「自発的絶滅」という「人間の終わり」(人間の究極の未来)から眺めれば、今の「ロシア」と「欧米」の、どちらが「先進」でどちらが「後進」かはすぐに分かる。「先進」は「欧米」であり、「後進」は「ロシア」。この判定は揺るがない。なぜなら、「人間の終わり」からの視点は、「国家の生い立ち」とか「政治情勢」とか「民族の思い」などという、人間の数だけ「真実」のある[相対的な視点]とは違うからだ。
人間の進歩の「正体」は、「脱・生命現象」への道のりである。科学技術の進歩発展も、「脱・生命現象」を実現しようとする営み(の成果)なのだ。(今のところ、科学の現場の人間たちにその自覚はないだろうが、何千年、何万年後の人間たちは、はっきりと、自分たちの行く末である自発的絶滅を自覚して、科学技術を磨いていくことになる。それまでに事故的に絶滅していなければ)。
対立や諍いや揉め事を、対立相手が「生命現象」であることを「利用・悪用」して「解決」しようするのは、「脱・生命現象」の観点からは完全に「後進」である。虫や獣でもやっていることだからだ。これが今の「ロシア」。
一方、対立や諍いや揉め事の解決を目指すときに、双方にとって共通の存在基盤である「生命現象」には「手を出さず・手を付けず」、それよりも次元がひとつ上の「知性現象」という「土俵」で大いに「争う」のは、「脱・生命現象」の観点からは「先進」である。これが今の「欧米」。
真の知性現象は、生命現象に依存しない。生命現象に依存しない真の知性現象の間で諍いや対立が起きた時、彼らには、所謂「敵を殺す」という解決手段が存在しない。もっと言ってしまえば、真の知性現象にとって、相手の存在基盤を破壊することで相手を消滅させるのは、問題解決でもなんでもない。
何やら、妙に抽象的な気がしないでもないので、具体的で下世話な喩え話をする。
男の格闘家たちが試合をする時には金的攻撃(急所攻撃)が禁止されていることがあるが、金的攻撃(急所攻撃)は「実戦」では実に有効なので、敵の股間を思い切り蹴り上げれば、勝利の可能性は高まる。しかし、それは相手が男だった場合に限られる。女が相手ならそうは行かない。
生命現象に依存した知性現象である人間は、謂わば、この股間に睾丸をぶら下げた男だ。一方、生命現象に依存しない知性現象は、股間がすっきりとした(だから金的攻撃が通用しない)女である。
何度も繰り返しているように、「人間の終わり」である「自発的絶滅」とは、[自然淘汰の産物である人間]は、結局、生命現象に依存しない知性現象になることはできないため、自ら作り上げた人工人格(今風に言えばAI)に[道を譲る・あとを継がせる]、ということである。
「脱・生命現象」の実現を目指すが、自分自身は決してそこには到達できない人間は、だから、男女の喩えで言うなら、決して股間から睾丸がなくなることはないが、互いに睾丸はないものとして、対立や諍いの解決手段としての「金的攻撃」を否定する男たちなのだ。一方、真の知性現象の喩えとしての女たちには、対立問題の解決手段としての「金的攻撃」は存在しない。蹴り上げるべきモノがそもそも存在しないからだ。だから、手間はかかっても他の手段を用いる。そして、そこに、知性現象としての進歩と矜持がある。
逆に言えば、互いの意見が対立したときに、相手の股間を蹴り上げて自分の意見を通すというのは、知性現象としては、ただの怠慢であり、進歩の放棄である。軍事侵攻をする「ロシア」がまさにこれ。対立相手を黙らせ、自分の主張を通すために、一方的に金的攻撃を仕掛けて、世界中からブーイングを受けているのだ。
ついでに言えば、「国境線の書き換え」に躍起になるのも後進性の現れ。
「国境線の書き換え」で散々血を流し続けた末に、「現実の国境線がどうであろうと、実質的な国境線は、経済活動や人流に連動して、まるで天気図の等圧線のように変わり続けている」と気づいた人間たちの多くは、「現実の国境線は未来永劫このままでいいじゃないか。どうせ大した意味ないんだし」と悟った。即ち「よくよく考えればもはやどうでもいいものなのに、無理に変えようとすると、どうしても感情的になって、騒ぎになってしまう厄介ものとしての国境線には、もう一切、手を出さないでおこう」と。
ちょうど、いくら対立しても、お互いの「生命現象」の領域には手を出さないのと同じように、国境線に関しても、関税やら条約やら禁輸や優遇措置やらを用いて仮想「引き直し」はしても、現実の国境線には絶対に手を出さない。それを、軍隊を送り込んで人まで殺して、現実の国境線を引き直そうとするのは、捕虜を生贄に捧げて国家の繁栄を祈るのにも似た愚かな蛮行。
【む】2022/04/15