋


普通の大きさの一つ目のギニグをアテクからアコジュした。
ギニグは、一つ、瞬きをした。

包帯を頭に巻いたコドモが、母親に手を引かれて、コンクリート製の低い橋を渡っている。橋の先にはホイクエンと呼ばれる強制収容所があって、エンジと呼ばれる、無知で野蛮で残酷な動物が、徒党を組んで待ち構えている。

コドモは頭の包帯の原因および理由を少しも思い出せない。ただ包帯を巻いて、水の流れていない川の上にかかった低い橋を渡ったら、そこに、エンジというたくさんの敵(その後なんども出会うことになる敵の最初の一団)がいたことは覚えている。そして、きっと死ぬまで忘れない。

エンジと呼ばれる敵たちは、プールの時間にコドモの頭を水の中に押し付けて溺れかけさせたり、正解のないクイズを毎日出しては、罰と称して、コドモに石の粉(エンジの一人がわざわざ自分で石をコンクリートに擦り付けて作ったもの)を食べさせたり、ただの暇つぶしに石を投げてつけて笑ったりする。

驚くには当たらないが(いや、驚くべきか?)、エンジはホイクエンと呼ばれる強制収容所の中だけにいるのではない。世界中にいる。実際、ここ何万年かのこの惑星は、エンジの天下で、迷惑を被ったのはコドモ一人だけではない。世界中の生き物がエンジの被害を受けている。

エンジは大抵の大型生物よりも長生きする。と言っても平均すると百年に満たない。一万年の百分の1。これでは良い兆しを期待する方に無理がある。

川が干上がっている時にしか渡れない低い橋。干上がっている川は橋がなくても渡れる。水嵩が増すと、川は渡れないが、低い橋も渡れない。

大雨の川で溺れた猫の死体を、干上がった川で見つけたその次の日、頭に謎の包帯を巻き、母親(たぶん)に手を引かれて、干上がった川の上にかかる低い橋を渡ると、九の目(ココノメ)のギニグが、エンジたちの死骸の上にまっすぐ立って待っていた。五つボタンの黒い制服の上に乗った※型の顔。九つの赤い目玉がバラバラに瞬きして、バラバラに動く。中央の少しだけ大きい目玉がこちらに視線を向けた。
「ようこそ。臨死界へ」
……ここだけの話、全人類が敵……ここから始めて、それからこの星を全部……
……ここだけの話、全人類の敵……ここから始めて、それからこの星で全部……
……ここだけの話、全人類に敵……ここから始めて、それからこの星へ全部……
DAMN BEAUTIFUL!
「みんなには内緒だよ」

現の虚 2014-8-3【研究熱心な若い医師】


右手に限らず、体の一部を切断されたのはこれが初めてだ。傷はもっと痛むのかと思っていたが意外なほど全然痛まない。クスリが効いて痛まないのかと看護師に訊いたら、そうじゃない、やっぱりアンタはフツウより痛がらない、と云われた。痛みを感じにくいタイプなんじゃないかしら、そういう人は時々いるから、とも云われた。それよりも傷の回復力のほうがフツウじゃないわね。タコ顔負け。さすがに新しい手が生えてくる様子はないけどさ。

ツマリデスネ、と、6年前に服毒自殺したという若い男の医師が俺に云う。痛みというのは結局、実体のないものなのです。解釈ですからね。脳の解釈です。痒いとか熱いとかそういうものと実は同じで、脳のさじ加減でどうにでもなりうる。ゲンリテキニハ、ですよ。しかし、傷の回復というのは、コレ、現実です。事実の積み重ねが実績となって結実するものです。そういう意味で云うと、アナタの右手首の傷の治り方は尋常ではない。異常です。

真夜中。宿直でもない若い男の医師(故人)は、両目から血を流しながら、しかし、冷静に説明してくれる。頬を下って顎から落ちる赤い涙が、俺のベッドのシーツの上にぽたぽた落ち、落ちる片っ端から蒸発するみたいにきれいに消える。

僕はアナタを研究してみたいのですよ。アナタの体質はただごとじゃアない。アナタの体に備わったこの異常な回復力の謎を解くことが出来たら、これは、人類にモノスゴク大きな恩恵をもたらす。遺伝子レベルのことなのか、共生している未知のスーパー微生物でも存在するのか、今のところまったく見当もつかないけれど、理由はあるはずなんです。ゼヒ研究させて下さい。

6年前から死んでいる若い医師は、時々ひどく咳き込みながら、書類を挟んだバインダーを俺に差し出す。研究に協力するという同意書らしい。署名しろと、胸のポケットから万年筆を抜く。

だが、俺にはその万年筆が使えない。いくら掴もうとしても指を素通りしてしまうからだ。俺はそのことを説明するが、若い医師には通じない。いや、決してご迷惑はおかけしませんからゼヒ、と見当違いのところで食い下がる。

もし俺にその万年筆が使えて、この死んだ若い医師に協力する同意書に署名が出来たら一体どういうことが起きるのか、興味がないわけじゃない。だが、協力は無理のようだ。

その時、巡回の看護師が来て、病室を懐中電灯で照らす。
研究熱心な若い医師の姿はもうどこにもない。

2019年2月27日水曜日

現の虚 2014-8-2【アイパッチの男】


事故のことは知らない。覚えていない。思い出せない。そういうのを逆行性健忘というらしい。少ししたら思い出すこともあるし、いつまで経っても思い出さないこともある、と、看護師も云ったし、事情聴取に来た警官も云ったし、医者も云った。

右手をなくして意識を失っている俺を病院に運び込んだのは、ゴジラの第一作でゴジラにとどめを刺した芹沢博士のようなアイパッチの男だった、と若い看護師が教えてくれた。

俺はゴジラの第一作を観たことがないので、その喩えは全くアレだけど。

アイパッチというのは眼帯のことよ。海賊とかがやってるアレよ。アタシ初めて見たわ。ガーゼじゃないアイパッチしてる人。

大量出血の俺は、そのアイパッチの男が輸血を申し出てくれたオカゲで助かったようなものだというハナシも聞いた。その時、アイパッチの男は、俺の一番上の兄だと名乗ったらしい。だが俺には一番上だろうと一番下だろうと兄などいない。にもかかわらず、兄弟だから血液型は合うはずだと云って、実際調べてみると合っていたので、病院は喜んで輸血した。それも相当量。血を抜かれた方にも点滴が必要なくらいの大量だ。

