2022年6月30日木曜日

Vincent Chin

*いつまで経ってもこの手の[事件/悲劇/問題]が、人間社会から消えてなくならないのは、人間が生き物だからだよ。これを「人類の〈バカ問題〉」と呼ぶ。


今、大雑把に〔全人類の頭の良さの分布はベル曲線を描いている〕と仮定すると(まあ、実際そんなものだろう)、ベル曲線グラフの向かって右側に本当に頭の良い人間たちが少しいて、中央付近に普通の頭の人間たちが大勢いて、向かって左側に本当に頭の悪い人間たちが少しいる。


しかし、ここで言う「バカ問題」で〈モンダイ〉になるのは、この〔左側に「少し」いる本当に頭の悪い人たち〕ではない。「バカ問題」とは、〔人類全人口の概ね半分を占める〈ふつう〉の人々が、実は平均以下の頭しかない〕という恐るべき(しかし当たり前の)現実を、〔生物(生命)を媒体にした知性〕である人間には克服しきれないこと、だからだ。


〈ふつう〉の範囲に収まる〈頭の出来〉は自然淘汰されないし、多分、性淘汰もされない(所謂「バカップル」の存在がそれを証明している)。だから、これから何千年経とうと、そして多分何万年経とうと、〔人類という生物種〕の〔頭の出来の平均値〕が上昇することはない。ということはつまり、全人口の約半分を占める〔平均以下の頭の持ち主〕の頭の出来も、いつまで経っても今と同じくらいの〔頭の悪さ〕のままということ。


悲劇はこれからも起きる。


ちなみに、ここでいう〔頭が悪い〕は、知性現象が〔自身の媒体である生命現象の言いなりになっている度合いが高い〕ということ。


(2022/06/30)

カエル

今年のキングオブコントは蛙亭を応援してますよ。

2022年6月28日火曜日

観たことがある高田馬場の「喫茶ロマン」

『ずん喫茶』をTVerで面白く観ている。今回、飯尾が訪ねた店「喫茶ロマン」は「以前に何処かで見た感」ものすごくあった。で、気づいた。

昔、能町が『グレーテルのかまど』でミルクセーキを飲んでいた店だ

早速、ブルーレイディスクを引っ張り出してきて確かめてみたら、しかし、なんと、違った。能町がミルクセーキを飲んでいたのは、『ツイン・ピークス』第8章に出てくる老ルームサービスのようなおじいさん店主がやっている、窓が一つもない、一階の店だった。名前も違う。「喫茶ロマン」はビルの2階にあって、通りに面した壁が全て外から丸見えの、大きなガラス窓の行列。

なんだ勘違いかと思って、でもついでだから、そのまま瀬戸康史がミルクセーキを作っているのを見ていた。番組の最後に能町がミルクセーキの歌を歌う場面があり、久しぶりにその歌を聴こうと思ったからだ。実は、この歌があるからこそ、この番組を録画保存してあったのだ。因みに、この謎の歌は、作詞・作曲・演奏・歌の全部を能町自身がやっている変な歌で、まあ、変な歌だ。

最後まで観た甲斐があった。「喫茶ロマン」はこの歌の場面に登場した。怪しい歌声が流れるセピア色の画面の中で、能町がミルクセーキを飲んでいたのが、飯尾が生卵載せナポリタンと味噌汁を堪能していたあの店だった。

ほら。やっぱり。

そう言えば、今度の『久保みねヒャダ』のゲストは飯尾と聞いた。久しぶりに有料で見ようかな。

ザビ家に正体バレバレのシャア

『ジオンの脅威』の中のガルマ国葬の場面で、キシリアがドズルに「例のシャアはどうなりました?」尋ねると、ドズルは答えず、代わりに、ドズルの横に座っていたギレンが、「ふるさとにでも帰ったんだろ。な、ドズル?」と言う。このギレンの言い方が、なかなか微妙で、ちょっと想像させる。

即ち、どうも、ギレンはシャアの正体がキャスバルであることを知っていて、おそらく、ドズルもシャアの正体がキャスバルであることを知っているような、やり取りに聞こえるのだ。その場合、ギレンの言った「ふるさと」とは、他でもない、現在ザビ家一党が支配しているジオン本国のそれである。つまりは、「シャアの帰った〔ふるさと〕ってどこなんだろうな、ドズル?」とギレンは嫌味を言ってるのだ。

