「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年5月29日水曜日
9-9:生命教談義
ムトーカ君の飼い主の趣味は墓場散歩である。ムトーカ君は飼い主を『オカバヤシハルオ』と呼ぶ。
「オカバヤシハルオは、ここに来ると、死んだ人間の存在を感じるわけです」
オカバヤシではない墓石の前で昼寝をするオカバヤシハルオ。我輩は『生命教』についてムトーカ君と話した。
「墓場ほど、人間という存在を象徴するものはありません」
「墓石など、所詮ネコババの盛り土と変わらんのだがね」
「はい」
宗教とは「不条理への回答」に他ならなない。科学が宗教の後継者と呼ばれるのははそのためである。あるいは、科学の手に負えないものを、宗教の領分とするのもそのためである。しかし、問題は「不条理」の正体である。それは誰が言っているのか? 人間である。不条理とは、詰まる所「目的や意味が理解できない」ということである。ところが、この世界にはそもそも目的や意味など存在しない。するとモノゴトの敵味方が逆になる。存在しない目的や意味が存在するかのように振る舞うことこそが不条理である。だから、不条理は人間にしか見えない。不条理は人間の呪いである。素粒子の振る舞いにも、天体の運行にも、生命の生滅にも、不条理はない。ただ人間にのみ不条理はある。
「人間は様々な不条理を嘆きますが、そうした全ての不条理は、たった一つの根から生じたものです」
「死だね」
「厳密には、自己の消滅として捉えられた死です」
人間の言う生命は、我々猫族をはじめとする、人間以外の生き物にとっての生命とは別物である。人間の生命は、生物個体を存在せしめている、各個体ごとの現象である。しかし、本当の意味の生命とは[知性現象を伴う物理現象全体]を言う。生物個体に拠る区別はもちろん、生物種に拠る区別でさえ、生命現象の捉え方としては誤りである。「地球生命」という時、それは比喩ではなく、ソレガ事実である。人間の言う生命こそが想像の生命である。
「現に自分が存在し、そしてまたいずれ必ず自分が消滅すると分かった時、人間には独自の生命観が誕生したのです」
「すなわち、他の何者でもない自分という生命でしょう」
「そして、かつてゴータマさんが喝破したのがその生命観の虚妄です。神も、運命も、死後の世界も、転生も、全ては[『自分という生命』という虚構に対するこの世界からの『仕打ち』すなわち『不条理』]への『回答』として生み出されたものです」
眠っていたオカバヤシハルオが目を覚まし、ニヤリと笑った。
9-8:質疑応答(「家事」と「生業」)
講演が終わると、主催者が多少の質疑応答の時間を設けた。後ろの方にいたサバ猫君から「家事」と「生業」の違いがよく分からないという質問を受けた。曰く、
「我々猫族の活動は全てが生業、すなわち、生きていくためのものです。人間がいくらオカシナ生き物だと言っても、生き物であることには変わりはないのですから、彼らの活動も全て生業のはずです。確かに人間は、自ら『家事』と呼ぶ活動をしています。ところがその活動も、我々からすれば、生きていくための活動すなわち生業にしか見えません。人間が家事と称して行っているものの代表は料理ですが、それとても結局は摂食活動の一部です。人間のこれと、我々猫族が生業として、たとえばスズメやネズミを捕まえることとは、一体どう違うのか。その辺りをもう少しご説明頂きたいのです」
サバ猫君の質問に同意を示してうなづく頭が他にもいくつかあった。我輩は香箱を正して、回答を試みた。
「言うまでもなく、生命現象の駆動力は各個体の生き死にの循環であります。この循環によって、生命は現象として成立しています。その点で、各個体の生と死は、覚醒と睡眠となんら変わることがない。一方で『眠りに落ちること』が存在自体の消滅と同等になっているのが、人間の『一つの魂一つの体』であります。個体が死ねばソレマデということです。さて、ご質問の『家事と生業の違い』です。普通の意味での人間の家事は、それ自体をどれほど熱心に行っても餓死を免れない。なぜなら、家事は『生き延びるための糧を得る以外の活動』のことだからです。私が講演内で用いた『家事』とはそこからの比喩であります。我々の生業も、実は、個体の死を避けきることはできません。個体の死を受け入れた活動が我々の生業であります。しかし我々はそれで構わない。『一つの魂にたくさんの体』だからであります。ところが人間はそれではダメなわけです。人間にとっての『生き延びる』は、まさに個体としての自分が永遠に存在し続けることを意味するからであります。となると、我々の生業は、人間にとっては全て『家事』ということになります。そして、人間自身の活動に於いても、個体の死を避けきることのできない活動は全て『家事』となるわけです。人間にとっての『生業』とは、[死すべき個体としてのアリヨウすなわち生命現象]からの脱却に他ならず、それを実現するために或る種の科学を極めることに他なりません」
