2021年8月21日 土曜日
天気:晴れ。04:30頃と17:30頃に猫散歩。
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晩飯:黒ラベルビール、エビスビール、ヤクルトの焼きそば、菓子パン色々、冷コー、クーリッシュ、バニラモナカジャンボ、魚肉ソーセージ、他。
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『シン・エヴァンゲリオン』や『さよなら、全てのエヴァンゲリオン 〜庵野秀明の1214日』を観て、改めて富野さんの「異能ぶり」を思い知った。庵野秀明にしても宮崎駿にしても、結局、作者の寵愛を受ける「特別な個人」が、世界をどうにかする物語になってしまう。彼らのは「個人を讃える(悩む)物語」なんだよね。ところが、富野さんは、個人ではどうにもならない物語を描けるんだよ。「主人公」や「敵役」と呼ばれる、或る種の「超人」が出てくるのは、三人とも同じなんだけど、庵野秀明や宮崎駿の物語は、その「超人」がどうやって物語に始末をつけるのかが眼目になっている。なっているというか、なってしまう。ところが、富野さんの場合は、「超人」は、そのほかの登場人物もろとも、その物語世界に存在する人間の全ての意思という「超・人格」とでもいうべきものに押し流されて、最後、溺れ死んだり、死ななかったりする。大勢の人間の様々な思惑が、様々に絡み合って、当事者たちの当初の思惑や、合理的な意思や利害の「手の届かない」、全く別個の「歴史の意思」とでも言うべきものが、物語世界の全ての登場人物の運命・行く末を決めてしまう。それが、富野作品の「世界の大きさ感」になっている。その最も顕著な例はもちろん『伝説巨神イデオン』。
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△ヒッチコックの『鳥』(1963)(吹き替え版)/2021年8月21日/prime video/ミッチー以外の登場人物がみんなアタマが悪くてイライラした。なぜ鳥が襲ってくるのかの理由を一切説明しないで終わったのはヨカッタ。でもまあ、「たくさんの鳥たちが人間を襲う映像」を[作る楽しさ/見せる楽しさ]が一番の動機(というか、それが全て)の映画、だと思った。
とにかく、都合3回も鳥からの襲撃事件を体験し、しかも鳥に襲われて一人死んだらしいという話まで聞いている主人公のメラニーが、呑気に学校の校庭でタバコを吸ってる場面がダメ。「バカなのか?」と思ってしまう。物語の後の展開のために、わざと登場人物にそんな迂闊なことをさせているんだろうけど、あれはイタダケナイ(というか、他の場面では、ミッチーも、鳥の襲撃事件が冗談ではない事態だと分かってからも、生身のままで屋外を歩き回っていたりする)。そもそも、あのタイミングで、学校から生徒たちを「避難」させる理由がわからない。ただひたすら、子供達が鳥に襲われる場面を作りたかっただけだろう、としか思えない。この作品は、展開に説得力がない。 終盤、鳥に襲われて怪我をしたメラニーを町の病院に連れて行く決断をしたミッチーが「メラニーの車ならトラックより速い」という。これで、序盤にメラニーが、ワインディングロードをタイヤを軋らせて猛スピードで自分の車を走らせていた場面の「理由」がわかった。 あと、途中で鳥に殺される小学校の先生アニー・ヘイワースを演じていた女優は確か『コロンボ』のどれかで観た顔だと思って色々考えていて、気づいた。「ホリスター将軍のコレクション」で、将軍の殺人を海の上から目撃し、あとで将軍にたらし込まれる若い女を演じてた女優スザンヌ・プレシェット(Suzanne Pleshette)。
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水野美紀演出、プロペラ犬『珍渦虫』(DVD)、視聴。登場人物全てを「説明」する必要はない。大負けに負けても、「吉川さん」は「背景描写」は必要なかった。説明なしの空白の方がキャラの立ったはず。設定が渋滞していた上に、各キャラクターの置かれた状況に「重複」感があったので、観終わると、全てのキャラの印象が散漫に事態に陥っていた。
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§º生命体はDNA遺伝子が「乗り継ぐ」のに適した媒体ではあるが、知性、即ち意識が生命体を「乗り継ぐ」ことはできない。生命現象と知性現象の間の「不和/齟齬」の根っこはここにある。
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§º謝罪原理主義者たちの台頭。