面白いのは、ギレンもドズルも、シャアの正体がキャスバルだと知っているが、お互いに「シャアはキャスバルだよな」と確認しあってはいない点。お互いが暗黙の了解で、ジオンの忘れ形見を配下に置いていたのだ。ギレンは、キャスバルを侮って(だが、しっかり監視はつけて)、ドズルは、キャスバルを気の毒に思って。もちろん、デギン公王もシャアの正体がキャスバルだと気づいているが、やはり、同士だったジオンへの義理から、「見てみぬふり」「気づいてないふり」をしている。この〔男三人〕は、皆、シャアの正体がキャスバルであることを知っていて(気付いていて)、しかも、三人ともが、他の二人もシャアの正体に気づいていることに気付いていながら、あえてそれを確かめてはいない。シャアの正体がキャスバルであることが「公式」にバレてしまったら、いろいろ面倒くさいから。

このガルマ国葬の時点で、シャアの正体に気づいていないのは、実はキシリアだけ。キシリアがこのときまだシャアの正体に気づいていない証拠は、後に、キシリア本人がシャアに向かって、〔ガルマを戦死させた不手際や、いち早くフラナガン機関に近づいた先読みぶりに、疑念を抱いて探らせた結果、シャアがキャスバルであることが分かった〕と言っているから。スパイ活動に一番熱心で、ザビ家の中で一番の情報通であるかのように思われがちなキシリアだが、ザビ家の〔男3人〕からは一番信用の置けない存在(女子は入れない!)だと思われていたのも事実で、だから、シャアがキャスバルであることに早くから気づいていたドズル・ギレン・デギンの誰からも、情報共有を持ちかけられなかった。がために、シャアの正体に気づくのは一番遅くなった。

シャアの「ガルマ謀殺」について、ドズルは疑ってもいないだろう(ドズルは、ホワイトベースの脅威を最も理解していたので、単純にシャアがしくじったと思っている)が、ギレンは「その可能性はある」と考えていただろう(しかし、キャスバルごときに今更何ができるというのか、と侮っているので、平気)。デギンは、その辺のことはあまり考えないようにしていたかもしれない。というのは、そもそも、シャア(キャスバル)の父ジオンを暗殺したのは自分なのだから、その負い目があって。

ずん喫茶

今、一番のタノシミは、TVerで『ずん喫茶』を観ることかな。

2022年6月27日月曜日

漫画の「先祖返り」

漫画と紙芝居の根本的な違いは何か?
吹き出しの有無? いや、画面の広さが固定されているかいないか、だ。その意味で、紙芝居の方が映画に近い。漫画の各コマは、それぞれが「表意文字」に近い。

スマートフォン向けの「縦読み漫画」は、紙芝居への「先祖返り」。

2022年6月24日金曜日

ミシンが「縫える」仕組みで悩んだ

糸を上下2本使っているのは知っていたが、では具体的にどうやって縫っているのかが分からなかったので調べた。糸を2本使っていても、ミシンの針は同じ1つの穴を行って戻っているだけなんだから、これじゃ、2つの糸は生涯結ばれず、布が縫われることもない、と思ったからだ。(手縫いが1本の糸で「縫える」のは、行きと帰りの針穴が違うから。)

言葉にするとこういうこと。布を貫いた針の先にある上糸には必ずたるみの輪ができる(ミシンの針はそうなるように作られている。多分、これがミシンのキモとなる工夫)。この時、下にいるボビンが、そのたるみの輪を掴んで、下糸と一緒に「輪くぐり/縄とび」をする。つまり、上糸が作った輪の中を下糸が通り抜ける。これで無事、2つの糸が「結ばれる」。この工程をくり返すと、ちょうど、天井に並んだ〔U字型の金具(複数)〕に洗濯ヒモが1本通ったような状態になる。天井が布地の裏面、U字型の金具が上糸、洗濯ヒモが下糸。これがミシンの「縫い方」。

スッとした。

2022年6月22日水曜日

『鎌倉殿』はちょっと無理

『鎌倉殿の13人』は木曾義仲が京都に行く直前で見るのをやめた。別に木曾義仲のせいではない。三谷幸喜の書くドラマも、現代劇はスキな方。そうではなく、人殺し一家のホームコメディは無理だと思ったから。

他人でも身内でも、とにかく、なにかにつけて殺してしまう。で、殺した当初はそれなりに深刻な顔をしているけれど、少し経ったらとケロッとして、またホームコメディをやる。こんな人達(キャラクター達)にはとても共感できないと思って見るのをやめた。

