2022年6月10日金曜日

AKG Notebook


生命が信仰である理由

生命は厳密な定義ができない

物理現象として定義できない

人間が「生命」だと思ったモノが「生命」とみなされる

それは「神」のありようと同じ




人間が「生命」だとして尊んでいるモノの正体

実を言えば

それは「知性」

「生命のありよう」に感動しているように見えて

人間は

実は「知性のありよう」に感動しているのだ

故に

人間は

大気圏突入で燃え尽きる「はやぶさ1号」の姿に感動する

どう考えても

「はやぶさ1号」は「生命」ではなく「機械」

大気圏で燃え尽きる「生命」など元から存在しないのだ

あの空で燃え尽きたのは使命を全うした「意思」

すなわち「知性」である

生命の定義がどのようなものになるのせよ

「機械」は生命の対義語である

生命ではないのに生命のように振る舞うがもの

それが

そもそもの「機械」の定義だから

ゆえに

「生命」と「機械」は両立しない

「機械」であれば「生命」ではない

「生命」であれば「機械」ではない

しかし

「知性」と「機械」は両立する

「知性」と「生命」が両立するのと同等に

最初に戻ると

人間が

「生命」以外の存在に「生命」を見出すとき

それは「生命」ではなく「知性」である

朽ち果てた工場を見るとき

人間はそこに

「生命」の喪失ではなく

「知性」の喪失を見ているだ



人類が「オトナ」になるためには

少なくとも

自分たちが生命教を信仰しているという自覚をもつことが必要

そして

できるなら

この生命教を捨てることが求められる



真の無宗教

真の無信仰

それは

生命教から自由になったときに訪れる



全ての宗教は生命教の「変奏」である