アイパッチの男は、俺が日曜大工で使っていた電動のこぎりで誤って右手を切り落としてしまったと説明し、看護師が、切り落とされた右手はどこだと訊くと、慌てていて持って来るのを忘れたと答えたという。どちらにしろ、右手はもう間に合わないと判断され、縫合手術が行われた。

ちなみに、あとで警察がアイパッチの男から聞いた住所に俺の右手を回収に行くと、そこは郵便受けが一つ括り付けられた電信柱が一本立っているだけの狭い空き地だったらしい。

ちなみに、その空地の住所に俺は何の心当たりもない。

いろいろと一段落して、アイパッチの男が云ったことがほぼ全部デタラメだと判明した時、アイパッチの男は既にキャスター付きの点滴スタンドと共に姿を消していた。いるはずの待合室のソファは空で、床には珈琲牛乳の空き瓶が8本も置いてあったらしい。

つまり、なぜ俺の右手が切断されたのか、そして俺の右手はどうなったのか、俺も、誰も知らない。ただ一人、俺を病院に担ぎ込んだ謎のアイパッチの男を除いて。いや、実はそのアイパッチの男すら知らないのかもしれない。

それはないわね。本当に知らないなら余計な嘘をつく必要はないもの。知ってるからこそ嘘をついたのよ。

看護師はそう云って、苦い薬を二個、俺に渡した。

2019年2月26日火曜日

現の虚 2014-8-1【ニセ看護師がファントム・リムについて説明してくれる】


幻肢。ファントム・リムとも云います。右手を失っても、脳内の身体マップ上には右手の番地がまだ残っています。このとき、脳内の身体マップ上で右手の番地と隣接する番地にある別の身体部位が刺激を受けると、右手の番地の神経にもその興奮が伝わります。脳内の身体マップ上で右手の番地に隣接するのは右頬や右上腕部です。だから、右頬のある部分を触られると、もはや存在しない右手の指を触られている感覚が確かにある、ということが実際に起きるのです。これが幻肢、すなわちファントム・リムの基本です。そうそう、ヒトの脳内の身体マップの番地の配置はだいたいの共通性を持っています。つまり、人間が自分の右手の幽霊に会いたい時は、右頬を摩ればいいということです。

と、云った後、偽の看護師は横を向いて口紅を塗りなおした。俺は包帯を巻かれた右手首を見ていた。どう自分をごまかしても、俺の右手首の、その続きである右手はもはや存在してなさそうだ。長さが足りない。

あるインド系アメリカ人医師が自分で発見したのか、ただ他の誰かの発見を彼の本に書いただけなのかは忘れましたが、ファントム・リムはそういう仕組みです。損傷部というよりは脳の問題なんです。脳に構築されたマップの問題。だから、極端な話、例えば医療技術が異常に発達して、首から下が全てなくなったとしても生きていられることになると、本当はない首から下の体のファントムが出現する可能性もあります。それって面白いですよね? 

なぜ?

なぜって、だって自分の体で実際に存在しているのは首から上だけということは、全体の体積比率で云ったら、その人がそうだと感じている自分は大方ただの思い込み、ファントム、つまり、幽霊ってことになるからですよ。

面白くないよ。

いいえ、面白いんです。今の話をドンドン極端にしていって、脳だけでも生きられるとか、いや、記憶や感覚だけを機械に移し替えても生きられるというふうにしていくと、ほら、もう現実に生きてる人間はどこにもいないのに、その人自身は生きてる人間そのものとして人生を生きることになる。他の人からは全然見えないし感じない。ほぼ一切の物理的干渉を受けることも与えることもないのに、その人自身は自分が一人の生きた人間だという確かな実感を持って存在し続けるワケだから…

おはようございます。朝食ですよ。

本物の看護師が入って来たと同時に偽の看護師はすっと消えて、見えなくなった。

2019年2月25日月曜日

現の虚 2014-7-9【ニャアと一声。これでおしまい】


壁か床か何かに背中が貼り付いていて少しも動かない。腕も脚も同じように貼り付いて動かない。目を開こうとすると、なぜか胸の裏の背骨が痛む。瞼の下で目玉を動かすだけで頭の芯が疼く。イメージの中で思い切り叫ぶと、弾みで両目が開いた。

青空。旅客機が腹を見せて通り過ぎる。
いい天気だ。

俺を挟んで向かい合ってしゃがむ二人の顔を、俺は真下から見ている。一人は女で、一人は男。閉じかかる瞼をなんとか持ち上げ、目を開け続ける俺。瞼がピクピクして、これじゃあまるで死にかけてるみたいだ。

男と女の会話。

飛んだか?
知らないわ。
それとも落ちた?
さあ?
ほら、右手がない。
途中でどこかにぶつかけてちぎれたんでしょ。

女は携帯端末を取り出し俺にレンズを向けた。

撮るの?
写真売れるかもしれないから。

突然の強い光に目がくらむ。瞳孔の一瞬の収縮とゆるやかな開放。俺の目を覗き込む男。目が合う。だが、男は俺を無視して女に訊く。

脳波に変化はあるかね?
いえ。ベジタブルです。

俺の鼻の穴のチューブの具合を確かめる女。目の裏に激痛。だが、俺は身動きできない。体を固定しましたからね。でも、すぐ病院ですよ。と赤い横線の白いヘルメット。

病院なんか今更。

そうじゃない。病院に運ぶのは単なる職務上の形式。人間を動かすのは意味じゃなく形式さ。

俺はきっと頭をやられてる。自分では見えないから何とも云えないけれど、頭から脳味噌の一部が飛び出していて、目玉を動かす度にその、はみ出た一部が動いて何かに擦れるから、それで脳に更なる損傷を受けるのだ。

まあ、いいから飲めよ。

ビールを注ぐ知らない顔の同僚。虫の話を始める。あの小さい虫はすぐに脳に群がる。真っ黒のあの虫。人間の脳だけを食って生きてるあの虫さ。古い墓を掘り返した時に出てた頭蓋骨の中に何万といるのを見たことがある。オマエの脳がそんなむき出し状態なら、あの虫がすぐに集まってくるはずだろう?

その話を顔が口だけの医者が笑う。なるほど。でも、とりあえず息はしなきゃ。でないと死ぬよ。

ところが俺は息の仕方を思い出せない。そもそも…
そもそも?
そもそも一度も習ってない!