いや、そもそも、「大河ドラマ」は殆ど場合、問題解決の選択肢に「人殺し」が入っている〔戦国武将や軍人〕が、主人公や〔主人公の身内〕なのだから、今回の『鎌倉殿』も、その点では同じだろうと思うかもしれないが、全然違う。「ふつう」の大河ドラマの「人殺し」主人公たちには「覚悟」がある。その「覚悟」は、要するに「虚構性」で、「現代人とは価値観も世界観も違いますよ。現代人のあなたには理解できないでしょうけどね」アピール(もしくはexcuse)でもある。

ところが、『鎌倉殿』に出てくるのは、〔自分本位の「正当な」理由、つまり大義〕があれば、他人でも身内でも当たり前に殺して澄ましている「現代人」たち。嘗て、三谷幸喜自身が、『鎌倉殿』は「サザエとカツオが共謀して波平を追い出す話」と説明したが、まさにそのとおりの現代人の空気。ただし、マスオさんの指示のもと、人を殺しまくるサザエさん一家の話なのだ。

だから、ちょっと無理。代わりに、ディアゴスティーニの『古畑任三郎』を毎号買って見てる。今、山城新伍。

「種の保存」という道楽

「種の保存」など、千年単位か、よくて万年単位でしか物事を考えられない人間の単なる道楽。で悪ければ、感傷。

38億年の生命の歴史を少し振り返ってみれば誰でも分かる。生命現象自体は、嘗て一度も「種の保存」など試みたことはない。生命現象は、どんな形であれ生命現象自体が継続すればそれでいい。その継続にどんな「種」が関わっていようと、知ったこっちゃない。様々な「種」が現れては消えして行くこと自体が生命現象の有り様とさえ言える。それは、個体としての人間が絶えず〔生まれては死ぬ〕を繰り返していくことで人間という生命現象が続いているのと似ている。

もっと言ってしまえば、個別の「種」を、生命現象にとっての特別な何かだと思い込んでしまうのは、人間が〔人間という「種」〕に過剰な思い入れを持つ存在だからだ。つまり人間は、〔生命の価値は「種」にあり〕と思い込んでいる。

と、いうとお行儀が良すぎる。

人間にとっての生命現象は〔生命現象でありさえすればいいものではない〕のだ。人間という生物種を作り出し存在させているからこそ、値打ちも価値も意義もあるのが、人間にとっての生命現象なのだ。早い話が「人間様を生かし続けてこその生命現象だろう!」と、大っぴらにか密かにか無自覚にかは別にして、みんな思っているのだ人間は。

人間がやたらと「種」がどうしたと騒ぎ立てるのも、人間にとって、馴染みがあったり、都合が良かったりする生命現象の「風景」を維持したいからで、いくら生物多様性が実現されていても、カンブリア爆発の頃の生命現象の「風景」は、きっと、人間様のお気には召さない。

要するに、「種の保存」は、ひたすら「人間本位」の活動であり欲求。百歩譲ってもただの「道楽」。

はたから見れば、わかりやすい偽善でしかない「種の保存」活動が、なにやら高尚で尊いもののように思えてしまうのは、人間という存在が、生命現象に依存した知性現象だからだ。もし本気で「種の保存」をやるなら、一日でも速く、自らが、生命現象から完全退場すればいいだけのこと。でもそれはやりたくないから、道楽みたいな「種の保存」活動に耽る。

2022年6月21日火曜日

今日の猫さん

大冒険

野暮用で中央区役所(仮丁舎)に歩いて行った。行きが50分、帰りも50分、役所に20分居たので、都合120分の大冒険。両足に靴ズレが出来た。

2022年6月20日月曜日

審査方法

「M1GP」の準決勝の審査方法は「順位付け」にすればいいのに。

本家(?)のF1GPに喩えるとわかりやすいので、それでいうと、各審査員は、それぞれ一つのGPレースに相当する。上沼=イギリスGPとか、松本=モナコGPとか、塙=ベルギーGPとか。全ての漫才コンビの漫才が終わったときに、順位が確定し、それぞれの「レース(審査員」)での順位に応じたポイントが、それぞれの「レース(審査員)」ごとに、各漫才コンビに与えられる。各漫才コンビが獲得した総ポイントで、準決勝の順位が決定する。F1で言えば、チャンピオンシップポイントの合計で、年間チャンピオンや年間の順位が決まるのと同じ。

具体的には、こんな感じ。

  • 1組目の漫才コンビ:当然、自動的に、審査員全員の「1位」になる。

  • 2組目の漫才コンビ:1組目よりも「上」と判断した審査員は「1位」するが、1組目よりも「下」と判断した審査員は「2位」にする。

  • 3組目の漫才コンビ:前の2組よりも「上」と判断した審査員は「1位」にする。前の2組の「間」と判断した審査員は「2位」にする。前の2組よりも「下」と判断した審査員は「3位」にする。

