「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年2月6日水曜日
■全ての社会問題は「便所問題」である
会堂に百人で集まって丸一日会議をする。その間、参加者の大小便の始末はどうするのか? 2時間ごとに休憩時間を設けるのか? したくなった者は適当に思い思い勝手に席を立つのか? そもそも便所はあるのか? なければ作るのか? 会堂の外のその辺に垂れ流すのか? 会堂の隅でこっそり済ますのか? あるいは各自専用の容器を用意するのか? それともただひたすら我慢するしかないのか? 無理なものは会議への参加資格を奪われるのか?
人間の社会の様々な〔規則や政治体制〕は、結局、この「百人丸一日会議に於ける出席者の大小便の始末はどうするのか問題」への対処や工夫と、本質として同じものだ。それは〔人間が生き物だということ〕への対処や工夫だ。人間が遭遇する様々な「社会問題」は、人間が生き物すなわち生命現象であるということに端を発している。もっと正確に言えば、生命現象であるという事実を引きずったままで、知性現象としての活動をしようとすることが、人間の「社会問題」の根本原因。
で、長い歴史を通じて、人間が、様々に/次々に出現する「社会問題」をいつも完全には取り除けないのは、人間自身が〔ミズカラが生命現象であること〕という呪縛から逃れられないからだ。「人間は生命現象でなければならない」という思い込みを、単なる思い込みだと見抜けず、まるで宇宙的真理のように信仰し続けているために、人間の〔知性現象としての活動〕が、〔生命現象としての要請〕によって、様々に妨害され、齟齬軋轢を生み続ける。
アナトー・シキソ 2019/01/30