9-7:或る夜の猫の集会
人間にとって、所謂「猫の集会」が謎なのは、その「静けさ」のせいである。夜な夜な集まり無言で過ごすアレは一体何なのだ、と言うわけだ。確かに我々の集会は無言である。その点で人間のソレとは大きく異なる。時々は、虫の好かない同士が罵声や悲鳴を上げることはあっても、あるいは、あまりにも魅力的な異性に遭遇し、時ならぬ喜びの声を上げることはあるにしても、集会での我々は基本、無言である。ただ黙ってそこにいて、結局一言も発しないまま散会に至る。
しかし「一つの魂にたくさんの体」を認識した今となっては、その謎も、もはや謎ではないはずである。我々猫族は、その無言のうちに活発なる対話を行っているのである。近くにいること、見つめ合うこと、互いの匂いを嗅ぐこと、そうした全てで、我々猫族は各々の内面世界を謂わば「同期」しているのである。人間のように粗雑な音波を用いなくても情報共有が可能なことが「一つの魂にたくさんの体」の真骨頂である。
我輩は、或る晩ひとつの集会に赴いた。講演の義務を果たすためである。明治以来の文士猫の系譜である我輩の元には時々こうした講演依頼が舞い込む。場所は元専売公社社宅の駐車場跡。因みにムトーカ君は飼い猫という身分のために、こうした会には出席しない。「都会にはアタマのオカシナ人間が多すぎる」ため「猫がひとりで出歩くのはとても危ない」というのが、ムトーカ君の飼い主の主張である。これについて我輩は特に賛同もしないし、格別の異論もない。
さて、少し遅れて到着した我輩は、主催猫の案内でタイヤの潰れた赤い軽自動車のボンネットの上に陣取った。壇上から眺めると既に数十匹の聴講猫である。
その晩の我輩の講演に題名をつけるなら『家事と生業』であろう。内容は所謂「人間問題」である。論旨は以下の如くである。全ての生き物は他の全ての生き物にとっての生存環境である。無論人間も「全ての生き物」に含まれる。しかしながら人間は既に「環境としての生き物」としてはあまりも「一つの魂に一つの体」的存在になり過ぎており、もはや環境の対立物でしかない。そんな人間が向かうべきはただ自主的絶滅のみ。人間の全活動のうち、自主的絶滅を実現するために行われるのが「生業」であり、それ以外は全て「家事」である。不要な「家事」は出来得る限り省くのが人間の義務である。
これらは言うまでもなく、全智のてつねこムトーカ君との交流で得た知見である。
9-6:必然としての死神
「一つの魂にたくさんの体」から自らこぼれ落ちてしまった人間が「死神」を生み出したのは、謂わば必然である。我輩が初めて「死神」を目にしたのは、或る年の夏、ジージーと鳴きわめくクマゼミを咥えて、朝の散歩を楽しんでいる時であった。ふと見ると、通りの向こうのコンビニのベンチにムトーカ君が悠然と腰を下ろしていた。ムトーカ君の飼い主も散歩用の紐の端を持って横に座っていた。近づいて挨拶でもと思ったところに、コンビニから異様な風体の男が出てきてムトーカ君の隣に座った。あとで分かったのだが、そのアヤシイ風体の男こそ「死神」であった。死神は、包帯でぐるぐる巻きの顔面で器用に煙草を吸い、缶珈琲を飲んでいた。死神のエサは煙草と珈琲である。ムトーカ君の飼い主の口が動いていた。飼い主を介してムトーカ君が死神と何か話しているのである。死神はそのベンチで珈琲2缶を空にし、煙草5本を煙にした。
「死神といっても所詮はただの死なない人間ですよ」
あとでムトーカ君が言った。「一つの魂に一つの体」の人間にとって、肉体の死は、すなわち魂の死、つまりは永遠の消滅である。そこに強い「死神需要」が生まれるのだとムトーカ君。
「人間のアリヨウをとことんまで煮詰めると、世界中どこでも、行き着くところはこれみんな、死神です」
