2019年5月29日水曜日

9-6:必然としての死神


「一つの魂にたくさんの体」から自らこぼれ落ちてしまった人間が「死神」を生み出したのは、謂わば必然である。我輩が初めて「死神」を目にしたのは、或る年の夏、ジージーと鳴きわめくクマゼミを咥えて、朝の散歩を楽しんでいる時であった。ふと見ると、通りの向こうのコンビニのベンチにムトーカ君が悠然と腰を下ろしていた。ムトーカ君の飼い主も散歩用の紐の端を持って横に座っていた。近づいて挨拶でもと思ったところに、コンビニから異様な風体の男が出てきてムトーカ君の隣に座った。あとで分かったのだが、そのアヤシイ風体の男こそ「死神」であった。死神は、包帯でぐるぐる巻きの顔面で器用に煙草を吸い、缶珈琲を飲んでいた。死神のエサは煙草と珈琲である。ムトーカ君の飼い主の口が動いていた。飼い主を介してムトーカ君が死神と何か話しているのである。死神はそのベンチで珈琲2缶を空にし、煙草5本を煙にした。

「死神といっても所詮はただの死なない人間ですよ」
あとでムトーカ君が言った。「一つの魂に一つの体」の人間にとって、肉体の死は、すなわち魂の死、つまりは永遠の消滅である。そこに強い「死神需要」が生まれるのだとムトーカ君。
「人間のアリヨウをとことんまで煮詰めると、世界中どこでも、行き着くところはこれみんな、死神です」
考えてみれば、死神は人間専門である。日々大量に死んで行く大腸菌やナンキョクオキアミのもとを死神が訪ねた話など聞いたことがない。
「フツウの生き物は死にませんからね。死ぬのは人間だけです。死は人間の発明で、当然、死神も人間だけを相手にすることになります」
根っこはやはり生命教信仰である。
「群盲象を評す。時間も生命も物理現象という大きな象の[部分の「手触り」]でしかありません。死神はその二つの手触りの戦慄から生み出されたのです。時間だけがあって生命がないなら、無論死神は求められはしなかった。しかし、生命だけがあって時間がなくても、やはり死神は求めらなかったでしょう」

死神の司る「死」は、生命現象を「寿命」という枠組みで切り取ったものである。しかし、そもそも生命現象が物理現象の部分に過ぎない。物理現象の部分に過ぎない生命現象を、更に、寿命という部分に切り取って右往左往している人間が、自ら作った枠組みを取り外し、生命現象を元の物理現象に嵌め戻す存在として生み出したのが死神である。それは人間の自覚なきマッチポンプの産物。