2018年5月29日火曜日

4-9:生活指導/チューリングマシン


退院が近い患者たち数人を洗面所横の談話室に集めて、看護婦長が退院後の生活指導をする。テーブルには小さくて上品な緑色の和菓子と蓋付の湯呑みが、どうやら人数分置かれている。初対面の患者同士でなんとなく顔を見合わせていると、看護婦長が「院長からみなさんに」と微笑んだ。席について、菓子をつまみ、濃いめの緑茶を飲みながら、生活習慣の「改善」などについて20分ほどの講義を受けた。

最後に看護婦長が何か質問はありますか訊いた。患者の一人(初老のハゲオヤジ)が手を挙げて、看護婦長の勧めるような生活習慣は自分にはやれそうもないと云った。看護婦長は、そうするとまたすぐにここに戻ってくることになりますねと答えた。別の患者(痩せた中年女)が手を挙げて、うまくやるための何か具体的なコツはあるかと訊いた。看護婦長は、それはみなさんが自分の意識を変えることだと云った。

「みなさんの問題の本質は、みなさんが、身体というものを理解してないことにあります。みなさんはチューリング・テストというものをご存知でしょう。人間が見分けることができないレベルに到達した時点で、機械製の意識は、生身の人間の意識と同じだというアレです。ところで、機械製の意識が人間のものと区別がつかないレベルになるのに必要な条件は何でしょう? それは人間の身体です。そもそも意識は生命現象の副産物ですし、生命現象とは端的に云って身体のことです。人間に限らず、全ての生命現象に意識に類するものが付随していると考えたとして、それぞれの生命現象の意識には必ずそれぞれの生命現象の身体が反映されることになります。なぜなら、意識とは身体の結果だからです」

患者全員が揃って湯呑みを持ち上げ、空なのを思い出し、またテーブルに戻した。看護婦長は続ける。

「機械製の意識が現実の物理的な身体を持つ必要はありません。人間の身体体験のシミュレーションに拠って意識を枠付けをすればいいのですからね。みなさんがここに来ることになった一番の理由は、みなさんには現実の物理的な身体があるにも関わらず、みなさんの意識がその枠からはみ出して、勝手なことをしてきたからです。みなさんの、身体を手放した意識が、みなさん自身の身体を長年にわたって破壊し続けた結果が今のみなさんです。みなさんは、本来は誰もが自然に備えている身体の枠を意識に拠るシミュレーションで再構築しなければならないということです」

2018年5月28日月曜日

4-8:演奏会/独立栄養生物と従属栄養生物


入院患者のために毎週水曜日に一階ロビーで音楽会が開かれる。演奏家の若い女が二人でやってきて、一人が持参したピッコロやオカリナを吹き、もう一人がロビーに備え付けのグランドピアノを弾く。聴衆は全員入院患者で、入院している以上は全員体調は万全ではないのだから、あたりまえだが、ノリはよくない。ノリはよくはないが、命に関わる病気でもないし、殆どが一ヶ月もせずに退院していく連中なので、本格的な絶望感もない。単に、やや不機嫌で元気がないというだけだ。しかしこのやや不機嫌で元気がないというのが、こういう場合わりあいに影響が大きくて、これなら、数ヶ月/数年にわたって制限の多い監視生活を強いられてはいるが、体調は返って一般より良好なくらいの刑務所の中の連中の方が、聴衆としてはずっとアリガタイし、やりやすいはずだ。

明るいネイロの演奏が終わるたびにガンバッテ拍手をしながら、そんなことを考えていると、どこからか大きめのガガンボが飛んできて前の席の人の髪の上に止まった。ガガンボには目の細い若い女の顔が付いている。ガガンボが云った。

「何より、演者と聴衆がお互いに気を遣い合っている空気がイタタマレないのよね。演奏する方は、あなたたちの体調に気を使った選曲と演奏をしてますよって。聴いてる方は、楽しませてもらってますよ、感謝してますよって。そうやって両方が遠慮しまくってる感じが、もう、どうしようもなく不健康。病院で不健康はダメでしょ」