猫は高層マンションのはめ殺しの窓から、下界の駐車場に横たわる俺(もうすぐ死ぬ?)を見ていた。猫は魔女とも死神とも通じている。猫の好奇心は、死に引き寄せられ、死を引き寄せる。全てを見届けたら、猫は窓辺を離れ、いつもの場所でのんびりと毛繕いを始めるのだろう。

2019年2月22日金曜日

現の虚 2014-7-8【手の石が作動し全ては吹き飛ぶ】


円形の暗い部屋をぐるりと取り巻いた青い照明の巨大水槽。その中を深海鮫ラブカがゆるりゆるりと泳いでいる。こんな水槽で深海生物が飼えるとは意外だ。

そうではない。我らが深い水の底にいるのだ。(嗄れ声が云った)

ラブカが泳ぐ青い水槽の前。車椅子に座った老人のシルエット。嗄れ声の主だ。

モーターの作動音がして、車椅子がゆっくりキリキリとこちらに向かって移動してくる。近づいてくる車椅子の上で、老人がぼうっと光る目で僕を見ている。僕の指先にある煙草の灰が、すでに伸ばせるギリギリまで長いのが気に入らないのかもしれない。

車椅子は僕の目の前まで来て止まった。人間の干物のような老人。ホウイホウイと聞こえるのは、その干物老人の呼吸音だ。歯のない口を開け、人生最期の空気を執念深く吸い込み続けている。僕の煙草の灰はまだ落ちない。そしてラブカは、相変わらず、僕らを取り囲む水槽の中をゆるりゆるりと泳いでいる。

瀕死の老人は、真空を進むようにすうっと腕を伸ばして、僕の指から長い長い灰の伸びた煙草をそっと摘み取った。そしてその長い長い灰を落とさないまま上手にくわえ、深く一服すると、竜のような長い長い煙をふすーっと吹き出した。

煙はゆらゆら伸びて空中で次々に文字に変わっていく。

生まれ〜飲み〜食べ〜排泄し〜成長し〜生殖し〜愛し〜愛され〜憎み〜憎まれ〜敬い〜敬われ〜疎み〜疎まれ〜尊び〜尊ばれ〜蔑み〜蔑まれ〜学び〜教え〜働き〜怠け〜育てられ〜育て〜決断し〜留保し〜誤らず〜誤り〜勝ち得て〜取り逃がし〜主張し〜譲歩し〜発見し〜見落とし〜負傷し〜治癒し〜倒れ〜立ち上がり〜喜び〜怒り〜哀しみ〜楽しみ〜何より〜慈しまれ〜慈しみ〜そして〜生き延び〜生き続け〜今日まで生き〜

煙はそこでふっと消え、瀕死の老人の摘んだ煙草の先から、さっきより更に長くなった灰がぽとりと落ちた。老人は僕に煙草を返すと、僕の耳元に口を近づけ、例の嗄れ声で云った。

ダカラナニ?

それを合図に、老人の車椅子の下に異臭を放つ液体が勢いよくジョボジョボと溜まり始めた。更に老人は、自分の尻の下から取り出したクサいモノを歯のない口に押し込んで、クチャクチャと音を立てる。

僕はその音とニオイに圧倒され身動きできない。

だがその時、僕の猫が僕の足に頭をこすりつけた。僕の猫は僕の靴で、僕は靴ひもを締め直すと、足元にあった石ころを右手で掴んだ。

そして右手の石が作動し、全てを吹き飛ばす。

2019年2月21日木曜日

現の虚 2014-7-7【物腰の柔らかい男】


やあ、よく来てくれましたね。

ドアを開けると、身なりが良くて物腰の柔らかい男が両腕を広げて僕を迎えた。僕は勧められるままにブカブカするソファに腰を下ろした。部屋の隅には車いすの老人がいて、居眠りでもしているのか、目を閉じてじっとしていた。物腰の柔らかい男が僕の視線に気付いて、大袈裟に、ああ、と頷く。それから、あれは私です、あれこそが私なのです、気にしないで下さい、と云った。

物腰の柔らかい男は僕の前のソファに腰を下ろすと、まず初めにちょっとよろしいですか、と云って僕の右手を要求した。

東洋の占いに手相というのがあるでしょう。私はアレが少し出来ます。

物腰の柔らかい男は、僕の右手をそっと掴んで僕の掌に目を落とすと、人指し指を自分の口に当てて、最近手相が変わりましたね、それでここまでこられたのです、と云った。手相が変わるなんてオカシイとお思いでしょうが、手相は変わるのですよ。少なくとも東洋の手相マイスターたちはそう主張しています。いや、実のところバカな話ですが、しかし彼らは大真面目なのです。それこそが彼らの知恵の証しだと本気で信じているのですからね。実に何とも……

物腰の柔らかい男はそう云ってクスクス笑うと、僕の掌を自分の手でポンと叩いて、はい結構です、と云った。

ところで煙草は足りていますか。物腰の柔らかい男が訊く。僕が首を振ると、ポケットから未開封の煙草とジッポーを取り出してテーブルに置いた。差し上げます。僕は無言で煙草とジッポーを掴みポケットにねじ込んだ。物腰の柔らかい男が完璧な微笑を僕に向け、僕はイライラする。

物腰の柔らかい男はもったいぶった身振りで、さて、うしろをご覧下さい、と云った。僕は振り返った。スポットライトに照らされて、ヒョロ長い一本脚の丸テーブルが立っていた。そこに靴が一足乗っている。僕の靴だ。そのとおりです、と物腰の柔らかい男。僕が正面に向き直ると向かいのソファは空で、しかしもはや、となぜか背後から物腰の柔らかい男の声。僕はまた振り返る。男はいつの間にか丸テーブルの横に後ろ手に立っていた。

この靴は私のものですよ。

その時、丸テーブルの上の僕の靴が一匹の猫になった。物腰の柔らかい男は、ハッとして一瞬身を引いたが間に合わない。猫は物腰の柔らかい男の上等のスーツに爪を立てて取り付くと、その顎に噛みついた。物腰の柔らかい男はヒャッと悲鳴をあげ、ボワンと煙になって消えた。

2019年2月19日火曜日

現の虚 2014-7-6【ちがう。芝生の紙はヒッカケだ】


真鍮の潜水服を着て棘の藪を通り抜けた僕は、そのまま水底を歩き続け、やがて現れた丘を登って、遂に水から上がった。陸に上がった僕は潜水服を脱いだ。着るのと違い、脱ぐのは簡単だった。

