「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2022年4月29日金曜日
生き物の尊さ
2022年4月28日木曜日
2022年4月27日水曜日
2022年4月26日火曜日
2022年4月25日月曜日
3秒に1回
2022年4月24日日曜日
2022年4月23日土曜日
2022年4月22日金曜日
事象の地平
「平方」が嫌い
面積を表す単位「平方」が嫌い。
「cm²(平方センチ)」でも、「m²(平方メートル)」でも、「km²(平方キロメートル」でも構わないが、とりあえず、最も一般的な「m²」で話をすると、これを教える時、大抵の場合、
「1m²とは、一辺が1mの正方形の面積である」
とヤってしまう。単位の説明なのに。
こういう言い回しで教えられると、例えば、「100m²」の面積を問われた時に、うっかり、「一辺が100mの正方形の面積」を思い浮かべることになりがち。
すると、泥沼。
一辺が100mの正方形の広さは、100m×100m=10,000m²なので「100m²=10,000m²」という奇っ怪な等式が出現してしまうのだ。
言うまでもなく、「100m²」に対する正しい[理解・認識]は、「一辺が1mの正方形、即ち1m²の正方形を100枚並べた面積」である。
泥沼はもう一種類あって、例えば、1mは、1,000mmであるという「事実」から、「1m²は、1,000mm²である」とヤッてしまうこと。
ここから、「1m²は、一辺が1mの正方形の面積なので、それはつまり、1,000mm²は、一辺が1,000mmの正方形の面積だ」となり、正方形の面積を求める式にその数値を当てはめ、1,000mm×1,000mm=1,000,000mm²という「答え」を出してしまう。その結果、ここでもなぜか、当初、1,000mm²だったものが、「気がつくと」1,000,000mm²になっているという、底なしの泥沼が現れる。言い換えると、最初、1mm²の正方形で1,000枚分の面積だったものが、なぜか、1,000,000枚分の面積に増えてしまう泥沼。
もちろん、ここでの誤りは、1,000,000mm²の方ではなく、1,000mm²の方。即ち、1m²は1,000mm²ではないのだ。敢えて書くなら、1m²は、(1,000mm)²である。
しかし、それもこれも、単位の定義の説明で「1m²は…」とやってしまうことで起きる悲劇。「m²という単位は…」と「1」なしでやったほうが安全。1m²が「1m×1m」の正方形の面積と教えられたら、かなりの人間が、100m²という[表記・数値]を目にした途端、それは「100m×100m」の正方形の面積(に相当する面積)のことだと誤解してしまう。…気がする。
(【む】2022-04-22)
2022年4月21日木曜日
クーリッジ効果
2022年4月20日水曜日
2022年4月19日火曜日
2022年4月18日月曜日
〈食べごたえ〉あり
【返信】Dickにとって、アンドロイドはあくまでも非人間性の象徴
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に限らず、Dickの作品のモチーフとしてちょいちょい出てくるのが、「人間が人間であるための一番の能力は他者に対する共感力ではないのか?」(そもそも『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』って、そういう意味だし。つまり「人間が羊を飼いたがるように、アンドロイドは電気羊を飼いたがるだろうか?」と)。で、この「他者」は、別に、生きた本物の人間である必要はない。人形でもいいし(『パーキーパットの日々』)、動物でもいいし、俳優が演じてるだけのキャラクターでもいい。実際、『電気羊』には、テレビで人気の「時々石をぶつけられながら荒野の坂を登っていく男」みたいなのが出てくる。昔の文庫本のカバーイラストで、羊の後ろに描かれているくらい重要な存在(実際、イラストの中心は、羊ではなく、その男だし)。
うろ覚えだが、主人公デッカードも、その「荒野の坂道を登る男」に激しく共感しているのだが、アンドロイドたち(たしかレイチェルとかも)はそれをすごく馬鹿にする。おそらくたぶん俳優が演じてるだけなのにバカみたい、というわけ(うろ覚えだけど)。
