「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年5月29日水曜日
9-3:ダンスマカブル
「てつねこ」とは何か。或る種の寄生虫は自らの子孫繁栄のために、宿主の行動を操り自殺行動を取らせる。カマキリを入水自殺させるハリガネムシや、天敵の鳥に身を晒すようオカモノアラガイ(でんでん虫)を操るロイコクロリディウムは有名である。我々猫族を終宿主とするトキソプラズマは、寄生虫というより寄生細胞と呼んだ方が適当かもしれないが、これもまた宿主を操り、死へと誘う。この場合、ダンスマカブルすなわち死の舞踏を踏まされるのは、我々猫族ではなく、中間宿主のネズミどもである。
我々猫族はネズミを食べることでトキソプラズマを体内に取り込む。食べられる側のネズミはトキソプラズマに操られて、我々猫族に対し無警戒になる。言い換えると、気が大きくなる。気が大きくなったところで、ネズミはネズミである。我々猫族の敵ではない。ネズミが我々猫族と対等にやりあえるのは、ネズミ好きのアメリカン人が作るテレビ漫画の中だけである。
ここで肝心なのは、大胆になって我々を恐れなくなったネズミどものほうが、我々の食事の対象になりやすいということである。このとき、いつもより楽に食事にありつける我々はもちろん得をするのだが、我々以上に得をするのがトキソプラズマである。どうせネズミを食べるならトキソプラズマ入りをぜひ食べて欲しいというのが、彼らトキソプラズマの立場である。
トキソプラズマにとって、鮭でいうところの生まれ故郷の川の上流が、我々猫族である。故に適当なところでさっさと猫に食べられてしまうネズミが理想の遡上船であり、そのためには猫を恐れてコソコソ逃げ回ってもらっては困るのである。ネズミの大胆行動はトキソプラズマの「意志」の反映である。ネズミだけではない。カマキリにせよ、でんでん虫にせよ、肝心な点は、全ての場合で、操られている宿主には操られている自覚がマルデナイコト。彼らは皆、自ら望んでそうしていると信じ込んでいるのである。
さて、ぐるりと回って辿り着いた。ブッダ入滅以来の伝統を持つ「てつねこ」一門の秘術がまさにこの寄生虫の妙技そのものなのである。この場合操られるのは人間である。てつねこは人間を自死に追い込むわけではないが、資源の全てをてつねこに捧げるよう仕向けるのであるから、実質的には同じことである。しかし人間自身は自律的かつ自発的な「飼い主」のつもりであり、その点でまさに先に述べた寄生虫と宿主の例そのものなのである。