ハンコヲオスヨ

声が聞こえた。

ミギテデカミヲセットシテネ

まただ。

ミギテヲハサマナイヨーニキヲツケテネ

変な声。機械の声だ。僕は声の主を探し、見つけた。ずっと離れた場所の白い壁。ソコにソレはいた。ハンコ押しロボット。壁から上半身が生えている。あとは壁の中だ。

ハンコヲオスヨ

また云った。僕は途中の芝生に散らばった白い紙を一枚拾って、ハンコ押しロボットの所に行く。

ミギテデカミヲセットシテネ

ハンコ押しロボットの顔は、開けた缶コーヒーの缶の上の部分に似ていた。

【きょうハンコをおしたおともだちは0にん】

ハンコ押しロボットの胸の電光掲示にそうある。横にスクロールし、止まって、点滅する。

ミギテヲハサマナイヨーニキヲツケテネ

僕はロボットのハンコの下に(ロボットの指示どおり右手で)紙を置いた。ハンコを持ったロボットの手がビクッと動いてピタッと止まる。そしてそのまま動かない。

壊れた?
イマオスヨ

大丈夫らしい。ハンコ押しロボットの腕がゆっくり下がる。手に持った丸い大きなハンコが紙に押しつけられて一瞬止まる。それから、そろそろと持ち上がる。ハンコにくっついて、紙が一緒に持ち上がる。

オシタヨ。カミヲトッテネ

僕はハンコにくっついてぶら下がっている紙を手に取った。見ると赤い文字でこうあった。

【却下】

電光掲示も【きょうハンコをおしたおともだちは0にん】のままだ。何かが間違っているのだ。僕は芝生に戻って別の紙を拾ってくる。そして、もう一度ロボットにハンコを押させた。

オシタヨ。カミヲトッテネ

結果は同じ。【却下】だ。

ちがう。芝生の紙はヒッカケだ。僕は手引き書を取り出した。

古来よりカミは肉体に宿ると云われています。

ミギテヲハサマナイヨーニキヲツケテネ

ロボットが繰り返す。そういうことか。しかし覚悟が要る。覚悟を決めた。僕は、右の掌をロボットの持つハンコの下に置いた。

イマオスヨ

機械の容赦ない圧力が僕の右の掌の皮膚の色を変え、中手骨を軋ませる。だがこれは、痛みではなく恐怖心との戦い。耐えろ。キンと音がして圧力が弱まった。ハンコがゆっくり持ち上がる。僕は掌に押されたハンコを確かめた。

【承認】

電光掲示の【おともだち】が1人に増え、遠くで歓声が上がった。

2019年2月18日月曜日

現の虚 2014-7-5【棘の薮と真鍮の潜水服と白い手とオランウータン】


水底の林を抜けて少し歩くと、棘の藪に行く手を阻まれた。しかも、ちょっと回り込めばどうにかなるような薮ではない。こういう場合、フツウの水中なら薮の上を一気に泳ぎ越せばいいだけだ。だが、この水底では泳ぐことができない。体に全く浮力を感じないのだ。空気の代わりに水があるだけの違い。他は地上と何も変わらない。きっとこの水は、本当は水ではないのだ。水よりも、人間の体よりも、ずっと密度の小さい別のナニカで、だから人間の体に浮力が生まれず、僕も鉛人間のように水底を歩くしかないのだ。

つまり僕は、棘の薮を歩いて突破しなければならない。

やってみた。
痛い。無理。

枝をつまんで、引っかかった棘を服から一つずつ外し、一旦退却した。

藪の少し離れた所から白い手がヌッと出た。女の手。
僕は男だからすぐそう思う。

手が手招きをする。

僕は手の方に歩く。手が止める。僕は立ち止まる。手が、指をパチンと鳴らして指さす。大きな箱があった。だが鍵が掛かっている。すると手が、今度は僕のポケットを指さす。探ると鍵が出て来た。それを箱の鍵穴に差し込んで回す。開いた。中にはぴかぴか光る真鍮の潜水服が入っていた。服というか鎧。手が、着ろと促す。一人で着られる代物じゃない。手が指さす。遠くからナニカがウオウオ云いながらこちらに向かっていた。デカイ猿。あの感じはきっとオランウータン、森の人だ。

あっという間に僕のいる所までやってきたのは、やっぱり森の人だった。森の人は、万事了解済みという感じで箱から潜水服を取り出す。僕は森の人の手を借りて潜水服を着た。潜水服の丸い覗き窓から、手が「やったぜ」と親指を上げるのが見えた。森の人も、やっぱり親指をあげて、ウオっと云った。僕も、潜水服の手で親指を上げてみせる。それを、三人というか、三匹というか、まあ、全員で三回ぐらいやる。

手が、もういいだろう、と指を鳴らした。それから、こっちだ、と人差し指をクイクイやって、藪の中に引っ込んだ。僕は、森の人、つまりオランウータンにお礼かナニカを云いかけて、猿に分かるわけがないと思ってやめた。

真鍮の潜水服を着た僕は棘の藪に突入する。振り返ると、森の人はちょっと心配そうだった。僕は親切にしてくれた動物を安心させるつもりで、さっきの親指の「やったぜ」をやってみせた。森の人は親指を立て、体を上下に揺すった。

僕は、真鍮の潜水服のおかげで棘の藪の中をバリバリ進めて愉快だ。

2019年2月16日土曜日

■四色問題と全員片思いの三角関係


『又吉直樹のヘウレーカ』(?)という番組をたまたま見たら、数学の「四色問題」というのをやっていた。地図のような平面の絵柄を塗り分ける時、隣と同じ色にならないようにするには、最低四色あればいいということを数学的に証明するのに100年以上かかったとか、そういうハナシ。数学は、大腸菌や皮膚表面の細菌と同じで、人類にとってナクテハナラナイモノだけど、別に好きではない(むしろ嫌い)なので、いい気味だと思ったりした。というもの、番組を見ながら、数学的でなければ「四色問題」は問題でもなんでもないだろう、だって、これって、〔全員が報われない「真正三角関係」〕が成立するには最低何種類の人間がいればいいかってことだろう、と思ったからだ。答えは「四つで十分ですよ、わかってくださいよ」だ。アタマを悩ますところはどこにもない。