まあ、細かいところはどうでもよくて、つまり、人間なら、架空の登場人物に感情移入して泣いたり怒ったりすることを、実感として「さもありなん」と簡単に理解できるし、それを馬鹿みたいとも思わないのだが、アンドロイドたちには、それがまったく理解できないというふうに描かれているところがポイント。
共感力が[人間性の最も重要な能力の一つ]だと考えているDickにとって、共感力を持たないアンドロイドは非人間性の象徴。作中、嫌がらせでデッカードのヤギを屋上から落として殺したり、暇つぶしに蜘蛛の足をちぎってバラバラにしたり、テレビの登場人物に感情移入している人間をバカにしたりするアンドロイドには、どう考えても共感力が欠如している。
一方、映画『ブレードランナー』版のアンドロイドであるレプリカントの意味付けは「出自の違う人間」。ただこれだけ。そして、共感力の代わりに、もっと抽象的な「人間らしい心」のある無しが、モチーフになっている。レイチェルにも、ロイ・バティにも、そしてデッカード(映画版ではレプリカントらしいから)にも「人間らしい心」がある。「人間らしい心」のアルナシは、天然の人間(自然淘汰が生み出した我々人間)であるか、人工の人間(レプリカント)であるかに拠らない。「人間らしい心」を持たない非人間的な存在は、天然の人間の中にも、人工の人間の中にもいる。つまり、人間らしい人間かどうかは、「出自」では決まらないというのが映画版の主張。だから、映画では、(レプリカントへの差別意識全開の、天然の人間である)ブライアン(デッカードの「上司」)の方が、死んだプリスにキスしたり、最後の最後にデッカードの命を救うロイ・バティよりも、「人間らしい心」を持たない、いかにも卑しい存在として描かれている。
『電気羊』では、アンドロイドはあくまでも「非人間性を具現化した存在」。だから、自分たちが「非人間的」であることに悩んだり、共感力のある「人間らしい人間」になりたいと望んだり、自分が「本物の人間」ではなかったことを知ってショックを受けたりはしない。そういうコトに全く頓着しない(あるいは気づかない)存在を、Dickは「アンドロイド」としたのだから。だから、Dickにとっても、「出自」は関係がないとも言える。しかし、その意味は逆だ。つまり、現に共感力が欠如した非人間的存在なら、たとえ女の股から普通に生まれていても「アンドロイド」だと言いたいのが、Dickなのだ。人間にそっくりだが、人間にあるべきはずのものが欠けている存在としての「アンドロイド」という定義からして、絶対にありえないのが、共感力や「人間らしい心」を持ったアンドロイドも存在するかもしれないというほのめかしや、設定や、物語展開。「アンドロイドを無慈悲に殺す俺(デッカード)たちの方が、本当はアンドロイドで、アンドロイドだと言われて殺されているアイツらのほうが人間なんじゃないか?」的な、Dickお得意の「世界体験の確かさがあやふやになる、スキャナーダークリーな展開」が可能なのも、「アンドロイド即ち非人間的な人間」設定が動かないから。Dickは、「アンドロイドの中にも、いいやつは要るんじゃないか?」という話をしたいわけじゃない。
一方、『ブレードランナー』の「レプリカント」は、本当は人間と「同じ」なのに(ひどいやつもいれば、心優しいやつもいる)、生まれ方や体の仕組みが違うばっかりに、それだけの理由で、よく確認もされないまま、人権も与えられず、差別され、蔑まされている存在。まあ、だから、人種差別やら障害者差別やらの暗喩だよね。
だから、なんかもう、原作と映画は、まるで違うものだと分かる。別にお互いに議論しているわけではないけど、「論点がずれている」という言い回しがぴったりの「違い方」。前に、映画と原作は正反対って言ったような気もするけど、「正反対」ですらない。原作の方は、人間とアンドロイドを徹底的に対比させることで、「人間にとって最も大事なのは共感力なんじゃねーの?」と問いかけているのに対し、映画の方は、「人間とレプリカント(人工人間)、どちらも同じように心をもった存在かもしれないのに、無批判に境界線を引いて、人間がレプリカントを道具のように使い捨てにするのは、間違ってやしませんか? よく見てください。レプリカントも、人間と中身は同じじゃないですか」と言っている。つまり、原作と映画は、同じ学部の対立学派ではなく、そもそもの学部から違ってしまっている。