4組目以降、最後の組まで、「それまでに演じた漫才コンビたちと比べて、どこに位置するか」で、各審査員がそれぞれに順位が決める。(念の為に言っておくと、一旦決まった各漫才コンビの〔順位の上下関係〕そのものは動かせない。つまり、上下関係が決まった両者の「上」や「下」や「間」に、あとから第三者が入り込むことはあっても、両者の上下関係自体は変えられない。言い方を変えると、順位付けは、その都度「勝ち負け」を決めることでもあるので、一旦下した「勝ち負け」をあとになって覆すことはできないということ。

全ての漫才コンビが漫才を終えたときに、各審査員ごとの「全ての漫才コンビの順位」が確定する。それぞれの漫才コンビには、確定した順位に応じてポイントが与えられる。例えば、1位は10ポイント、2位は8ポイント、3位は6ポイントというように。各審査員から与えられたポイントの合計が、その漫才コンビの総獲得ポイントになり、総獲得ポイントの多い上位3組が決勝に進む。

総獲得ポイントが並んだ場合は、1位の獲得数が多いほうの漫才コンビが上位になる。1位の獲得数も並んでいる場合は、2位の獲得数が多いほうが上位になる。以下、2位の獲得数も並んでいれば3位の獲得数の多いほうが、3位の獲得数も並んでいれば4位の…と、言った具合にして総合順位を決定する。

この審査方法の一番のメリットは、最初の組の点数(評価)が「様子見」になることを防げること。欠点は、「同点」という「逃げ道」がないこと。でも、そもそも、勝ち負けを決める大会の審査なんだから、同点はだめでしょ。

2022年6月17日金曜日

要らない食べ物は要らない

(以下は〔日々の食べ物に特に困ってはいない人たち〕という前提のハナシ)善意のつもりで、頼んでもない食べ物をくれる連中は、食べたくもないモノを食べさせられる側の〔不満・イライラ〕に思いを巡らせた方がいい。

(喩え話をするなら、毎日昼はラーメンを食べたい人が、ランチでカツ丼をおごられても、ただただ〔イヤァな不満←相手は悪くない。むしろ不満に感じている自分こそがダメなのだという自己嫌悪〕に苦しむだけ)

ヒトに食べ物を与えることの「危険度」を「軽く」考えている輩は、①「嫌いなら誰かにあげて」とか、②「嫌いなら捨てて」とかも言いがち。

①がダメなのは最初に書いた。②は、「食べ物を捨てる」という〔究極的に気分のよくないこと〕を、ヒトにさせようというのだから、更にタチが悪い。②についてもっと言えば、「こちらに押しつけないで自分で捨ててくれ」と言いたい。

Judy Barton

ヒッチコック『VERTIGO(めまい)』観賞/5周目:

マデリーンの「本名は」Judy Barton。「Judy」は『TwinPeaks The Return』の最重要キャラの一人の名前!またしても、『Twin Peaks』との繋がりが!

上目遣い

人は上目遣いが出来る。犬も上目遣いが出来る。しかし、犬の先祖にあたる狼は上目遣いが出来ない。その為の筋肉がないからだ。

これはつまり、人と暮らすようになった犬が、対人用として、それまで持っていなかった「上目遣い用の筋肉」を進化によって手に入れたということ。

(NHK G)

放し飼い

忠犬ハチ公には勿論、飼い主(大学教授)はいたのだが、放し飼いだったので、渋谷の町をウロウロできた。だから、毎日、時刻になったら、駅に主人を迎えにも行けた。

(NHK G)

「お目覚め」文化

「お目覚め」の部分の元の英語は「WOKE」。文字通り「目覚めた」。「意識高い系」の人々を嘲りの意味を込めて「WOKE」と呼ぶ(らしい)。

で、何に「目覚めた」のかと言うと、社会正義の実現や政治的正しさの徹底など。まあ、意識高い系なんだからそうだろう。

手っ取り早く言えば、「ヒッピー文化 ver.2.0」あるいは「2周目のフラワーチルドレン」と言ったところかな。しらんけど。


参考:https://www.newsweekjapan.jp/satire_usa/2021/11/woke.php

2022年6月16日木曜日

仕置人:6「塀に書かれた恨み文字」メモ(追記)