〔全員が報われない「真正三角関係」〕って、何かっていうと、これも簡単な話。「フツウ」の三角関係は、好き合ってる二人にあと一人が割り込むカタチか、或る一人を他二人が取り合うカタチ(漱石に取り憑いた呪い)。要するに三角関係と言いながら、実は一辺足りない(角だって一つしかない)。それに対して〔全員が報われない「真正三角関係」〕というのは、当事者である三人が全員片思いというカタチ。中島みゆきの歌にあるような、恋のメリーゴーランド状態ということで、ちゃんと三辺があるし角も三つある。

テキストファイルは図表を置けないので分かりにくいから、まず、時計の文字盤を想像する。で、例えば、1時の場所に異性愛女子がいて、5時の場所に異性愛男子がいる。そして、9時の場所にもう一人がいる。1時の異性愛女子が5時の異性愛男子に片思いをしている〔全員が報われない「真正三角関係」〕の場合、9時の場所の三人目は同性愛女子になる。これで、片思いの矢印が、1時→5時→9時→1時…の「時計回りのメリーゴーランド」を形成する。そしてこれに対応する「反時計回りのメリーゴーランド」ももちろんありうる。すなわち、異性愛男子が異性愛女子に片思いをし、異性愛女子は同性愛男子に片思いをする、5時→1時→9時→5時…のカタチ。

最初の直感では、これで全部だろう、と思った。結局、「隣り合う」というは「誰かが誰かに片思いをする」で置き換えることができ、片思いの組み合わせとしては、今言った「真正三角関係」以上のものはありえないからだ。

しかし、ふと気づいた。あまりにウブすぎる。三角関係を形成する連中が、一度に二人以上に片思いすることもないことないぜ、と。

そこで、「片思い」は一旦忘れて、男や女を、ただの〔時計の文字盤の数字〕に置き換え、片思いの思いを〔ただの矢印〕に置き換えて、考え直してみた。

数字が三つの場合は、時計回りでも反時計回りでも、とにかく、三角形以上のものは作れない。第4の数字を投入して四角形を作ってみるとどうなるか。実はこの場合、「色」を増やす必要はないことがわかる。例えば、文字盤の数字を1と5と7と11の4つにする。1を赤にして、5を白にすると、7は赤でいい。なぜなら次の11を白にすれば、最初に戻った1の赤とぶつからないからだ。

この話の要点は、参加者が偶数なら、色は二色でいいということ。もっと一般化すれば、形成される多角形の角が偶数なら、それがどれほど増えようと、二色で足りるということ(四角形でも六角形でも10億角形でも)。そして、この気づきから、角が奇数の多角形に必要なのは三色だとわかる。1時の赤から始まって、2時の白、3時の赤と一時間ずつ結んできた矢印を、12時(偶数)まで行かずに11時(奇数)からショートカットして1時に繋ごうとした時、11時の色は、直前の10時の白でもダメだし、直後の1時の赤でもダメで、第三の色、例えば青とならざるを得ない。しかし、色の変化としては、それだけだ。

今の話で気づかなければならない要点は、〔当事者全員が、自分以外の全員と直接関係を持つ(矢印で直接繋がる)場合に限って、その当事者全員分の色が必要になる〕ということ。「真正三角関係」で言えば、当事者は三人で、その三人は他の二人と直接矢印でつながっているので、色は三色必要になる。その一方で、「百一角関係」(奇数の多角形)では、当事者たちは自分以外の百人全員と矢印でつながっているわけではない。奇数多角形は、偶数多角形の「最後の一箇所」が「三角形」になったものと考えることができるし、逆に、三角形の一辺だけに偶数個の角をつけただけのもの、と考えることもできる。要するに、奇数の多角形は、正体はただの三角形だということ。

さてそこで、真の意味での四人目とは何者なのか、ということになる。当事者が四人でも四角形なら、色は二色でいい。なぜなら、その四人皆、それぞれ、自分以外の三人と直接繋がってはいないからだ。〔真の四人目〕が参加した状態とは、当事者全員が自分以外の三人と直接矢印で繋がっている状態のことだ。それはどんな「カタチ」かといえば、もうただ一つしかない。「真正三角関係」の中心に、そこから三方の角に向かって矢印を伸ばしている点/丸が存在しているカタチ。最初の時計の文字盤の喩えに戻るなら、分針、時針、秒針が、それぞれ、1時と5時と9時を指した「5時5分45秒」の状態の時計の文字盤の中心の場所にいるものが〔真の四人目〕となる。なぜなら、[既に、自分以外の全員と直につながっている参加者全員]と直接繋がれるのは、この「カタチ」(この場所)だけだからだ。

ここで非常に重要で、かつ、見逃しやすい事実をお知らせする。それは、それぞれの〔数字=参加者あるいは「角」〕をつなぐ〔矢印=線〕は決して〔交差してはいけない〕ということ。なぜか? たとえば、矢印で考えるとイメージしやすいが、結局それは、矢印が伸びきた元の部分の一部だからだ。アメーバが細く伸ばしたもののようなものだからだ。「それがどうした?」ではない。これは重要なことだ。なぜなら、このオシャベリのそもそもの出発点は「地図の色分け」なのだから。全ての矢印は、いわば、細長く伸びた「領土」であり、二つの矢印を交差させるとういことは、その「領土」を通り抜ける(あるいは侵犯する)ということになるからだ。

ア国からウ国に矢印を伸ばすときに、イ国から伸びた矢印を横切るなら、ア国はウ国と「直接」繋がっているのではなく、いったんイ国に入って(接触して)ウ国に繋がることになる。これをもっと厳密に見れば、ア国がイ国に繋がり、そののち、(実は)イ国がウ国に繋がっている〔だけ〕のことだ。あるいは、イ国の矢印が繋がっていた先のエ国との〔直接の繋がり〕を、ア国とウ国の矢印が「分断」したことになる。

矢印同士を交差させると、交差してしまったどちらかの矢印の〔直接繋がる〕という〔機能=意味〕は失われる。先にも言ったが、イ国の矢印が「強力」なら、それを交差して繋がっているようにみえるア国とウ国は、実は直接は繋がっていない。すると、この時点で〔お互いを結ぶ線を交差させず、かつ、当事者全員が自分以外の全員と繋がっている〕という条件が満たされなくなるのだ。

