『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に限らず、Dickの作品のモチーフとしてちょいちょい出てくるのが、「人間が人間であるための一番の能力は他者に対する共感力ではないのか?」(そもそも『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』って、そういう意味だし。つまり「人間が羊を飼いたがるように、アンドロイドは電気羊を飼いたがるだろうか?」と)。で、この「他者」は、別に、生きた本物の人間である必要はない。人形でもいいし(『パーキーパットの日々』)、動物でもいいし、俳優が演じてるだけのキャラクターでもいい。実際、『電気羊』には、テレビで人気の「時々石をぶつけられながら荒野の坂を登っていく男」みたいなのが出てくる。昔の文庫本のカバーイラストで、羊の後ろに描かれているくらい重要な存在(実際、イラストの中心は、羊ではなく、その男だし)。
うろ覚えだが、主人公デッカードも、その「荒野の坂道を登る男」に激しく共感しているのだが、アンドロイドたち(たしかレイチェルとかも)はそれをすごく馬鹿にする。おそらくたぶん俳優が演じてるだけなのにバカみたい、というわけ(うろ覚えだけど)。
まあ、細かいところはどうでもよくて、つまり、人間なら、架空の登場人物に感情移入して泣いたり怒ったりすることを、実感として「さもありなん」と簡単に理解できるし、それを馬鹿みたいとも思わないのだが、アンドロイドたちには、それがまったく理解できないというふうに描かれているところがポイント。
共感力が[人間性の最も重要な能力の一つ]だと考えているDickにとって、共感力を持たないアンドロイドは非人間性の象徴。作中、嫌がらせでデッカードのヤギを屋上から落として殺したり、暇つぶしに蜘蛛の足をちぎってバラバラにしたり、テレビの登場人物に感情移入している人間をバカにしたりするアンドロイドには、どう考えても共感力が欠如している。
一方、映画『ブレードランナー』版のアンドロイドであるレプリカントの意味付けは「出自の違う人間」。ただこれだけ。そして、共感力の代わりに、もっと抽象的な「人間らしい心」のある無しが、モチーフになっている。レイチェルにも、ロイ・バティにも、そしてデッカード(映画版ではレプリカントらしいから)にも「人間らしい心」がある。「人間らしい心」のアルナシは、天然の人間(自然淘汰が生み出した我々人間)であるか、人工の人間(レプリカント)であるかに拠らない。「人間らしい心」を持たない非人間的な存在は、天然の人間の中にも、人工の人間の中にもいる。つまり、人間らしい人間かどうかは、「出自」では決まらないというのが映画版の主張。だから、映画では、(レプリカントへの差別意識全開の、天然の人間である)ブライアン(デッカードの「上司」)の方が、死んだプリスにキスしたり、最後の最後にデッカードの命を救うロイ・バティよりも、「人間らしい心」を持たない、いかにも卑しい存在として描かれている。
『電気羊』では、アンドロイドはあくまでも「非人間性を具現化した存在」。だから、自分たちが「非人間的」であることに悩んだり、共感力のある「人間らしい人間」になりたいと望んだり、自分が「本物の人間」ではなかったことを知ってショックを受けたりはしない。そういうコトに全く頓着しない(あるいは気づかない)存在を、Dickは「アンドロイド」としたのだから。だから、Dickにとっても、「出自」は関係がないとも言える。しかし、その意味は逆だ。つまり、現に共感力が欠如した非人間的存在なら、たとえ女の股から普通に生まれていても「アンドロイド」だと言いたいのが、Dickなのだ。人間にそっくりだが、人間にあるべきはずのものが欠けている存在としての「アンドロイド」という定義からして、絶対にありえないのが、共感力や「人間らしい心」を持ったアンドロイドも存在するかもしれないというほのめかしや、設定や、物語展開。「アンドロイドを無慈悲に殺す俺(デッカード)たちの方が、本当はアンドロイドで、アンドロイドだと言われて殺されているアイツらのほうが人間なんじゃないか?」的な、Dickお得意の「世界体験の確かさがあやふやになる、スキャナーダークリーな展開」が可能なのも、「アンドロイド即ち非人間的な人間」設定が動かないから。Dickは、「アンドロイドの中にも、いいやつは要るんじゃないか?」という話をしたいわけじゃない。
一方、『ブレードランナー』の「レプリカント」は、本当は人間と「同じ」なのに(ひどいやつもいれば、心優しいやつもいる)、生まれ方や体の仕組みが違うばっかりに、それだけの理由で、よく確認もされないまま、人権も与えられず、差別され、蔑まされている存在。まあ、だから、人種差別やら障害者差別やらの暗喩だよね。
だから、なんかもう、原作と映画は、まるで違うものだと分かる。別にお互いに議論しているわけではないけど、「論点がずれている」という言い回しがぴったりの「違い方」。前に、映画と原作は正反対って言ったような気もするけど、「正反対」ですらない。原作の方は、人間とアンドロイドを徹底的に対比させることで、「人間にとって最も大事なのは共感力なんじゃねーの?」と問いかけているのに対し、映画の方は、「人間とレプリカント(人工人間)、どちらも同じように心をもった存在かもしれないのに、無批判に境界線を引いて、人間がレプリカントを道具のように使い捨てにするのは、間違ってやしませんか? よく見てください。レプリカントも、人間と中身は同じじゃないですか」と言っている。つまり、原作と映画は、同じ学部の対立学派ではなく、そもそもの学部から違ってしまっている。
あと、フォークト=カンプフ検査がどんな感じで原作に登場したか全く覚えてないんだけど、やっぱりアンドロイドの共感力の不自然さを暴くものだろうから、それは映画と同じな気がする。つまり、[共感力を持った人間]のフリをしているアンドロイド(レプリカント)は、質問者(バウンティハンター/ブレードランナー)の言葉の意味は分かるが、それに対してどういう感情表現をすれば「正解」なのかが分からない(つまり、自然なリアクションが出てこない)ので、妙な発汗があったり、瞳孔に変な動きが現れる、的な。フォークト=カンプフ検査は、どれだけ共感できているかを調べるのではなくて、共感できずに困っている状態を暴き出す検査のはずだから、例えば、映画版の[検査を受けているレイチェル]の「動揺」は、質問によって描き出された場面や情景に感情移入(共感)して、不快になったり、恥ずかしがったり、怒りを覚えたりしている「動揺」ではなく、適切な感情反応ができずに困っている「動揺」のハズ。
あと、例の種本に拠ると、Dickは映画の完成品は観てないんだよね。死んじゃったから。撮影現場に来て、未来のロスの街の風景セットを観て、「すげえ、これだよこれ、イメージ通り」って感動したらしいけど。