ガガンボは、何の重さも与えず、足音も立てず、前の人の頭の上を歩き回る。

「不健康で思い出したけど、不健康の本質はなんだか分かる? それはね、有機物資源の略奪のことなのよ。有機生物が自分の有機物を、自分の存続以外に強制的に消費されるときに不健康という状況が生じる。だから、無機物から栄養を作り出す独立栄養体(独立栄養生物)に不健康を生じさせるものは殆どいない。不健康を生じさせるのは、大体が、他の生き物の作り出した有機物を横取りすることで生きている従属栄養体(従属栄養生物)なのよ。分かるかしら? 今、生き物はもれなく有機物なのだから、有機物(燃料としてか、体の構造そのものとしてか)を横取りされることで不健康になる。もちろん自分の有機物を生物学的に略奪されるだけでなく、物理学的/化学的に直接破壊されてもやっぱり不健康は生じるわけだから、原理的には無機物も不健康の原因にはなるけどね」

2018年5月27日日曜日

4-7:シャワー室/意識


風呂の許可が出たので、洗面器と石鹸を持って病室を出た。風呂と云っても共同のシャワー室だ。風呂付きの個室にいる者だけが自分専用の湯船にゆっくりと浸かることができる。

脱衣所から覗くと、シャワー室はロッカールームに少し似ていた。中折れドアのついた「一人用シャワーボックス」とでも云うべきものが、両側に6台ずつ並んでいる。ドアには半透明の樹脂パネルがはめ込まれているが、中に人がいるかどうかはよく分からない。水の音は聞こえても、その音がどのシャワーボックスから聞こえて、どこからは聞こえて来ないのか、分からないのだ。おそらく間違いないのはドアが開いたままのシャワーボックスで、覗いてみると確かに誰もいなかったので、早速服を脱いでそこに入った。

このシャワーボックスが好い意味で予想外だった。退院後も、これのためだけに通って来ようかと思ったほどだ。一人用なので決して広くはないが、湯の噴出口が壁に十個ほどあって、これが発明なのだ。ふつうのシャワーは標的が頭にしろ肩にしろ背中にしろ、とにかく一方向からの湯を浴びるだけだが、この「極楽シャワーボックス」(敢えてそう呼ぼう)は、複数ある噴出口のおかげで、四方八方から同時に湯を浴びることができる。熱い湯が、それぞれの噴出口から直接、体全体に満遍なく浴びせかけられる。云ってしまえば、洗車機の中と同じなのだが、その間抜けな絵柄とは裏腹に、実にこの上もなく快適なものである。湯船に浸かることなく、しかし湯船に浸かった時と同じように体全体をいっぺんに温めることができる上に、湯船に浸かればどうしても感じる水圧の重苦しさはない。

まさに画期的発明。

そう思いながら、全身に心地よい湯の飛沫を浴びていて、ふと、他の極楽シャワーボックスの中でも、今、それぞれの利用者が自分と同じように感じているに違いないことに気づいた。そして、笑った。この状況が人間の身体と意識の関係そのままだと思ったからだ。

或る一人用の装置の中に閉じ込められた実存に生まれる感覚は、その実存ではなく、その実存を閉じ込める装置の仕組みによって生み出される。シャワーボックスが放出する湯が、中の利用者の感覚を形作るという構図は、身体が放出する伝達物質が、内面の意識の感覚を形成する構図そのものだ。

生き物としての人間に取り立てていうほどの個性などはない。全ては「同じ極楽シャワーボックス」の中の「同じ心地よさ」である。

2018年5月24日木曜日

世界完璧図書館


ヒマラヤ地下の世界完璧図書館。
世界の本が完璧に揃う。
ビルより高い本棚が立ち並ぶ光景は、
日本にあるという団地にそっくりだ。
実際、本棚には人のような者たちが住んでいて、
五千年の昔から本の管理を続けている。

ただのニワトリ


目立たない場所でいきり立ってるお前は、
シャモに憧れるただのニワトリ。
仕分けのウッカリで養鶏場のメスたちに紛れ込んだ、
抗生物質漬けのオスのブロイラー。
タマゴは産めない。オスだとバレるので鳴けもしない。

歯医者(女医)


