「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年5月29日水曜日
9-2:涅槃図の猫
明治以来の伝統を持つマダナイの名跡ではあるが、猫が文士で日々の糧を得るのは至難の技である。至難の技というより、ほぼ不可能である。事実、文士猫として成功したのは初代マダナイのみで、その初代でさえわずか3年の儚い生涯であった。
このように述べることで、我輩は、現在の我輩の暮らしぶりを擁護/弁護するつもりはない。我輩は、現在の我輩の暮らしぶりに、強がりではなく芯から満足しており、実際、他の猫に比べても幸福度は高いように思うのである。
伝統ある文士猫である我輩は、無論、文士である。しかし、文士では食うことができぬ。そこで必要となるのが二足目のワラジである。と言っても、特別なことではない。今時の都会猫なら誰でもやっている地域猫稼業である。これは、昔は単に野良猫と呼ばれていたものである。両者の違いは、我々猫の側からではなく人間の側から生まれる。地域猫稼業が成立するには、依存の対象とする人間の社会が物質的に豊かで、住環境的にはむしろ不毛でなければならない。逆に、野良猫稼業が成立するには、人間の社会が物質的には貧しく、しかし住環境的には或る種のゆとりを持っていなければならない。このように、陽の当たり具合に若干の違いはあるものの、やることは概ね同じで、要はナワバリ内をハシゴする人誑しである。これを我々猫族は、慎ましやかに地域猫/野良猫稼業と呼ぶ。同じことを人間がやる場合は、托鉢/乞食行などと呼び名が変わる。
親友ムトーカ君とは、「托鉢」先の家で知り合った。ムトーカ君は飼い猫である。飼い猫ではあったが、ナリは我輩よりも汚かった。両者を並べてどちらが野良猫でどちらが飼い猫かと問えば、大抵の者は逆に答えて間違えるだろう。ムトーカ君が汚いのは、ムトーカ君の飼い主が猫が汚いことに平気なせいである。ムトーカ君の飼い主は、毎晩酔っ払って自転車で帰ってくる、飯の種の分からないオトコである。自転車の無灯火運転で警官と揉めた晩に、その故障車両の前カゴに入っていたのが、当時まだ子猫だったムトーカ君である。それ以来、ムトーカ君はムトーカ君である。
しかしムトーカ君はただの猫ではない。我輩も明治以来の伝統を持つ文士猫だが、ムトーカ君のソレは更に古い。何しろ涅槃図の釈迦の懐でうたた寝をしていたのが、誰あろうムトーカ君一門の創始猫なのだから全く恐れ入る。ムトーカ君は釈尊入滅以来の伝統を持つ「てつねこ」の正統継承者である。