2019年2月21日木曜日

現の虚 2014-7-7【物腰の柔らかい男】


やあ、よく来てくれましたね。

ドアを開けると、身なりが良くて物腰の柔らかい男が両腕を広げて僕を迎えた。僕は勧められるままにブカブカするソファに腰を下ろした。部屋の隅には車いすの老人がいて、居眠りでもしているのか、目を閉じてじっとしていた。物腰の柔らかい男が僕の視線に気付いて、大袈裟に、ああ、と頷く。それから、あれは私です、あれこそが私なのです、気にしないで下さい、と云った。

物腰の柔らかい男は僕の前のソファに腰を下ろすと、まず初めにちょっとよろしいですか、と云って僕の右手を要求した。

東洋の占いに手相というのがあるでしょう。私はアレが少し出来ます。

物腰の柔らかい男は、僕の右手をそっと掴んで僕の掌に目を落とすと、人指し指を自分の口に当てて、最近手相が変わりましたね、それでここまでこられたのです、と云った。手相が変わるなんてオカシイとお思いでしょうが、手相は変わるのですよ。少なくとも東洋の手相マイスターたちはそう主張しています。いや、実のところバカな話ですが、しかし彼らは大真面目なのです。それこそが彼らの知恵の証しだと本気で信じているのですからね。実に何とも……

物腰の柔らかい男はそう云ってクスクス笑うと、僕の掌を自分の手でポンと叩いて、はい結構です、と云った。

ところで煙草は足りていますか。物腰の柔らかい男が訊く。僕が首を振ると、ポケットから未開封の煙草とジッポーを取り出してテーブルに置いた。差し上げます。僕は無言で煙草とジッポーを掴みポケットにねじ込んだ。物腰の柔らかい男が完璧な微笑を僕に向け、僕はイライラする。

物腰の柔らかい男はもったいぶった身振りで、さて、うしろをご覧下さい、と云った。僕は振り返った。スポットライトに照らされて、ヒョロ長い一本脚の丸テーブルが立っていた。そこに靴が一足乗っている。僕の靴だ。そのとおりです、と物腰の柔らかい男。僕が正面に向き直ると向かいのソファは空で、しかしもはや、となぜか背後から物腰の柔らかい男の声。僕はまた振り返る。男はいつの間にか丸テーブルの横に後ろ手に立っていた。

この靴は私のものですよ。

その時、丸テーブルの上の僕の靴が一匹の猫になった。物腰の柔らかい男は、ハッとして一瞬身を引いたが間に合わない。猫は物腰の柔らかい男の上等のスーツに爪を立てて取り付くと、その顎に噛みついた。物腰の柔らかい男はヒャッと悲鳴をあげ、ボワンと煙になって消えた。