2019年5月29日水曜日

9-7:或る夜の猫の集会


人間にとって、所謂「猫の集会」が謎なのは、その「静けさ」のせいである。夜な夜な集まり無言で過ごすアレは一体何なのだ、と言うわけだ。確かに我々の集会は無言である。その点で人間のソレとは大きく異なる。時々は、虫の好かない同士が罵声や悲鳴を上げることはあっても、あるいは、あまりにも魅力的な異性に遭遇し、時ならぬ喜びの声を上げることはあるにしても、集会での我々は基本、無言である。ただ黙ってそこにいて、結局一言も発しないまま散会に至る。

しかし「一つの魂にたくさんの体」を認識した今となっては、その謎も、もはや謎ではないはずである。我々猫族は、その無言のうちに活発なる対話を行っているのである。近くにいること、見つめ合うこと、互いの匂いを嗅ぐこと、そうした全てで、我々猫族は各々の内面世界を謂わば「同期」しているのである。人間のように粗雑な音波を用いなくても情報共有が可能なことが「一つの魂にたくさんの体」の真骨頂である。

我輩は、或る晩ひとつの集会に赴いた。講演の義務を果たすためである。明治以来の文士猫の系譜である我輩の元には時々こうした講演依頼が舞い込む。場所は元専売公社社宅の駐車場跡。因みにムトーカ君は飼い猫という身分のために、こうした会には出席しない。「都会にはアタマのオカシナ人間が多すぎる」ため「猫がひとりで出歩くのはとても危ない」というのが、ムトーカ君の飼い主の主張である。これについて我輩は特に賛同もしないし、格別の異論もない。

さて、少し遅れて到着した我輩は、主催猫の案内でタイヤの潰れた赤い軽自動車のボンネットの上に陣取った。壇上から眺めると既に数十匹の聴講猫である。

その晩の我輩の講演に題名をつけるなら『家事と生業』であろう。内容は所謂「人間問題」である。論旨は以下の如くである。全ての生き物は他の全ての生き物にとっての生存環境である。無論人間も「全ての生き物」に含まれる。しかしながら人間は既に「環境としての生き物」としてはあまりも「一つの魂に一つの体」的存在になり過ぎており、もはや環境の対立物でしかない。そんな人間が向かうべきはただ自主的絶滅のみ。人間の全活動のうち、自主的絶滅を実現するために行われるのが「生業」であり、それ以外は全て「家事」である。不要な「家事」は出来得る限り省くのが人間の義務である。

これらは言うまでもなく、全智のてつねこムトーカ君との交流で得た知見である。