▼アバンタイトルの辻斬り場面。バカ殿が斬ったはずの、おしず(お島の妹)が実は生きていて、しかも割と元気な様子で逃げ出そうとする描写は、バカ殿の試し切りに使った刀がナマクラというよりは、バカ殿の刀の腕がナマクラであるという描写。それが証拠に、バカ殿は、起き上がって逃げ出そうとしたおしずに、鬼の形相で何度も斬り掛かっている。これは、「恥をかかせやがって」とか「なんで俺はこんなに剣が下手なんだ!」という怒り。多分。


▼今回も侍専用の牢屋「揚屋(あげや)」が登場。第一話では、天神の小六のセリフの中にしか出てこなかったが、今回は、ちゃんと映像としてみることができた。牢に掲げられた看板に、漢字で「揚屋 弐」とあったので、漢字も分かった。どういうものかも分かった。普通の牢屋は土間っぽいが、そこから階段を数段登ったところに設置されている。別の棟というわけではなく。廊下の奥の中二階といった具合。


▼このエピソードのラストシーンは謎。直前まで、仕置現場から走って逃げていた鉄と錠が、開いた屋敷の門から、涼しい顔でゆっくり歩いて出ていく。しかも、その門は二人が出た後にキチンと閉じられる。つまり、そこには門番がいて、二人のために門を開け閉めてくれたのだ。これは色々に解釈できるが、〈実は守山藩の門番たちも以前から、殿様の辻斬り遊びに相当な反発を持っていたので、殿様たちを仕置してくれたらしい鉄と錠に自発的に協力した〉と考えるのが一番好き。もちろん、北上の指示というのが一番可能性は高いけど。


2022年6月15日水曜日

もお! 3回目!! (田中風)

covid19のワクチン接種(3回目・すべてファイザー)を、土曜日(11日)に、デパートの集団接種会場で受けた。翌日から、38.7℃の発熱、頭痛、全身のだるさ、肩・腰・接種部の痛み、と一通りの副反応に、いつものように苦しめられたが、4日後(昨日)にはケロリと治まり、ヤレヤレ。この3日で3kg痩せた。

バカ設定

所謂「心霊モノ」のテレビ番組を熱心に観ていた幼少の或る日、ふと、こう思ってしまった。

「死んだらそんなに偉いのか? こいつら何様のつもりだ?」

今、考えると、「バカ設定」に気付いた瞬間。

2022年6月13日月曜日

逸らしている作品

『2001年宇宙の旅』に代表される〈深いテーマを扱っているようでいて、実は「逸らして」いるだけ〉の作品は、もう観ない。その「逸らし」を喩えて云うなら、「どうしてボクは居るの?」という子供の真剣な問い掛けに、「父さんと母さんが愛し合ったからだよ」と答えるのに似ている。

うじゃない!

2022年6月10日金曜日

めまいは2周以上で

ヒッチコック『VERTIGO(めまい)』のオモシロサの一つは、2周目以降では、スコッティに対するマデリーンの言動(振る舞い・セリフ)の「意味」が違ってくること。マデリーン(の中の人)の「演技」と「本心」の〔2つの「文脈」あるいは「立場」〕が出たり入ったりしているのが分かるようになるから。もちろん、スコッティにはその区別はつかず、全てはマデリーンの「心の病」の表れくらいに思っている。

