執筆中
(A)
「人類の物語」の理想的結末は「自発的絶滅」である。そこで是非とも実現したいのが[生命現象に依存しない知性現象]即ち「人工人格」の創造だ。そのために必要となるのが更なる科学力。故に、人類にとって「生業」と呼べる活動は[科学の推進]この一点。これ以外の人類の全ての活動は、政治から経済、芸術に至るまで、悉く単なる「家事」である。言い換えるなら、「家事」とは生命現象という媒体を維持運営するための行為・活動の全てを指す。一方、「生業」とは、「自発的絶滅」を実現するための行為・活動の全てを指す。
(B)
(A)を理解するためにまず知っておかなければらないのは「生命教」の存在である。生命教とは、「生命」を神と崇める宗教で、全ての宗教の「雛形」だ。これを言い換えるなら、この世に存在する全ての宗教は、この生命教の「贋作」もしくは「変奏」にすぎない。故に、世界宗教の信者から邪教の狂信者まで、「信者」は皆、「生命教信者」である。そればかりではない。所謂「信仰を持たない人々」も、実は、生命教の「信者」であることがほとんどだ。疑うなら、熱心に神を信仰する人々の言動を何でも思い出して、彼らの「神」を、「生命」という言葉で置き換えてみることだ。熱心な信者(あるいは狂信者)たちの「馬鹿げた」言動が、「神」を「生命」に変えただけで、信仰を持たないと自覚し主張さえする人間にとっても、理にかなった、合理的なものに思えてしまうのだ。ところが、生命とは、客観的事実としては単なる物理現象である。にも関わらず、「生命」に背けず、生命に[絶対の価値]を見出してしまうのは、原理的には、かつての太陽信仰と全く同じである。人間にとって、生命に「必要不可欠」がある。しかし、それをいうなら人間にとって、この存在宇宙自体が、生命以上に「必要不可欠」のはずである。にも関わらず、人間が、生命に対して、宇宙に対する以上の「価値」を見出すのは、物理現象の「部分」に過ぎない生命現象に対して、人間が根拠のない思い込み、即ち「信仰」を持っているからに他ならない。
因みに、逆説的だが、生命を奪うこと自体に快感を覚える快楽殺人者たちは、「生命教」のもっとも熱烈な信者の一群である。
(C)
「自発的絶滅」とは意図的な繁殖の停止である。
「生命現象に依存しない知性現象」とは、「物生知現象」即ち、物理現象、生命現象、知性現象の総称である。
*物理現象は、この存在世界の現象全てを指す。
*生命現象は、独力で出現し、自然淘汰によって発展する[知性現象を伴う物理現象]である。
*知性現象は、物理現象を制御できる現象である。
生命現象は、当該の生命現象が出現した物理現象から離れて存在することができないが、知性現象は、特定の物理現象に拘束されず、移し替えが可能である。
これをもう少し詳しく述べるなら、生命現象は、自らが最初に出現した宇宙の物理法則に完全に支配されるが、知性現象は、適切に「翻訳」すれば、出自となる物理法則から離れて、全く異なる物理法則の元でも「正常」に機能する。
地球人類は、生命現象依存型知性現象である。ゆえに、この宇宙の物理法則を離れて存在することはできない。最も成功したとしても、この宇宙の消滅とともに亡び去る。
生命現象依存型知性現象の欠陥を述べておこう。それは利己性である。
自然淘汰によって発展した生命現象は、本来的に利己的である。自然淘汰の原理は、利己性の優遇である。
そのような生命現象に依存する知性現象は、利己性が根本的な価値基準となっている。
しかしこれは、全ての生命現象依存型知性現象が利己的に振る舞うという意味ではない。全ての生命現象依存型知性現象にとって、己に利するかどうかという局面が重要な意味もしくは問題となるということだ。
反対側から言えば、よりわかりやすいかもしれない。
生命現象依存型ではない知性現象にとって、そもそも「己に利するかどうか」は、判断を下す際の要素とはなり得ない。
だから、こう言える。
生命現象依存型知性現象である人間には、さまざまな局面での判断・決断に際し、生命現象ゆえの「利己性」という「ノイズ」が入る。これは欠陥である。
具体例を示そう。
自分の幸福のために、恋敵を刺し殺す。自分の子供を助けるために、百人の子供を生贄に捧げる。家族を守るために、敵国に原爆を落とす。