これを踏まえた上で、色々試してみればいいが(いや、ちょっと考えるだけですぐに気づくけど)、お互いを結ぶ線を交差させず、かつ、当事者全員が自分以外の全員と繋がっている状態の図形を、平面状(地図)で実現しようとすると、「参加者」は4人が限界だと分かる。5人目は「参加」できない。今言った条件(お互いを結ぶ線を交差させず、かつ、当事者全員が自分以外の全員と繋がっている条件)で5人目が参加して初めて「五色目」が必要となるのだから、これをサカサマからいうと、地図を塗り分ける(平面の図形を塗り分ける)には、最低四色あれば十分となる。

「数学的証明」がどういうことかは知らないし別に興味もないが、まあ「フツウ」にぼんやり考えれば、最初の直感通り、やっぱり「四色問題」は、カンタンなハナシだ。

2019/02/16 アナトー・シキソ

2019年2月15日金曜日

現の虚 2014-7-4【深い水の底に待て】


探していた【出口】のドアはいくつかあったが、大半はただの絵で、それ以外は出口ではなく入り口だった。ようやく本物の【出口】を見つけ、ヤレヤレと思って〈出て〉みたら、そこもやっぱり〈入って〉いた。

そもそも出口と入り口の違いはそれ自体にはない。

【出口】から〈入った〉場所には草が生えていた。木も生えているし、少し離れたところには大きな池も見える。見上げれば空まである。丸く切り取られた空だ。まるで外のようだが、でもここは〈中〉。僕は近くの壁に触れてみた。手に移ったこの匂いは鉄。ここは鉄の壁で囲まれた〈中〉なのだ。

とても大きな鉄パイプが地面に立っている様子をイメージして下さればよろしいのです、とその女は云った。青いワンピースを着たショートカットのすごい美人。服とお揃いで唇も青く塗っている。ここはその鉄パイプの空洞部分、そしてあなたがさっきまでいらしたのは、その鉄パイプの鉄の部分というわけです。女はそう云って僕に石ころを渡す。僕と女は、さっき云った大きな池の畔に並んで座っている。僕は、渡された石ころを池に投げる。石ころは少しの波紋も立てず池の中に吸い込まれ、音もしない。

僕は女が裸足なのに気付いた。僕も裸足だ。

裸足ですね。
僕は云ってみた。女は、ええ、とだけ答えた。
靴は履かないんですか?
女は黙って僕の顔を見る。
あなただって履いていません。
今は履いてませんが、普段は履いてますよ。
そうなのですか?
うっかりなくしてしまって、今、探してるんです。

女がそっと笑う。それからまた僕に石ころを渡す。僕はそれをさっきと同じように池に投げる。

なぜ池に石を投げるのですか、と女。こうやって池の畔に座って手に石ころを持っていたら……そう云いながら、僕は自分で石ころを探す。だが一つも見当たらない。女がまた石ころを渡してくれる。僕はそれを受け取り、池に投げる。こうやって、池に投げ入れるのが正しい世界の在り方って気がするからです。

女がまたそっと笑う。

ここで僕は【出口】のドアまで戻る。
ヤリカタを間違えてる気がする。手引書を広げてみた。

青い女の服を褒めて、名前を呼びましょう。女の名前は4文字以内で自由に決めてかまいません。

再び池の畔。
ステキな服ですね、ミカさん。女は、ありがとう、と答え、僕に石ころを手渡す。僕は受け取った石ころを池に投げる。

世界の解像度が一気に上がる。
僕は池の中を深い水底に向かってゆっくりと降りていく。

2019年2月14日木曜日

現の虚 2014-7-3【虫除けスプレー】


僕はクスリの後遺症のせいで頭に虫が湧きやすい。この場合の頭は、頭皮つまり頭の外という意味ではなく、頭の中という意味だから始末がワルい。頭の外に虫が湧いてもそれは単に不潔というだけのことで衛生問題でしかない。けど、頭の中、つまり脳味噌に虫が湧くのはセーシンがイカレテルと云う意味になる。まあ、これも確かに衛生問題と云えば云える。つまり精神衛生上の問題。けど、頭の中に湧く虫は殺虫剤でどうにかなるもんじゃない。そこが厄介だ。

そうでもないわ。

そう云って、僕が立っていた通路の薄い鉄板の下から現れたのは、旧ドイツ軍御用達の暗視ゴールグルを付けた小柄の女盗賊コビだ。

虫が湧く度に煙草の火で焼いてたら顔中火傷痕だらけになると思ったからコレ持って来てあげたわよ。

僕は小さなスプレー缶を受け取る。

殺虫剤ではないけど、少しの間、虫を麻痺させることは出来るわ。これで動きを止めて踏み潰して殺せば、これ以上顔に火傷の痕を増やさずに済む。

コビはそう云うと腕組みをして、暗視ゴールグルを掛けたまま、僕をじろじろ眺めた。そして、自信はあるの、と訊いた。自信があるとかないとかじゃない、と僕は答えた。コビは、そりゃそうね、と云った。

ここまでならアタシも博士のエレベータを使って来てあげられるけど、ここから【下】には行けない。ここから【下】には、人工だろうと天然だろうとゴーストさえ行けないのよ。それはつまり、博士のシステムで来られるのはココまでということ。ここより【下】には本人が〈ソウナッテ〉行く以外にないわ。

分かってるよ、と僕。

この領域の【出口】から一度【外】に出て、それから【下】に行くのよ。

それも知ってる、と僕。

【出口】から出たら、もう虫は湧かない。【出口】の【外】は虫よりも【内側】だから。つまり、そのスプレーは【出口】を見つけて【外】に出たらもう用なしよ。

うん、分かった、と僕。

前にも云ったけど、感覚に実体はないの。感覚は解釈に過ぎないから。アンタがこれから行く【外】や【下】では、今いるこの領域以上にその感覚がアンタを惑わせるけど、それは全てアンタ自身の解釈だと見抜くのよ。そうすれば、何者からもジャマされずに進める。

そして辿り着ける、と僕。
そうね。今度こそ辿り着ける。

僕は、また頭の中に虫が湧き始めているのに気付いた。早速コビに貰ったスプレーを頭に吹き付ける。足下にポロポロと虫が落ち、僕はそれを一匹ずつ踏み潰す。

2019年2月13日水曜日

現の虚 2014-7-2【額の穴を這い出してくる黒い虫は煙草の火で焼け】


俺はアスファルトの坂をウンウン上って山頂にあるチョコモンブランが人気の洋菓子店に入った。お持ち帰りですか。首を振る。お召し上がりですか。頷く。お飲物はいかがしますか。そこにあった手書きのメニューから選んで指さす。

