2019年5月29日水曜日

9-5:一つの魂にたくさんの体


「一つの魂にたくさんの体」仮説は、我々猫族全体の一般教養である。誰が発案者ということもなく(無論、事実としては確実に最初のひとりはいたはずである)、イニシエより皆が同意している、いわゆる常識である。にも関わらず、敢えて「仮説」と表現したのは、言うまでもなくそれが科学的態度の基本だからである。

いったい人間は、猫を非常に非科学的な存在だと思い込んでいるようであるが、真実の猫は人間の科学者などよりもずっと徹底した科学者である。人間がその事実に気づかないのは、彼ら自身の科学者的素養が低すぎるためである。大賢は大愚に似たり。並の知性には図抜けた知性が愚かに見える。大賢を即座に大賢と見抜けるのはただ大賢のみである。

ともあれ、科学者は[全ては「仮説」である]という態度を崩してはならない。自らの学説であれ他人のソレであれ、それを「真理」と見なした瞬間から科学者は信仰者へと堕落する。我々猫族は生まれながらの科学者であり、またそうであることに誇りを持っている。或る仮説が数千年に渡って覆されることがなくとも、やはりそれは仮説であり続けるのである。

さて、この「一つの魂にたくさんの体」仮説によって実現されるのが、同時刻に複数の場所に存在し、且つ、時間を超えて存在し続けるという状態である。これを言い換えるなら、すなわち「遍く在り、常に在る」である。気づかれた読者も多いだろう。そう、これは気の毒な人間どもが大昔から「神のアリヨウ」と看做して来たソレそのものである。

では、我々猫族は「神」もしくは「神と同格」なのか? 無論そんなことはない。というのも、「遍在常在」を「特別で特殊で超越的状態」と捉えるのは、ただ人間のみだからである。少なくともこの丸石の上ではそうである。実を言うと「一つの魂にたくさんの体」は、我々猫族に限定されない。褐藻虫から象、鯨まで、およそ生命と呼ばれている全ては、皆悉く「一つの魂にたくさんの体」である。ただ人間だけが、そのアリヨウから自ら進んで滑り落ちてしまっているのである。

「一つの魂にたくさんの体」仮説は、生命を正しく理解していれば当然辿り着く結論に過ぎない。というのも、生命と雖も正体は[或る特定の物理現象]であり[或る特定の化学反応]に変わりないからである。複数の実験室で水が電気分解されて水素と酸素に別れる時、実験室ごとでその化学反応に違いが生じるわけではないのと一般である。