AKG Notebook


生命が信仰である理由

生命は厳密な定義ができない

物理現象として定義できない

人間が「生命」だと思ったモノが「生命」とみなされる

それは「神」のありようと同じ




人間が「生命」だとして尊んでいるモノの正体

実を言えば

それは「知性」

「生命のありよう」に感動しているように見えて

人間は

実は「知性のありよう」に感動しているのだ

故に

人間は

大気圏突入で燃え尽きる「はやぶさ1号」の姿に感動する

どう考えても

「はやぶさ1号」は「生命」ではなく「機械」

大気圏で燃え尽きる「生命」など元から存在しないのだ

あの空で燃え尽きたのは使命を全うした「意思」

すなわち「知性」である

生命の定義がどのようなものになるのせよ

「機械」は生命の対義語である

生命ではないのに生命のように振る舞うがもの

それが

そもそもの「機械」の定義だから

ゆえに

「生命」と「機械」は両立しない

「機械」であれば「生命」ではない

「生命」であれば「機械」ではない

しかし

「知性」と「機械」は両立する

「知性」と「生命」が両立するのと同等に

最初に戻ると

人間が

「生命」以外の存在に「生命」を見出すとき

それは「生命」ではなく「知性」である

朽ち果てた工場を見るとき

人間はそこに

「生命」の喪失ではなく

「知性」の喪失を見ているだ



人類が「オトナ」になるためには

少なくとも

自分たちが生命教を信仰しているという自覚をもつことが必要

そして

できるなら

この生命教を捨てることが求められる



真の無宗教

真の無信仰

それは

生命教から自由になったときに訪れる



全ての宗教は生命教の「変奏」である


『仕置人:仏の首にナワかけろ』memo

▼(2022/06/09)追記


*オープニング、登場直後のいも安は、気の弱そうな町人二人から、紙につつんだ小さなモノをこっそり受け取っている。おそらく、みかじめ料の類だろう。いも安自身も、自分よりも弱い立場の者に対しては、いも安にショバ代を要求するヤクザと同じことをしていることを、一番最初にちゃんと見せている。


*いも安は、下駄屋の女将さんがタイミングよく死んだので、彼女の棺桶に、自分が殺した〔お春の父親〕の死体を隠せばいいことを思いつく。夜中に棺桶を背負って自宅に帰ってきたところを、偶然、お春に見つかって、「女将さんは芋が好きだったから、お棺に芋を入れてやろうと思って」ととっさに嘘をつく(本当は、お春の父親の死体を入れに来た)。無論、〔お棺に芋を入れたいなら、わざわざ、女将さんの死体の入った棺桶を担いでくることはない(棺桶のあるところに、芋を持っていけばいい)〕ということは、誰でもすぐに気づくこと。ポイントは、そういう「見え透いた嘘」を平気な顔で言ってのけるところに、お春をはじめ、普通の視聴者はゾッとするのだ。


*半公とおきんの「養子作戦(半公がお春の婿養子に入り、その後、行方をくらます。寂しくなったお春が首をつってくれたら、棺桶が売れる、という他愛もない冗談)」を横で聞いていた錠は、それで、事件の「真相」に気づいて、いも安の様子を探りに行く。


*いも安は、お春を「手籠め」にするときも、〔二人が夫婦にならなればならい理由〕(もちろんでっち上げ)をお春に「説明」して、お春の「同意」を得ようとしている。この場面を見ていたら、プーチンのウクライナ侵攻を連想した。理由がでっち上げられたら、強姦も戦争も許されると考えている「気味の悪さ」が、そっくり。


*下駄屋の女将さんの墓を暴いた直後に、鉄が仲間に「仕置料」として渡す5両は、お春が〔父親の探索費〕として鉄に預けたもの。


2022年6月8日水曜日

『コロンボ/毒のある花』memo

犯人の女社長と、スパイをしているライバル会社の女秘書は、所謂、レズビアン関係にあるのかもしれない。「恋人関係」になって(装って)他人を利用するのは、この女社長の常套手段らしいのは、彼女の「被害者」が3人も描かれていることからもマチガイないし。

若い秘書が、女社長に殺されることなど想像もしていないのが不思議でしようがなかったが、彼女が女社長のことを「愛し合っている恋人」だと思い込んでいるなら、彼女の〔迂闊さ・無防備さ〕も理解できる。

マイクドチートス

チートスをぶっこんだ料理。USA。約1,700円(13ドル)。レストランATTIC。
→生クリームにパスタとチーズを入れて煮たものを器にり、その上から、砕いた〔ピリ辛味のチートス(スナック菓子)〕を大量にぶっかける。

(民放テレビ)

「まばたきチェック」のクリアのコツ

・スマホを置いて撮映する(手持ちしない)。
・顔写真を撮ったら、できるだけそのままの状能(体勢)で「まばたきチェック」に入る。

*たぶん、〈当人の写ったただの「写真」を撮映して「なりすます」こと〉を防ぐための手続きなので、今、撮った写真が「動く」ことを示さなければいけないのだ。喩えるなら、監視カメラの映像が、ルパンがカメラの前に貼りつけた単なる〈通路の写真〉ではなく、本当の通路の映像であることを、そこに映っている何かを動かすことで示す作業なのだ。

「思春期を拗らせた若い男」問題

銃乱射事件に直結する 「怒りを抱えた若いアメリカ人男性」問題にも目を向けよ(COURRIER)

「怒りを抱えた若い男」は、アメリカに限らず世界中どこにでもいる。「怒りを抱えた若い男」は、アメリカ社会が生み出しているのではなく、繁殖本能を持つ生物である人間の有り様それ自体が作り出すものだから。身も蓋もなく言ってしまえば、「怒りを抱えた若い男」とは、「サカリ=発情期=思春期を拗らせた若い男」にすぎない。その程度のものだから、人間が繁殖を諦めない限り、そんな「若い男」は毎年現れ続ける。世界中で。


