2022年4月6日水曜日

虫バラバラ・カエル爆竹

ウィル・スミスを非難している連中も、その多くは、それぞれの「ビンタ臨界」を持っている。即ち、笑いのネタにされたら、血の涙を流して侮しがる「大切なモノ」だ。例えば、「自分の子供の難病や死」「祖国の歴史(=正史とされているモノ)」「宗教的習慣(服裝や飯食物に対する決まり事)」など。おそらく、件の芸人も、彼の「支持者」たちも、自分の親や連れ合いや子供が、無残な死を遂げたら、メソメソと泣いたり、怒り狂ったりする。

そこが、バカバカしい。所詮「目糞鼻糞」なのだ。

つまりは「二重基準(double standard)」。それは、「私の悲しみや侮しさは、現に私が感じているのだから〈本物〉だが、彼の示した彼の悲しみや侮しさは、私には感じられないのだから、彼のそれは大袈裟なだけのは〈似せモノ〉」という理屈でもある。

子供は、ときに、ただ面白いからという理由で、虫をバラバラにする。カエルの尻の穴で爆竹を爆破する。成長するに連れ、そういう〈オゾマシイ行為〉をする人間の割合は減っていく。所謂、「共感力」が身につくからだ。しかし、一定の割合で、「イイオトナ」になっても、依然として〈虫バラバラ・カエル爆竹〉レベルの貧弱な共感力しかない人間が存在する。かつて、P. K. Dickは、そのような者たちを「アンドロイド」と呼んだ訳だが、Dickが生きていた時代から半世紀が経とうとする今も、「アンドロイド」たちは人間のフリをして、社会に潜んでいる。(だから、映画『ブレードランナー』は原作とは正反対の主張をする作品。そもそも、Ridley Scottは原作を読んでいない!)。

今風に言えば、Dickの「アンドロイド」は「サイコパス」なのだろうが、Dickの「アンドロイド」に適うレベルの「極めつけのサイコパス」は、現実には殆んどいない。多くは、他人の脱毛は笑いのネタにして喜んでも、自分の子供の鼻が腐って落ちたら、この世の終わりのように嘆き悲しむ程度の「サイコパス」だ。まあ、だから〈虫バラバラ・カエル爆竹〉の「子供」なのだヨ。

ウィル・スミスを正面切って非難できるのは、他人が、自分の親や子供の遺体でカンカン踊りをさせても、一緒になって手を叩いて喜べる「アンドロイド」だけ。