歯医者が俺の歯を削る。
ダイヤモンドドリルで俺のエナメル質を削り取る。
スポットライトとリクライニングシート。
静かな音楽。白い部屋。
特別製の金属のカケラ。
女の静かな息遣い。
まったく。開いた口が塞がらない。

2018年5月22日火曜日

4-6:ガーゼ交換/進化論


日に一回、下の階のナースステーションに出向く。お願いしますと声をかけてから、「処置室」と札の出たそばの小部屋で待っていると、後から看護婦が一人来て、患部に化膿止めの軟膏を塗り、ガーゼを張り替える。今日もそのつもりで行った何日目かに、看護婦が無感動に「今日からご自分でやってみましょうか」と云った。退院後もしばらくは化膿止めを塗ったりガーゼを張り替えたりすることになるので、入院患者はみんな前もって練習しておくのだという。看護婦立ち会いのもと、鏡で患部を見ながら自分で軟膏を塗ったりガーゼを貼ったりするのは、非常に間抜けで面白い体験だった。別に難しいことでもないので、練習はその一回きりで、以降はナースステーションには行かず、自室で自分で処置することになった。

「入院してみて気づくのは、医療そのものに感じるアリガタミと、個々の医療従事者たちの医療行為のソッケナサとの落差ではないかね? いや、個々の医師や看護婦が患者に対して薄情だと云っているのではないよ。或る現象の特性と見做せるものが、その現象の構成要素には必ずしも備わっていないことがあるという話さ。部分が集まって全体となったときに、部分にはないものが出現することがある。我々に様々な恩恵をもたらす現代社会は、概ね、無愛想で嫌々の、そうでなくても善意や好意とは全く無関係な個々の労働によって形作られているからね」
見舞いの教授はそう云うと、白杖で丸椅子を探り当て、それに腰を下ろした。
「全体としては確かに存在しているとしか思えない意図や目的や知性は、それぞれの構成要素を調べようと[認識の倍率]を拡大していくに従って消えて行ってしまうのだよ。反対側から喩えるなら、一滴の雨粒かな。雨粒には、川を生み出す意図も、洪水を引き起こす目的も、休日を潰そうと企む知性もないが、現実にそういう現象は起きる。同様に遺伝子には、細胞を作る意図も、生物になる目的も、文明を築く知性もないが、それらは現れる。つまりだね、知性も生命も、正体は[特定の物理現象の繰り返しの量とその偏りの閾値越え]なのだなあ。無愛想な看護婦が集まって温かい医療行為が生まれるのも正にそれさ。あ、そうだ。ついでだから、今日は、頼まれていたこれ、持ってきたよ」
教授はポケットから腕時計を取り出した。しばらく耳に当て、満足げに秒針の音を聞く。時計の修理は教授の昔からの趣味で、それは今も変わらない。

2018年5月21日月曜日

4-5:入院食/エントロピー


何日か食べ続けた後で、入院食の、この何とも云えない贅沢感はどこから来るのだろうと考えた。合成樹脂のパコパコした器。少し足りない分量。不味いとは云わないが絶賛するほどでもない味。どれも贅沢感よりも情けなさを生み出す要素だ。「自分で作らない」「後片付けをしなくていい」というのは論外。買い食いや外食はその両方が当てはまるが、入院食独特のこの贅沢感はない。

たぶん、毎朝昼晩、時間通りにきっちりとベッドに届けられるから、というのはあるだろうが、それだけでは、この何とも云えない贅沢感は生まれない気がして、あっと気づいた。なるほどそうだ。入院食は、今日、今、食べるものを自分で選んでもいないし、決めてもいない。これだ、と。

一人暮らしが長いと、1日1食だろうと4食だろうと、自分の食べるものは自分で選ぶし、自分で決める。安くあげようと贅沢しようと、どこで何をどんなふうに食べようと、勧められようと誘われようと、今日、今、自分が何を食べるのかを決めるのは常に自分だ。入院食にはそれがない。その決断がない。それがイイのだ。

考えてみれば、今から自分が何を食べることになるのか知らない状態というのは「贅沢」だ。実際、「幸せ」な家庭の子供はみんなそれだ。毎日の献立は親が「勝手」に決める。「不幸」な家庭の子供は、自分が今日、今から食べるもの(あるいは何も食べられないこと)を、いくつかの理由で、常に知っている。