にもかかわらず、アメリカ以外(の先進国)では、アメリカのような銃乱射事件がめったに起きないのは、単に、身近に銃がないからだ。身近に銃がなければ、「怒りを抱えた若い男=思春期を拗らせた若い男」は、学校の窓ガラスを割ったり、盗んだバイクで走ったり、歩行者天国で包丁を振り回したりするかもしれないが、銃は乱射しない。


「思春期の制御」は人類の難問で、未だに、決定的な解決法・対策はない。とにかく、それぞれの親・教師・当人が、おっかなびっくりの綱渡り式に、正解もわからないまま、どうにかやりすごしてきたのが、人類のこれまでの歴史(でなければ、封建制や軍国主義でギューギューに締め付けて、犬を躾けるみたいにして通り抜ける)。そして、多分、これからもそう。


思春期の人間というのは「天然の薬物中毒患者」のようなものだから、危なくてしょうがないのは当たり前。去勢でもしない限り、人間は誰もが、この「天然の薬物中毒患者」になる。そして、この「天然の薬物中毒患者」は、何がきっかけで、どう暴走するかは、分かったもんじゃない。


それに比べれば、銃を社会から一掃することは、言ってしまえば、単なる機械的作業。社会の構成員の合意を(強引にでも)取り付けて、あとは、物を集めて処分するだけのこと。世界の殆どの国が実現しているこんな「易しい」ことができないくせに、全人類が未だ嘗て一度も成し遂げていない「思春期の暴走の完全制御」に手を出すなんて、愚かというより欺瞞。欺瞞というより怠慢。


核戦争、自動車事故、銃乱射事件。構造は全部同じ。「キチガイに刃物を持たすな」はそのとおりだが、そもそもキチガイを見分けるのは至難の業なので、最初から誰にも刃物を持たせないのが一番なのだ。


2022年6月7日火曜日

独裁者

独裁者は、自分よりアタマのいい人間を「殺す」(自分よりバカは「生かし」て利用する)ので、所謂「粛清」された人間の〔多い・少ない〕で、その独裁者のオツムのレベルが判断できるよ。

そしてここから、「良い独裁者と悪い独裁者」とかのハナシも展開できる。

外来種

人間が〔外来種の脅威〕を騒ぎ立てる度に、「どの口が言ってるんだ」と思う。自分らだって、アフリカからの外来種のくせに。

ランチェスター戦略

ランチェスター戦略

曰く、"戦力に勝る「強者」と戦力の劣る「弱者」にわけ、それぞれがどのように戦えば戦局を有利に運べるのかを考えるための戦略論"

肥育牛

肥育牛(ひいくぎゅう):肉牛のこと。

*物は言いよう。

2022年6月6日月曜日

全ての戦争は...

全ての戦争は「宗教戦争」。輙、生命教vs.生命教。〈彼らの「生命」は我々の「生命」とはチガウ〉〈彼らの「生命」より我々の「生命」の方が尊い〉等々。「生命」を「神」に置きかえてみたまえ。

2022年6月5日日曜日

「グーグル断ち」

記事を読んでいると、「グーグル断ち」(あるいは「ネット断ち」)は、最初、「ひとりタイムスリップ(過去へ)」のように思えて、楽しげだった。が、よくよく考えてみると、違った。楽しげなのは違っていない。「ひとりタイムスリップ」が、違っていた。


たとえば、江戸時代にタイムスリップをした現代人が体験する〔苦労・不便・イライラ〕は、現代の便利な道具や仕組みが、江戸時代では使えないという点で「グーグル断ち」と同じだが、自分以外の誰も、その「便利な道具や仕組み」を知らないし、使ってもいないという点で「グーグル断ち」とは違う。


ダカラ、むしろ、「グーグル断ち」は、突然、視力や聴力を失ってしまったのに似ている。あるいは、突然、車椅子生活をする事になったとか。


昨日まで当たり前に使っていた能力を失うことで陥る「パラレルワールド」体験。昨日までの世界とものすごく似ているのに、何かが決定的に違う世界に迷い込んでしまった、SF短編的(ウルトラQ的)体験は、考えようによっては、ちょっと甘美。


2022年6月4日土曜日

繁殖するモノとしては優劣がない

人間が、牛やウズラを食べ物とミナシて「平気」でいられるのは、知性現象の尺度で比べるからだ。「繁殖するモノ」という尺度で比べるなら、「平気」どころか、理不尽かつ傲慢。