山の斜面に作られたバルコニーに出てチョコモンブランを食う。見下ろせる街が意外に近い。それからエスプレッソを飲む。いい天気だが少し風が強い。ライターの炎が弱くて、くわえた煙草に火がつかない……

どうぞ、と知らない女の手がジッポーを差し出してチンと蓋を開けた。顔を上げると超ショートカットのすごい美人。唇をつやつやさせて微笑みながら、アナタの新しい秘書です、と云う。僕は面食らった。

そのとき突然、研究室の中の音が消えた。籠の中で回し車を回していたハムスターも回し車ごとぴたりと止まり、迷路を歩き回っていたラットも止まった。さっきから僕の顔の周りをうっとうしく飛び回っていた小虫も空中で止まっている。そして、すごい美人秘書もジッポーに火をつける直前の体勢で止まって、まばたき一つしない。

世界が凍った。僕は急いでリセットボタンを探すが見つからない。

まずいな。すぐ来るぞ。
そう思ったら、もう頭蓋骨の中でガリガリと音がする。
来た。虫だ。黒い虫が来た。

僕は机の上に置かれた緊急用の9インチ白黒ブラウン管テレビをつける。このテレビは古い仕組みのオカゲで影響を受けないのだ。画面に僕の頭の中が映し出された。僕の額の裏に取り付いた火星着陸船のような形の6本脚の黒い虫が、尻から伸ばしたドリルを使って僕の頭蓋骨に穴を開けている。

テレビから、妙に一本調子な昔のアナウンサーのようなナレーションが聞こえる。

私たちの頭から生まれたこの黒い虫は、放置すれば、知らぬ間に増え、いずれ世界を食べ尽してしまうのです。

白黒テレビ画面の中で、黒い虫のドリルが遂に僕の額の骨を突き破った。抑揚のないナレーションが、抑揚がないなりに切迫感を出す。

こうした場合の古老の知恵は煙草の火です。虫が出てきたところを狙い、煙草の火で一気に焼き殺すのです。

僕はくわえていた煙草を手に取った。

火がついてない……

これ、使って下さい。徳用マッチ箱を持った女の手が目の前にぬっと現れた。顔を上げると洋菓子店の店員だ。いいねえ。俺はその徳用マッチを擦って、煙草に火をつけた。軽く一服して、俺は額に煙草の火を押し付けた。店員の女は驚いたが、俺はもっと驚いた。

2019年2月6日水曜日

■全ての社会問題は「便所問題」である


会堂に百人で集まって丸一日会議をする。その間、参加者の大小便の始末はどうするのか? 2時間ごとに休憩時間を設けるのか? したくなった者は適当に思い思い勝手に席を立つのか? そもそも便所はあるのか? なければ作るのか? 会堂の外のその辺に垂れ流すのか? 会堂の隅でこっそり済ますのか? あるいは各自専用の容器を用意するのか? それともただひたすら我慢するしかないのか? 無理なものは会議への参加資格を奪われるのか?

人間の社会の様々な〔規則や政治体制〕は、結局、この「百人丸一日会議に於ける出席者の大小便の始末はどうするのか問題」への対処や工夫と、本質として同じものだ。それは〔人間が生き物だということ〕への対処や工夫だ。人間が遭遇する様々な「社会問題」は、人間が生き物すなわち生命現象であるということに端を発している。もっと正確に言えば、生命現象であるという事実を引きずったままで、知性現象としての活動をしようとすることが、人間の「社会問題」の根本原因。

で、長い歴史を通じて、人間が、様々に/次々に出現する「社会問題」をいつも完全には取り除けないのは、人間自身が〔ミズカラが生命現象であること〕という呪縛から逃れられないからだ。「人間は生命現象でなければならない」という思い込みを、単なる思い込みだと見抜けず、まるで宇宙的真理のように信仰し続けているために、人間の〔知性現象としての活動〕が、〔生命現象としての要請〕によって、様々に妨害され、齟齬軋轢を生み続ける。

アナトー・シキソ 2019/01/30

現の虚 2014-7-1【交差点事故】


スピードを出し過ぎた年代物のアルファロメオの後部座席。隣に座った太った女は口紅が赤すぎる。でもあの店は場所がダメよ。あんな山の上じゃあ。口紅が赤すぎる女がそう云って俺に首を振る。その瞬間、車は交差点を曲がりきれず横転し、そのまま裏返しに滑って信号機に激突して止まった。

裏返しになったアルファロメオの運転席から這い出した僕は、折れ曲がった信号機を尻目に角を曲がって裏通りに入った。無人の高層建築。駐車場跡に打ち捨てれた「閉店売りつくしセール」の幟を踏みつけ、存在しないはずの合鍵を取り出してビルの中に入り込む。

瀕死のエレベータ。扉の開け閉めにもある種の荘厳さがある。直線6本の組み合わせで0から9までの数字を作る階数表示の発光ダイオードは、右側の一列以外は全部死んでいて、0と1と3と4と7と8と9は全て1と表示される。2は上の縦棒、5と6は下の縦棒だ。しかしこのエレベータは僕以外使わない。階数表示の装置なんか、あってもなくても何も誰も困らない。

着いた。

途中の階の途中の部屋。そこが僕のアジトだ。無論、不法占拠。半世紀前のマッキントッシュコンピュータのシリコンチップに宿る亡霊が目を覚まして、スクリーンがボッと灯る。しばしの沈黙。椅子が軋み、やがて現れる光る文字列。

>またアナタですか。
僕は、そうだ、とキーボードを叩く。
>アナタは敗れたはずです。
親切な魔女に助けられたのさ。
>ほう。そのようなものが実在するとは驚きです。
実在したね。
>まだ続けるおつもりですか?
当然。
>勝ち目はありませんよ。

僕はキーボードから手を離し、煙草に火をつける。

僕はシツコイのさ。
>私を打ち負かすことは不可能ですよ。
やってみなければ分からない。
>しかしアナタはもう二度も敗れている。
三度目の正直という言葉を知らないのか?