「今日は〇〇をご馳走してくれるんだって?」よりも「今日は何をご馳走してくれるのかな?」の方が贅沢指数は高い。というか「質」からして違う気がする。

ロビーで知り合いになった、病院厨房内の洗い場でアルバイトをしているイギリス人留学生ジェームスに云わせると、決断は情報の処理であり、生物にとって情報を処理しないことはどんな場合でも贅沢らしい。
「洗い場で仕事をしているとよくわかりますよ。残飯は、それぞれの器に食べ残されていた時よりも、バケツにひとまとめにされたほうが明らかに汚らしいですし、実際、混沌さも増します。器を綺麗にするために、バケツの中に今まで以上の混沌を生む。これをエントロピーは全体としては増大したというのですね。この時の器を綺麗にする行為が情報の処理に当たります。生物とは増大したエントロピーを排出し続けることで成立している物理現象ですから、エントロピー増大の元になる情報処理をしないことは贅沢なんです」

2018年5月20日日曜日

4-4:回診/マッスルメモリー


朝食が終わってしばらくすると回診を知らせる館内放送がある。指示通りにベッドの上で待っていると、まず看護婦が入って来て、こちらの体勢を変えたり患部のガーゼを一旦剥がしたりして、回診に来た医師がすぐに診察できるように準備する。その後やって来た医師は、ドコカのナニカをちょっと見て、「結構ですね」「順調ですよ」「お大事に」などと云って、もう次の所へ向かう。ほんの2分ほどの出来事。

「物足りないと思うかもしれないけれど、そう思う方が間違っている」
毎晩こっそりやって来る若い白衣の男が云う。
「簡単な計算。1人2分でも30人診れば60分。それをあと2分伸ばして4分にしたら120分にもなるんだ。知っての通りここは人気病院で、しかも患者は入院患者だけじゃない。外来などは門前市を成す状態で、医師たちは毎日目の回るような忙しさなんだね。だから回診に毎日2時間も取られるわけにはいかないんだ」
若い白衣の男は、研究のためと云って、血液や粘膜や皮膚片を取っていく。
「僕はね、筋肉に於ける〈昔取った杵柄現象〉を研究してるんだよ。聞いたことないかな。一度体を鍛え上げたことのある人間の方が、生まれて初めて体を鍛える人間よりも、筋肉の成長がイイという話。僕の同僚は、体を鍛えたことで筋肉を強化する特定の遺伝子にスイッチが入って、そのせいで、一旦筋肉がしぼんでも、再び鍛え始めれば、初めての時よりも筋肉が効率的に発達すると主張してるんだけど、僕は違うと思うんだよ。起きてるのは多分ただの淘汰さ。一般に、筋肉が鍛えられて大きくなるのは、筋肉細胞がちぎれて死んだあとを、近くの筋肉細胞が埋め合わせる現象なんだから、筋肉を鍛えるという行為は、結局、たくさんある筋肉細胞の中の相対的に弱いものから順に破壊していく行為、つまり淘汰なんだね。それはつまり、相対的に強い筋肉細胞が生き延びて自分のコピーを増やすということでもある。一度鍛え上げれば、強い筋肉細胞の割合が元々よりも増えているわけだから、一旦しぼんでもまた鍛え直せば、最初の時より筋肉の発達が顕著になるのは当り前だよ。僕の同僚は、淘汰済みで粒の揃った筋肉の遺伝子を調べて、スイッチが入ったって騒いでるだけなのさ。本当は、元からスイッチの入っていた筋肉細胞が生き延びただけなのに…」

毎晩定時に巡回の看護婦が来て懐中電灯で室内を照らすが、その光はなぜか若い白衣の男には絶対に当たらない。

2018年5月17日木曜日

血筋


王家や皇室の血筋が始まったときに、
俺の血筋もアンタの血筋も彼女の血筋も始まってる。
血筋を云えば、人間はひとりの例外もなくみんな同い年。
老舗も新参もない。
ムキになって騒ぎ立てる変わり者が少しいるだけだ。

人類の夢


不老不死は、なるほど人類の夢だが、実現は永久に不可能だ。
人の生と不老不死は決して相容れないからね。
しかし人類のもうひとつの夢が実現し、今ここにある。
完全自殺薬。
何の苦痛もなく、飲めば絶対に助からない。

牛乳泥棒


僕が眠っている間に
こっそり僕の牛乳を飲んでるヤツがいる。
朝起きると減ってるから分かるんだ。
夜中にそっと冷蔵庫を開けて、
冷たい牛乳をゴクゴクと。
しかもヒトの牛乳を。
いったいどんなヤツだろう?