考えてみれば、死神は人間専門である。日々大量に死んで行く大腸菌やナンキョクオキアミのもとを死神が訪ねた話など聞いたことがない。
「フツウの生き物は死にませんからね。死ぬのは人間だけです。死は人間の発明で、当然、死神も人間だけを相手にすることになります」
根っこはやはり生命教信仰である。
「群盲象を評す。時間も生命も物理現象という大きな象の[部分の「手触り」]でしかありません。死神はその二つの手触りの戦慄から生み出されたのです。時間だけがあって生命がないなら、無論死神は求められはしなかった。しかし、生命だけがあって時間がなくても、やはり死神は求めらなかったでしょう」
死神の司る「死」は、生命現象を「寿命」という枠組みで切り取ったものである。しかし、そもそも生命現象が物理現象の部分に過ぎない。物理現象の部分に過ぎない生命現象を、更に、寿命という部分に切り取って右往左往している人間が、自ら作った枠組みを取り外し、生命現象を元の物理現象に嵌め戻す存在として生み出したのが死神である。それは人間の自覚なきマッチポンプの産物。
9-5:一つの魂にたくさんの体
「一つの魂にたくさんの体」仮説は、我々猫族全体の一般教養である。誰が発案者ということもなく(無論、事実としては確実に最初のひとりはいたはずである)、イニシエより皆が同意している、いわゆる常識である。にも関わらず、敢えて「仮説」と表現したのは、言うまでもなくそれが科学的態度の基本だからである。
いったい人間は、猫を非常に非科学的な存在だと思い込んでいるようであるが、真実の猫は人間の科学者などよりもずっと徹底した科学者である。人間がその事実に気づかないのは、彼ら自身の科学者的素養が低すぎるためである。大賢は大愚に似たり。並の知性には図抜けた知性が愚かに見える。大賢を即座に大賢と見抜けるのはただ大賢のみである。
ともあれ、科学者は[全ては「仮説」である]という態度を崩してはならない。自らの学説であれ他人のソレであれ、それを「真理」と見なした瞬間から科学者は信仰者へと堕落する。我々猫族は生まれながらの科学者であり、またそうであることに誇りを持っている。或る仮説が数千年に渡って覆されることがなくとも、やはりそれは仮説であり続けるのである。
さて、この「一つの魂にたくさんの体」仮説によって実現されるのが、同時刻に複数の場所に存在し、且つ、時間を超えて存在し続けるという状態である。これを言い換えるなら、すなわち「遍く在り、常に在る」である。気づかれた読者も多いだろう。そう、これは気の毒な人間どもが大昔から「神のアリヨウ」と看做して来たソレそのものである。
では、我々猫族は「神」もしくは「神と同格」なのか? 無論そんなことはない。というのも、「遍在常在」を「特別で特殊で超越的状態」と捉えるのは、ただ人間のみだからである。少なくともこの丸石の上ではそうである。実を言うと「一つの魂にたくさんの体」は、我々猫族に限定されない。褐藻虫から象、鯨まで、およそ生命と呼ばれている全ては、皆悉く「一つの魂にたくさんの体」である。ただ人間だけが、そのアリヨウから自ら進んで滑り落ちてしまっているのである。
「一つの魂にたくさんの体」仮説は、生命を正しく理解していれば当然辿り着く結論に過ぎない。というのも、生命と雖も正体は[或る特定の物理現象]であり[或る特定の化学反応]に変わりないからである。複数の実験室で水が電気分解されて水素と酸素に別れる時、実験室ごとでその化学反応に違いが生じるわけではないのと一般である。
9-4:或る種の共振作用
「或る種の共振作用の応用でしょう」
てつねこ一門現当主ムトーカ君は、或る時悠然とこう述べた。一方、我輩は、ムトーカ君の鮑の貝殻の中に残ったドイツ製の乾燥飯を齧るのに忙しかった。
「音叉というものは、こっちを叩いて鳴らすと、叩いてないあっちが同じ音で鳴り出すでしょう。あれに似てます。だから人間なら何でもいいというわけでもない」
我輩は顎を動かすの一旦やめて「まさに波長が合う合わないという話ですな」と返した。ムトーカ君は頷いた。
「人間の身体で精神の共振作用を起こして、猫語を人語として発声させるのです」
言うまでもないが、我々猫族が人語を話せないのは知性の問題ではなく身体の問題である。この問題を克服したのが初代てつねこである。てつねこは、その秘術によって、意思を人語に変換し直接他の人間に伝えるのである。それが何の得になるのか。人間が生み出した文明の利器を最大限に活用できる。織物、冷暖房、書籍、通信、保存食料、移動機械などが使い放題である。