デンセンしない

ナイロンの語源は「NO RUN」(伝線しない)説。

(NHK R2)

3倍食べる人

『水曜日のダウンタウン』の「K.カズミ」の回をオモシロク観た。「テレビで有名なフードファイターたちの3倍食べる女の人がいた!」という、「バキ」的、「水曜スペシャル的」浪漫に溢れたオハナシ。でもこれって、山田孝之の『赤羽』や『カンヌ』と同じモノだよね?その場合、スタジオのタレントたちは、視聴者と同じ位ち場だと思うけど、あとは全部、「モキュメンタリー」演者。

2022年6月3日金曜日

アートライフ

銃を本に喩えたら

いろいろ言い訳しても、結局のところ、銃はまず第一に「殺すための道具」だからね。本に喩えるなら「詳細で具体的な殺人手引書」のようなものだよ。もしそんな本が街中でフツウに売られていたら、アメリカ人だってギョッとするだろう。で、実際にそんな本を買っていく人間を見かけたら、大抵のアメリカ人が警察に通報するに決まっている。しかし、モノが銃になったら、途端に、半分のアメリカ人が「平気」になるんだよね。


「詳細で具体的な殺人手引書」を買ったり所持していたりする人間のことは「潜在的な殺人者」の可能性があると正しく警戒できるけど、銃を買ったり所持していたりする人間は「普通の人」だと思いがちなところに、アメリカ人(アメリカ社会)の病理がある。〔銃に対するアメリカ人の認識〕の異様さや時代錯誤感は、もはや「ハラキリ」や「カミカゼ」レベルで、ああ、結局人間って、知性体としては「つなぎ」に過ぎないなあ、と思ってしまう。


銃で身を守れるのは、撃たれる前に撃つ者だけだってことに、なかなか気付けないから、自分は絶対人殺しはしないと思いながら、しかし護身のために銃を持ちたがるマヌケも後をたたない。そもそも、相手に撃たれる前に撃つとか、丸腰の相手を撃つとか、それは要するに、銃乱射事件の犯人たちがやっていること。


強盗や強姦魔を追い払うための「威嚇」道具としての銃の必要性を主張したりもするけど、そもそも「誰でも」銃が持てるんだから、当の強盗や強姦魔も、やっぱり銃を構えて襲ってくるわけで、そうなると、あっという間にどちらかが死ぬかもしれない「取り返しのつかない状況」に陥る。なにより、銃を持っていなければ、安心して生活できない社会ってどうなのよ? まず必死で改めるべきはそこでしょう?


真偽は定かでない「猿にマスターベーションを教えたら死ぬまでやってる」説ってのが昔からあるけど、野良猫がもしも銃を使えたら、発情期の度に、オス猫や場合のよったらメス猫の死体(射殺体)がそこら中に転がることになるだろうね。野良猫がともかくも「平和的」に発情期を乗り越えられるのは、彼らの武器が牙と爪という相対的に穏便なものだからだ。人間に銃を渡すのも、野良猫に銃を渡すのと大差ない。


2022年6月2日木曜日

餃子一日3万個

K-popの躍進を紹介するEテレの番組を見ていて思ったけど、「動画再生回数が世界で何億回」とか「登録者数何千万人」とか聞いても、もはや、「卵一日5万個、餃子一日に3万個」にしか聞こえない。「へえ〜ご苦労さん」という感想。

Maybellene

2022年6月1日水曜日

縦長

スマホ式の縦長動画に〈個人的なモノ〉や〈身近さ〉を感じるのは、それを見たとき、自動的に〔スマホを構えた撮映者の姿〕を思い浮かべるからだ。

スマホを構えた撮映者は、それが、他人であろうが、自分自身であろうが、今は、あまりにもよく居る(見る)存在。横長動画の撮映者である、〔テレビや映画〕のカメラマンの姿とは〔馴染み度合〕がまるで違う。

あの縦長動画は、だから、今はまだ、カメラの〈こちら側〉に人物を想像させてしまう。否応なく。

それとは逆に、所謂「自撮り」がある。この場合は、〈他に撮映者が存在しない〉ということを視聴者は〈知っている〉。即ち、その動画の撮映状況が、完全に〈私的〉〈個人的〉〈personal〉だということを〈体験的に〉知っているので、「自撮り」を装われただけで、過剰な親密感を持ち易い。

V2ロケット

V2ロケットの「V」はドイツ語の「vergeltung」=「報復」。ロンドンやパリに3,000発が発射され、9000人を殺した。
(NHK G/映像の世紀:バタフライエフェクト)