知らないわ。

2018年5月15日火曜日

4-3:相部屋のダークマター氏


病室は、簡易なパーテーションで仕切られただけの二人部屋だが、入り口もトイレも二つずつあって、一つずつを自分専用として使えるので、相部屋の患者の姿を病室内で見たことはない。病室内で見ていない以上、無論、病室の外で目にしたとしても、それが相部屋の彼だとは気づかない(声はわずかに聞いたので、男なのは分かっている)。

そのダークマターの彼が、さっきから猛烈な咀嚼音を響かせてスナック菓子を食べている。独特のシャリシャリ音がパーテーション越しにはっきりと聞こえる。ここの入院患者で命に関わる病気を患っている者はおそらく一人もいないだろうから、食欲がないとか一日ずっと臥せっていると云った、いかにも入院患者然とした殊勝な振る舞いをする者は、やはり一人もいないだろうが、しかしそれでもその音はあまりにも日常的且つ堕落的且つ弛緩的で、入院生活の非日常感や節制や緊張感を蔑ろにしていた。

相部屋のダークマター氏は、その不遜なスナック菓子を、おそらく一階ロビーの階段横にある小さな売店で買ったのだ(そんなものを入院するときに持ち込んだとは思えないし、見舞い客がわざわざ持って来るとも思えない)。その売店では、病室で貪り食うためのスナック菓子の他にも、患者が手術後に使うガーゼやテープを売っている。患者はガーゼやテープを、入院前にどこかで買って持ち込むか、入院後にその売店で買って手術に臨む。無論、手術で使うガーゼやテープは病院持ちだが、手術後に交換されるテープやガーゼは患者持ちで、このシステムを最初に看護婦から聞かされた時には、なんだか自前の米一合を持って参加する飯盒炊飯遠足のようだと思った。

ダークマター氏は先にこの部屋にいた。そして看護婦に依ると、まだ当分は退院できない。長年放置してすっかりコジラせた患部を何度かに分けて手術しなければならないからだ。

姿は見えなくても、ダークマター氏が確かにそこに居るのは、ふたつの情況証拠から明らかだ。一つ目の証拠は、この二人部屋に自分の後からは誰も入らなかったという事実。ここはベッドの空き待ちの出る人気病院であり、もしダークマター氏が実在しないのであれば、自分の後に誰かが部屋に来た筈だ。二つ目の証拠は、スナック菓子の咀嚼音。パーテーションの向こうにそれ用の音響装置が設置されていると考えるより、スナック菓子を食べる人間が実際に居ると考える方が「オッカムの剃刀」の原理に適う。

2018年5月14日月曜日

4-2:夜中に麻酔が切れる


看護婦の予言通り夜中に麻酔が切れた。16時間前、自分の体のどの部分が切り貼りされたのかがそれで初めて実感できた。手術直後に看護婦が「これですよ」と見せてくれた肉片が元は本当に自分の体の一部だったことも、あるいは、手術が、フリではなく実際に行われたことも、それで初めて疑いのないものとなった。

麻酔が切れるまでがあまりにも平穏すぎたのだ。手術のあとがキツイと散々脅されていたので、噂ほどではないとすっかり安心していた。麻酔は有難いものだと思った。同時に恐ろしいものだとも思った。麻酔は傷を癒しているわけではない。傷の存在を隠しているだけなのだ。麻酔があれば両足がもげても何の苦痛もないだろうが、だからと云って、それで命が助かるわけではない。当事者の自覚など死神は問題にしない。麻酔は死神を追い払うのではなく、死神を見えなくするだけのものだ。しかし死神を見えなくするだけなら、大抵の人間が麻酔の助けなど借りずに、無意識と我流で、日々実践している。

