我輩は猫である。名前はマダナイ。学識高い読者諸君には今更説明するまでもないが、マダナイは明治以来の文士猫の名跡である。酒と水瓶に命を奪われた初代から数えて、今日の我輩でちょうど三十代目である。
ここで疑問に思われた方もおいでだろう。初代マダナイは、当時の猫としても若死にではなかったか。すなわち、初代は子をもうけることなくミマカッタのではなかったか。そのとおり。初代は子を作ることもなくこの世を去った。その死にザマは真の仏教徒らしい実に潔いのよいものであった。死にザマは仏教徒らしくても、子作り関しては仏教徒らしくなくてもよいのが、我々猫族の思想である。人間は、親鸞の後ようやくその境地に到達したわけだが、我々猫族は、アーナンダが他の仏弟子たちから吊るし上げを食っていた頃には既にそれをアタリマエとしていたのだから年季が違う。充分に悟っているなら、子の存在は問題にはならないことは、当の釈尊が証明しており、もしも生理としてそれが求められるなら、それを妨げてはならない。すなわち「産みたいだけ産め」である。子は、飯、糞、眠りと同じであり、生命現象の一要素に過ぎないと悟れば、仏教徒らしい生きザマ死にザマにナンラの影響も及ぼさないのである。少なくとも、我々猫族にとってはそうである。人間の悟りがカタチばかりで中身が伴わず、いつまで経っても子や孫の呪縛から逃れられないのは、人間というものが悉く『生命教』(これについてのはのちに改めて述べるつもりである)の狂信者であり、その時点で既に「信仰を捨てよ」と説いたシャカの教えに背いているからに他ならない。しかも、人間は、自分たちがそのような愚かな宗教の狂信者であることに全く自覚がないのだから始末が悪い。これをもって無明/無灯というのである。
と、話が脇に逸れたが、人間が血眼になって、時にはそれがために命まで奪い合う血筋や血統は、我々猫族にとっては、自らの糞(ふん)の匂いほどのものでしかない。確かに大事で、或る種の愛着すら感じるものだが所詮は糞の香りである。初代が子を残さずに死んだことに何の不都合もない。これが人間なら後代の者たちが「初代には隠し子がいた」などと言い出して、なんとか強固な「正統性」を生み出そうと躍起になるところだろう。実にご苦労なことである。
第三十代マダナイである我輩は初代マダナイとは血筋の上では「赤の他人」である。だが、それがどうした?