「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年5月29日水曜日
9-8:質疑応答(「家事」と「生業」)
講演が終わると、主催者が多少の質疑応答の時間を設けた。後ろの方にいたサバ猫君から「家事」と「生業」の違いがよく分からないという質問を受けた。曰く、
「我々猫族の活動は全てが生業、すなわち、生きていくためのものです。人間がいくらオカシナ生き物だと言っても、生き物であることには変わりはないのですから、彼らの活動も全て生業のはずです。確かに人間は、自ら『家事』と呼ぶ活動をしています。ところがその活動も、我々からすれば、生きていくための活動すなわち生業にしか見えません。人間が家事と称して行っているものの代表は料理ですが、それとても結局は摂食活動の一部です。人間のこれと、我々猫族が生業として、たとえばスズメやネズミを捕まえることとは、一体どう違うのか。その辺りをもう少しご説明頂きたいのです」
サバ猫君の質問に同意を示してうなづく頭が他にもいくつかあった。我輩は香箱を正して、回答を試みた。
「言うまでもなく、生命現象の駆動力は各個体の生き死にの循環であります。この循環によって、生命は現象として成立しています。その点で、各個体の生と死は、覚醒と睡眠となんら変わることがない。一方で『眠りに落ちること』が存在自体の消滅と同等になっているのが、人間の『一つの魂一つの体』であります。個体が死ねばソレマデということです。さて、ご質問の『家事と生業の違い』です。普通の意味での人間の家事は、それ自体をどれほど熱心に行っても餓死を免れない。なぜなら、家事は『生き延びるための糧を得る以外の活動』のことだからです。私が講演内で用いた『家事』とはそこからの比喩であります。我々の生業も、実は、個体の死を避けきることはできません。個体の死を受け入れた活動が我々の生業であります。しかし我々はそれで構わない。『一つの魂にたくさんの体』だからであります。ところが人間はそれではダメなわけです。人間にとっての『生き延びる』は、まさに個体としての自分が永遠に存在し続けることを意味するからであります。となると、我々の生業は、人間にとっては全て『家事』ということになります。そして、人間自身の活動に於いても、個体の死を避けきることのできない活動は全て『家事』となるわけです。人間にとっての『生業』とは、[死すべき個体としてのアリヨウすなわち生命現象]からの脱却に他ならず、それを実現するために或る種の科学を極めることに他なりません」