人間の社会装置は、当然ながら悉く人間の身体に最適化されており、人間の背丈、人間の手、人間の目、そして人間の言葉があって初めて便利に使えるものである。猫の身体を持つ我々には非常に使いづらい。もしも我々猫族がそれら様々を便利に活用しようするなら、ゼヒトモ必要なのは人間の身体である(先にも述べたが人間の知性は全く必要ない)。しかしそれだけのために、哺乳動物の最高位を捨て、エサの地位に身を窶すのは実際惜しい話である。いや実際、進化への冒涜である。
そこで、てつねこ一門の秘術である。その本質は、人間を或る種の「周辺機器」としてしまうことであり、更に言うなら「拡張身体」としてしまうということである。あるいはやや古い用語を用いて、[「延長された表現形」として生きた人間を取り込む]と言ってもいいだろう。ともかく、そうやって、人間の作り出した成果を我が物とするのが、てつねこ一門の秘術の真髄である。
ここで一つ重要な事実を述べておかなくてはならない。てつねこ一門が人間を操って引き出した[様々な知見/知識/経験]すなわち利益は、なにもてつねこ一門が独占する訳ではない。てつねこ一門が獲得した全ては、猫族全体で即時的に共有されるのである。何故か? そこには、人間とは全く異なる[我々猫族のアリヨウ]というものが関係している。言わずと知れた、「一つの魂にたくさんの体」仮説である。
9-3:ダンスマカブル
「てつねこ」とは何か。或る種の寄生虫は自らの子孫繁栄のために、宿主の行動を操り自殺行動を取らせる。カマキリを入水自殺させるハリガネムシや、天敵の鳥に身を晒すようオカモノアラガイ(でんでん虫)を操るロイコクロリディウムは有名である。我々猫族を終宿主とするトキソプラズマは、寄生虫というより寄生細胞と呼んだ方が適当かもしれないが、これもまた宿主を操り、死へと誘う。この場合、ダンスマカブルすなわち死の舞踏を踏まされるのは、我々猫族ではなく、中間宿主のネズミどもである。
我々猫族はネズミを食べることでトキソプラズマを体内に取り込む。食べられる側のネズミはトキソプラズマに操られて、我々猫族に対し無警戒になる。言い換えると、気が大きくなる。気が大きくなったところで、ネズミはネズミである。我々猫族の敵ではない。ネズミが我々猫族と対等にやりあえるのは、ネズミ好きのアメリカン人が作るテレビ漫画の中だけである。
ここで肝心なのは、大胆になって我々を恐れなくなったネズミどものほうが、我々の食事の対象になりやすいということである。このとき、いつもより楽に食事にありつける我々はもちろん得をするのだが、我々以上に得をするのがトキソプラズマである。どうせネズミを食べるならトキソプラズマ入りをぜひ食べて欲しいというのが、彼らトキソプラズマの立場である。
トキソプラズマにとって、鮭でいうところの生まれ故郷の川の上流が、我々猫族である。故に適当なところでさっさと猫に食べられてしまうネズミが理想の遡上船であり、そのためには猫を恐れてコソコソ逃げ回ってもらっては困るのである。ネズミの大胆行動はトキソプラズマの「意志」の反映である。ネズミだけではない。カマキリにせよ、でんでん虫にせよ、肝心な点は、全ての場合で、操られている宿主には操られている自覚がマルデナイコト。彼らは皆、自ら望んでそうしていると信じ込んでいるのである。
さて、ぐるりと回って辿り着いた。ブッダ入滅以来の伝統を持つ「てつねこ」一門の秘術がまさにこの寄生虫の妙技そのものなのである。この場合操られるのは人間である。てつねこは人間を自死に追い込むわけではないが、資源の全てをてつねこに捧げるよう仕向けるのであるから、実質的には同じことである。しかし人間自身は自律的かつ自発的な「飼い主」のつもりであり、その点でまさに先に述べた寄生虫と宿主の例そのものなのである。
9-2:涅槃図の猫
明治以来の伝統を持つマダナイの名跡ではあるが、猫が文士で日々の糧を得るのは至難の技である。至難の技というより、ほぼ不可能である。事実、文士猫として成功したのは初代マダナイのみで、その初代でさえわずか3年の儚い生涯であった。
このように述べることで、我輩は、現在の我輩の暮らしぶりを擁護/弁護するつもりはない。我輩は、現在の我輩の暮らしぶりに、強がりではなく芯から満足しており、実際、他の猫に比べても幸福度は高いように思うのである。