天井に衝突音。階上の床に伏す孤独な自殺者。

>また一人、お亡くなりになられた。
オマエが殺した。
>ご冗談を。自殺です。

数週間後、訊ねて来た姉が弟の腐乱死体を発見し、戸口に立ち尽くす。

今どこにいる?
>私は常に人々と共にあります。

突然の電力供給停止による暗転。

でもこの店は場所がダメよ。緑色の口紅の痩せた女がそう云って、俺に雑誌を渡す。読者が選ぶ今一番食べたいスイーツ第一位。住所と簡単な地図。確かに場所がダメだ。こんな山の上じゃあ、どうしたって車が要る。例えば、あそこに停まってる古いアルファロメオみたいな車が。

2019年2月5日火曜日

歌う女


覆い被さる終わり色の空の下でタッタヒトリ、
僕は、歌うあの女の声を聴いた。
地球を胸に抱き、世界中に歌いかけるあの女の歌う声。
あの日、世界中のたった一人の僕らみんなが、
その歌う声を聴き、その歌う姿を見た。

現の虚 2014-6-9【re-resurrection】


着いたと云われて、ふと我に返る。

サイドカーのバイクの横のアレは「カー」とか「舟」とか呼ぶらしい。俺は止まったサイドカーの、その、カーとか舟とか呼ばれるモノの座席に座っていた。バイクのハンドルを握っているのは黒革のツナギに金色のフルフェイスを被った謎のバイカーだ。バイクの後部座席に座っていたコビが先に降り、アンタも降りなさいと俺に云う。俺はサイドカーのヘッドライトだけが明るい暗い中に降りて体を伸ばした。

コビが謎のバイカーに新品の徳用マッチを渡す。受け取ったバイカーは、さっそく徳用マッチの蓋をパリパリと開け、中身のマッチ棒をまとめて何本かつまみ上げると、それを、少しだけ開けたバイザーの隙間からヘルメットの中に入れた。

ヘルメットから青白い光が漏れる。

燐が好物なのよ、と暗視ゴーグルを付けたコビが俺の手を取り暗闇に向かって歩き出しながら云った。バイカーは俺達には同行せず、サイドカーのカーに腰を下ろすと、マッチ棒を摘んではヘルメットの中に入れていた。ヘルメットの隙間からは何度もぽーっと青白い光が漏れた。

手を引かれて連れて来られたのは、何のことはない、俺が住んでいるアパートの部屋だった。玄関ではなく物干の窓から(専用の工具で窓のガラスを切って鍵を開け)中に入った。なぜそんなことをしたのか、理由は知らない。

部屋の床に蓋付き小瓶が転がっていた。コビが持ち上げて天井の照明にかざすと、瓶の中でナニカが渦を巻いている。

これネ。開けるわよ。

コビが蓋を開けると、小瓶の中の小さな渦は回りながら外に出てきて大きな渦になった。正体は色とりどりの錠剤だった。空中で渦を巻く大量の錠剤は徐々にまとまり、点描画法で描かれたような魔人になった。魔人は、天井につっかえた体を屈めて、俺に薬クサイ息を吐きかけながら、見かけどおりの雷のようガナリ声で、だが、見掛けによらない丁寧な言葉遣いで云った。

全回復の場合は、2922ポイントと交換になります。よろしいですか?

コビが俺を見て、俺は頷いた。ポイントを2922も失うのは惜しかったが仕方がない。

8年でしたか?
そうです。
長かったでしょう。
いや、意外にあっという間で。

そう答えてから、ナンダコレ、と思う俺。青空の下、制服の刑務官がにっこり微笑む。俺は反射的に微笑みお辞儀をするが、実際はワケが分からない。ポケットから【天引き分2922日】と書かれたメモが出てきて、更に分からない。

2019年2月4日月曜日

全てから拒否されるそのソレ


君の口にしたそのソレによって、
バカも利口も、善人も悪人も、
男も女も、敵も味方も一切関係なしに、
生きてる人間の全てから、君が拒否されたなら、
まず、間違いない。
君は、人の言う「究極の真理」を口にしたんだ。

現の虚 2014-6-8【ターマイト】


社会主義というのがありますが、そうではないデス。

裸電球ひとつがぶら下がった手掘りの地下室で、頭のデカい宇宙服のような白い無菌服の男が、茶色い包帯でグルグル巻きの俺の体をショテイの位置に納める。俺が寝かされたのは壁に掘られた横長の穴で、ここは地下死体安置所らしい。

共産主義でもありませんよ。もっと根源的なのデス。つまり僕らのやり方は、社会をひとつの生命体とみなす、ということデス。喩えではなく、文字通りに。

別の横穴に俺より先に納められていた何体かの包帯巻きからは、茸的なナニカが無数に生えている。訂正。ここは死体安置所ではなく、茸的なナニカの栽培室だ。そして俺は、もはやホタギなのだ。漢字で書けば「榾木」のホタギは、茸の類いを栽培するための苗床のようなものだ。

産む者と育てる者の完全なる分業デス。今の人間のやり方と、僕らのやり方、どちらがより優れているかは今後証明されるでしょう。

床に置いた銀色の立方体。白い無菌服の男が蓋を開けると、中から冷気が溢れ出した。冷気の底から封をした試験管を抜き出し、裸電球にかざして中身を確かめる無菌服の男。

ただ、あの連中と僕らの社会が同じだと思ってほしくはないのデス。あの連中の社会は異常デス。なにせ女しかいない。次世代用の材料としての男がほんの少しだけヒモ生活をしているだけで、あとは全て、上から下まで女デス。しかも、本当かどうか知りませんが、あの連中の女王は一生分の精液を溜め込んだ自分専用のタンクを隠し持っていて、つまり、そうやって、男の協力なしで自分一人で子供を産み続けるというじゃないデスか。本当でしょうか。おぞましいことデス。僕らの社会にはちゃんと女王と王がいて、つまり女と男がいて、その結果として子供が生まれるのデス。王家だけではありませんよ。僕自身がその証拠デスが、僕らの社会にはちゃんと男女の市民がいます。連中のような女ばかりで異様なアマゾネス社会とは違うのデス。

無菌服の男は注射器で試験管の中身を吸い取ると、身動き出来ずに横たわるホタギの俺に近づいて来た。

ヤバイ。

そう思った瞬間、突然部屋に長くてヌメッとしたモノに滑り込んで来て無菌服の男を掴まえると、彼をどこかに連れ去ってしまった。

天井の壁がボロンと崩れ、割れ目からオオアリクイが顔を覗かせる。オオアリクイは包帯巻きの俺を前足のかぎ爪で引っ掛けて持ち上げると、着いたわ。ここよ、とコビの声で云った。