あと、フォークト=カンプフ検査がどんな感じで原作に登場したか全く覚えてないんだけど、やっぱりアンドロイドの共感力の不自然さを暴くものだろうから、それは映画と同じな気がする。つまり、[共感力を持った人間]のフリをしているアンドロイド(レプリカント)は、質問者(バウンティハンター/ブレードランナー)の言葉の意味は分かるが、それに対してどういう感情表現をすれば「正解」なのかが分からない(つまり、自然なリアクションが出てこない)ので、妙な発汗があったり、瞳孔に変な動きが現れる、的な。フォークト=カンプフ検査は、どれだけ共感できているかを調べるのではなくて、共感できずに困っている状態を暴き出す検査のはずだから、例えば、映画版の[検査を受けているレイチェル]の「動揺」は、質問によって描き出された場面や情景に感情移入(共感)して、不快になったり、恥ずかしがったり、怒りを覚えたりしている「動揺」ではなく、適切な感情反応ができずに困っている「動揺」のハズ。
あと、例の種本に拠ると、Dickは映画の完成品は観てないんだよね。死んじゃったから。撮影現場に来て、未来のロスの街の風景セットを観て、「すげえ、これだよこれ、イメージ通り」って感動したらしいけど。
2022年4月17日日曜日
2022年4月16日土曜日
2022年4月15日金曜日
「自発的絶滅」の位置から振り返ってみれば
「自発的絶滅」という「人間の終わり」(人間の究極の未来)から眺めれば、今の「ロシア」と「欧米」の、どちらが「先進」でどちらが「後進」かはすぐに分かる。「先進」は「欧米」であり、「後進」は「ロシア」。この判定は揺るがない。なぜなら、「人間の終わり」からの視点は、「国家の生い立ち」とか「政治情勢」とか「民族の思い」などという、人間の数だけ「真実」のある[相対的な視点]とは違うからだ。
人間の進歩の「正体」は、「脱・生命現象」への道のりである。科学技術の進歩発展も、「脱・生命現象」を実現しようとする営み(の成果)なのだ。(今のところ、科学の現場の人間たちにその自覚はないだろうが、何千年、何万年後の人間たちは、はっきりと、自分たちの行く末である自発的絶滅を自覚して、科学技術を磨いていくことになる。それまでに事故的に絶滅していなければ)。
対立や諍いや揉め事を、対立相手が「生命現象」であることを「利用・悪用」して「解決」しようするのは、「脱・生命現象」の観点からは完全に「後進」である。虫や獣でもやっていることだからだ。これが今の「ロシア」。
一方、対立や諍いや揉め事の解決を目指すときに、双方にとって共通の存在基盤である「生命現象」には「手を出さず・手を付けず」、それよりも次元がひとつ上の「知性現象」という「土俵」で大いに「争う」のは、「脱・生命現象」の観点からは「先進」である。これが今の「欧米」。
真の知性現象は、生命現象に依存しない。生命現象に依存しない真の知性現象の間で諍いや対立が起きた時、彼らには、所謂「敵を殺す」という解決手段が存在しない。もっと言ってしまえば、真の知性現象にとって、相手の存在基盤を破壊することで相手を消滅させるのは、問題解決でもなんでもない。
何やら、妙に抽象的な気がしないでもないので、具体的で下世話な喩え話をする。
男の格闘家たちが試合をする時には金的攻撃(急所攻撃)が禁止されていることがあるが、金的攻撃(急所攻撃)は「実戦」では実に有効なので、敵の股間を思い切り蹴り上げれば、勝利の可能性は高まる。しかし、それは相手が男だった場合に限られる。女が相手ならそうは行かない。
生命現象に依存した知性現象である人間は、謂わば、この股間に睾丸をぶら下げた男だ。一方、生命現象に依存しない知性現象は、股間がすっきりとした(だから金的攻撃が通用しない)女である。
何度も繰り返しているように、「人間の終わり」である「自発的絶滅」とは、[自然淘汰の産物である人間]は、結局、生命現象に依存しない知性現象になることはできないため、自ら作り上げた人工人格(今風に言えばAI)に[道を譲る・あとを継がせる]、ということである。