伝統ある文士猫である我輩は、無論、文士である。しかし、文士では食うことができぬ。そこで必要となるのが二足目のワラジである。と言っても、特別なことではない。今時の都会猫なら誰でもやっている地域猫稼業である。これは、昔は単に野良猫と呼ばれていたものである。両者の違いは、我々猫の側からではなく人間の側から生まれる。地域猫稼業が成立するには、依存の対象とする人間の社会が物質的に豊かで、住環境的にはむしろ不毛でなければならない。逆に、野良猫稼業が成立するには、人間の社会が物質的には貧しく、しかし住環境的には或る種のゆとりを持っていなければならない。このように、陽の当たり具合に若干の違いはあるものの、やることは概ね同じで、要はナワバリ内をハシゴする人誑しである。これを我々猫族は、慎ましやかに地域猫/野良猫稼業と呼ぶ。同じことを人間がやる場合は、托鉢/乞食行などと呼び名が変わる。
親友ムトーカ君とは、「托鉢」先の家で知り合った。ムトーカ君は飼い猫である。飼い猫ではあったが、ナリは我輩よりも汚かった。両者を並べてどちらが野良猫でどちらが飼い猫かと問えば、大抵の者は逆に答えて間違えるだろう。ムトーカ君が汚いのは、ムトーカ君の飼い主が猫が汚いことに平気なせいである。ムトーカ君の飼い主は、毎晩酔っ払って自転車で帰ってくる、飯の種の分からないオトコである。自転車の無灯火運転で警官と揉めた晩に、その故障車両の前カゴに入っていたのが、当時まだ子猫だったムトーカ君である。それ以来、ムトーカ君はムトーカ君である。
しかしムトーカ君はただの猫ではない。我輩も明治以来の伝統を持つ文士猫だが、ムトーカ君のソレは更に古い。何しろ涅槃図の釈迦の懐でうたた寝をしていたのが、誰あろうムトーカ君一門の創始猫なのだから全く恐れ入る。ムトーカ君は釈尊入滅以来の伝統を持つ「てつねこ」の正統継承者である。
9-1:明治以来の名跡
我輩は猫である。名前はマダナイ。学識高い読者諸君には今更説明するまでもないが、マダナイは明治以来の文士猫の名跡である。酒と水瓶に命を奪われた初代から数えて、今日の我輩でちょうど三十代目である。
ここで疑問に思われた方もおいでだろう。初代マダナイは、当時の猫としても若死にではなかったか。すなわち、初代は子をもうけることなくミマカッタのではなかったか。そのとおり。初代は子を作ることもなくこの世を去った。その死にザマは真の仏教徒らしい実に潔いのよいものであった。死にザマは仏教徒らしくても、子作り関しては仏教徒らしくなくてもよいのが、我々猫族の思想である。人間は、親鸞の後ようやくその境地に到達したわけだが、我々猫族は、アーナンダが他の仏弟子たちから吊るし上げを食っていた頃には既にそれをアタリマエとしていたのだから年季が違う。充分に悟っているなら、子の存在は問題にはならないことは、当の釈尊が証明しており、もしも生理としてそれが求められるなら、それを妨げてはならない。すなわち「産みたいだけ産め」である。子は、飯、糞、眠りと同じであり、生命現象の一要素に過ぎないと悟れば、仏教徒らしい生きザマ死にザマにナンラの影響も及ぼさないのである。少なくとも、我々猫族にとってはそうである。人間の悟りがカタチばかりで中身が伴わず、いつまで経っても子や孫の呪縛から逃れられないのは、人間というものが悉く『生命教』(これについてのはのちに改めて述べるつもりである)の狂信者であり、その時点で既に「信仰を捨てよ」と説いたシャカの教えに背いているからに他ならない。しかも、人間は、自分たちがそのような愚かな宗教の狂信者であることに全く自覚がないのだから始末が悪い。これをもって無明/無灯というのである。
と、話が脇に逸れたが、人間が血眼になって、時にはそれがために命まで奪い合う血筋や血統は、我々猫族にとっては、自らの糞(ふん)の匂いほどのものでしかない。確かに大事で、或る種の愛着すら感じるものだが所詮は糞の香りである。初代が子を残さずに死んだことに何の不都合もない。これが人間なら後代の者たちが「初代には隠し子がいた」などと言い出して、なんとか強固な「正統性」を生み出そうと躍起になるところだろう。実にご苦労なことである。
第三十代マダナイである我輩は初代マダナイとは血筋の上では「赤の他人」である。だが、それがどうした?
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