生命が信仰である理由
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生命は厳密な定義ができない
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物理現象として定義できない
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人間が「生命」だと思ったモノが「生命」とみなされる
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それは「神」のありようと同じ
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人間が「生命」だとして尊んでいるモノの正体
実を言えば
それは「知性」
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「生命のありよう」に感動しているように見えて
人間は
実は「知性のありよう」に感動しているのだ
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故に
人間は
大気圏突入で燃え尽きる「はやぶさ1号」の姿に感動する
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どう考えても
「はやぶさ1号」は「生命」ではなく「機械」
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大気圏で燃え尽きる「生命」など元から存在しないのだ
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あの空で燃え尽きたのは使命を全うした「意思」
すなわち「知性」である
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生命の定義がどのようなものになるのせよ
「機械」は生命の対義語である
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生命ではないのに生命のように振る舞うがもの
それが
そもそもの「機械」の定義だから
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ゆえに
「生命」と「機械」は両立しない
「機械」であれば「生命」ではない
「生命」であれば「機械」ではない
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しかし
「知性」と「機械」は両立する
「知性」と「生命」が両立するのと同等に
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最初に戻ると
人間が
「生命」以外の存在に「生命」を見出すとき
それは「生命」ではなく「知性」である
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朽ち果てた工場を見るとき
人間はそこに
「生命」の喪失ではなく
「知性」の喪失を見ているだ
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人類が「オトナ」になるためには
少なくとも
自分たちが生命教を信仰しているという自覚をもつことが必要
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そして
できるなら
この生命教を捨てることが求められる
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真の無宗教
真の無信仰
それは
生命教から自由になったときに訪れる
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全ての宗教は生命教の「変奏」である