「脱・生命現象」の実現を目指すが、自分自身は決してそこには到達できない人間は、だから、男女の喩えで言うなら、決して股間から睾丸がなくなることはないが、互いに睾丸はないものとして、対立や諍いの解決手段としての「金的攻撃」を否定する男たちなのだ。一方、真の知性現象の喩えとしての女たちには、対立問題の解決手段としての「金的攻撃」は存在しない。蹴り上げるべきモノがそもそも存在しないからだ。だから、手間はかかっても他の手段を用いる。そして、そこに、知性現象としての進歩と矜持がある。
逆に言えば、互いの意見が対立したときに、相手の股間を蹴り上げて自分の意見を通すというのは、知性現象としては、ただの怠慢であり、進歩の放棄である。軍事侵攻をする「ロシア」がまさにこれ。対立相手を黙らせ、自分の主張を通すために、一方的に金的攻撃を仕掛けて、世界中からブーイングを受けているのだ。
ついでに言えば、「国境線の書き換え」に躍起になるのも後進性の現れ。
「国境線の書き換え」で散々血を流し続けた末に、「現実の国境線がどうであろうと、実質的な国境線は、経済活動や人流に連動して、まるで天気図の等圧線のように変わり続けている」と気づいた人間たちの多くは、「現実の国境線は未来永劫このままでいいじゃないか。どうせ大した意味ないんだし」と悟った。即ち「よくよく考えればもはやどうでもいいものなのに、無理に変えようとすると、どうしても感情的になって、騒ぎになってしまう厄介ものとしての国境線には、もう一切、手を出さないでおこう」と。
ちょうど、いくら対立しても、お互いの「生命現象」の領域には手を出さないのと同じように、国境線に関しても、関税やら条約やら禁輸や優遇措置やらを用いて仮想「引き直し」はしても、現実の国境線には絶対に手を出さない。それを、軍隊を送り込んで人まで殺して、現実の国境線を引き直そうとするのは、捕虜を生贄に捧げて国家の繁栄を祈るのにも似た愚かな蛮行。
【む】2022/04/15
2022年4月14日木曜日
2022年4月13日水曜日
2022年4月12日火曜日
ABC conjecture
2022年4月11日月曜日
「誤字・脱字」
2022年4月10日日曜日
「優秀」な者を選び出す仕組みではない
戦争と文化
世界中に戦争を仕掛けて、世界を征服しかけた「大国」が、最後に、「小国」の文化に「破れて」、世界征服を諦めるという内容の絵本が、安住と三谷幸喜のニュース番組で紹介されていた。
それで、「戦争」と「文化」の「本当の違い」について書きたくなった。つまり、「戦争」という「争い」に対する、「平和」の代名詞・象徴としての「文化」という、「表面的な対比」ではない、「本当の違い」について。
「戦争」とは、遺伝子(gene)を媒体とした自然淘汰の産物だが、「文化」はそうではない。これが両者の「本当の違い」である。文化はミーム(meme)を媒体とした自然淘汰の産物。媒体の違いはあれ、どちらも自然淘汰の産物であるのだから、同じようなものだろうと考えてしまいがちだが、まるで違う。
戦争が[のちの世代]に残す性質は、すべて、子孫を残すまで生き延びた人間たちの性質。言い換えれば、殺し合いで生き延びた側の人間の性質。その一方で、文化は、それを担っていた人間たちが子孫を残すことなく滅びても[のちの世代]に引き継がれる可能性がある。
極端なことを言えば、侵略者に滅ぼされた人間たちの「文化」が、彼らを滅ぼした当の侵略者たちに「受け継がれる」ことさえ有り得るのだ。「文化」が「遺伝子を媒体としない自然淘汰」であることの真の[意味/意義]はここにある。(む)
(2022/04/10)
2022年4月9日土曜日
2022年4月8日金曜日
『記憶の棘』は何度見ても好い。
自然淘汰に取って代わるものが要る
人間が生命現象から解脱するには、カルデラ噴火級の変革が必要になる。なぜなら、現状、新たに出現する(=新たに生まれる)殆ど全て…いや完全に全ての人間が、悉く、[生命現象の原理]=[遺伝子]の言いなりになってしまった人間たちの遺伝情報(指令書)を受け継いでいるからだ。
因みに、その遺伝情報(指令書)とは、もちろん、ウィルスからクジラに至る「見せかけの個別性」の底に流れる、生命現象それ自体の個別性(=物理現象という枠組みから見たときの個別性・特殊性)である「特定の化学反応のみを選択的に継続するための仕組み」である。
ややこしい?
ともかく、所謂「自然淘汰の神」の「呪い」を背負ってこの世界に現れた存在のうち、一体どれだけの者がその呪縛を跳ね除けて、[真の知性現象]の有り様を示せるというのか? また、[真の知性現象]の「誕生」に心血を注げるというのか?
何度でも言うが、[真の知性現象]とは、
①「生命現象に依存しない知性現象」であり、それは即ち、
②「自然淘汰の原理を免れた知性現象」であり、例えば、
③「殺すくらいなら殺されることを選び、しかも、その性質が後の世代にきちんと受け継がれる存在」
である。
③について考えれば、一番ピンとくるだろうが、[真の知性現象]の実現のために是が非でも必要なのは、自然淘汰に代わる[遺伝法則・遺伝手段]だ。一つの示唆として考えられるのが、geneではなく、memeを伝える手法を確立することだろう。DNA媒体の自然淘汰では、例えば、[自発的に「競争」に敗れることを選ぶ性質]を、後の世代に広めることはできない。
少しだけ具体的な喩え話をすると、侵略戦争に対して無抵抗を貫いて滅びてしまった人々(「殺すくらいなら殺されよう」)の性質が、侵略戦争を仕掛けた側の人々を含めた次の世代の人々に「遺伝」するようなことが、DNA媒体の自然淘汰の法則のもとで起きれば、それは「魔法」か「奇跡」だろう。だが、それが「魔法」や「奇跡」になってしまうのは、DNA媒体の自然淘汰が、「不自由で限定的」な法則・手段だからだ。それ(DNA媒体の自然淘汰)は、子を残さずに死んだ死者たちの「好ましい」性質を後の世代に受け継がせる方法としては、全くのヤクタタズで、だから、それに代わる法則・手段・仕組みが要る。
それを手に入れた時、人間は、遂に生命現象からの解脱への道へと一歩踏み出すことになるが、それは同時に、自発的絶滅への扉の鍵を開くことにもなる。
2022年4月7日木曜日
2022年4月6日水曜日
虫バラバラ・カエル爆竹
2022年4月5日火曜日
コメディアン時代のゼレンスキー
雑なアタマ
2022年4月4日月曜日
精神の「纏足」や「割礼」
2022年4月3日日曜日
2022年4月2日土曜日
実はモノスゴく水が飲みたいだけ
2種類在る
2022年4月1日金曜日
殺人鬼の信仰
殺人鬼というのは、おしなべて、ゴリゴリの生命教信者だよ。所謂、快楽殺人というのも、熱狂的な生命教信者がやること。
生命教信者の最大の特徴は、本来[物理現象=化学反応]の一形態にすぎない生命(=生命現象)に、この宇宙で最大の価値や意味や意義を見出しているということ。殺人鬼が、生命現象に積極的に関与して、それを歪めたり、消滅させたりする(要するに殺人を犯す)ことに多大な労力を払い、その結果として、何ものにも代え難い「精神的報酬」を得るのも、連中が、生命現象を殊更に特別なもの信じ込んでいるからに他ならない。
だから、殺人鬼は生命教信者だという。
例えば、液体の水にこの宇宙で最大の意味や価値や意義を見出している「水教」の信者は、鍋の湯が沸騰して蒸発していく様に「ただならぬもの(大概の水教信者にとっては恐怖)」を感じるだろう。しかし、「殺水鬼」は、その「ただならぬもの」に惹かれ憑かれて、折を見ては、こっそり、水を沸騰させたり、蒸発させたりして、ヨロコビに浸る。
生命に価値はない。それは事実で、だからこそ、積極的に「生命を尊ぶ」というフィクションを全員で実践しなければ、人間は、自らの知性現象の基盤である生命現象の安定性を、自ら脅かすことになる。しかし、それはあくまでも方便だということを忘れてはいけない。「生命には本当に価値や意味や意義がある」と思い込んだ瞬間から、その人間の心のどこかに殺人鬼の癌腫が生まれる。