事前に習っていた通りに枕元のナースコールボタンを押して痛みを訴えた。間もなく小さな懐中電灯を灯した看護婦がやって来て、病室のドアを音もなく開けた。二人部屋なので部屋の電灯はつけない。丸く太ったシルエットが懐中電灯の細い光で足元を照らしてベッドのそばまで来ると、小声で「痛み止め、飲みますか?」と訊いた。他に何かやりようがあるのかと訊き返したら「ありません」という答え。それなら貰いますと云ったら、看護婦の丸く太ったシルエットが耳元で囁いた。
「痛みは時間と同じですよ。どちらも客観的には実在しませんから。ただの体験。つまり解釈です。主体があって初めて現れるものです。客観的事実だけを見れば、時間は光の移動で、痛みは電気の流れです。ついでに云うと、時空間という云い方は重複表現です。なぜなら、時間も空間も光の移動のことだからです。空間の理解で気をつけて欲しいのは因果の順序です。まず空間があってそこを光が移動するのではありません。光の移動それ自体が空間です。光の移動のない空間は幽霊と同じです。物理的実体がないにもかかわらず、物理的実体と関わることができるなんて不合理の極致ですから。時間と空間は、光の移動という一つの現象を…」

相部屋の患者が咳をしたので看護婦は話をやめて、小豆粒のような痛み止めを二つ、ナース服のポケットから取り出し、ベッドテーブルの上に置いた。

2018年5月13日日曜日

4-1:手術と重力


入院初日に看護婦から「説明」を受けた。動物の中で人間にだけ発症する「安寧に生きていく上での障害」を除去する手術だが、当該の障害と同様に、この手術もフツウは命に関わるものではないと看護婦は云った。
命に関わるって、例えば出血多量とか?
「麻酔ですね」と看護婦。
麻酔が?
「体質によっては、効きすぎてショック症状を起こしたりすることがあるので」
悪くすると死ぬ?
「そんなことがないように万全を期してます」
でも死ぬ時は死ぬ?
「死ぬ時はただ寝ていても死にますよ」
二人でハハハと笑う。同意書(承諾書)に署名した。

手術は個室ラーメン方式。朝の九時に患者五、六人がいっぺんに手術室に歩いてやってくる。到着した患者たちは、看護婦の誘導で、カーテンで仕切られた手術台に一人ずつ乗せられる。患者同士はその時点でお互いの姿が見えなくなる。その後、看護婦たちが受け持ちの患者に麻酔注射(局部麻酔)を打つ。麻酔が効くまで半時間ほど無為に待つ。手術は副院長がたった一人で行う。談笑を交えながら、端から順に全員の患部を切ったり縫ったりするのだ。独特な体勢で手術台の上にいる患者は、手術の様子も医者の姿もイッサイ目にすることはない。

順番が来た。副院長のよろしくの挨拶が背後から聞こえたので、こちらも挨拶を返した。すると副院長が看護婦を相手にこんな話を始めた。

「この病気は人体の構造が未だに地球の重力に最適化されてないことの証拠なのよ。ねえ、重力ってなんだか分かる? 重力は質量。質量は物質が持つ[時空を歪める力の量]のことで、時空の歪みが重力なんだから、重力は質量なのよ。循環論法みたいだけど。で、面白いのはここからで、重力は時空の属性で、質量は物質の属性で、なおかつ重力と質量は別の視点から見た同じものなんだから、それぞれが属性となっている時空と物質もやっぱり別の視点から見た同じものなんだよね。つまり、物質は極端に圧縮された時空でしかないの。自身が圧縮された時空の集合体である人間には到底理解できないだろうけど」

いつになったら始めるのだろうと思っていた手術は、実は副院長のよろしくの挨拶と共に始まっていて、そのお喋りが唐突に「お疲れ様」になった時に終わった。看護婦が切り取ったばかりの患部を小瓶に入れて「これです」と見せてくれた。

手術が終わった患者たちは、今度は歩かずに、全員が看護婦の押す車椅子に乗って、それぞれの病室のベッドに帰る。



2018年5月8日火曜日

3-9:ゴーストとファントム


送別会の帰りにタクシーを拾い損ねて、雪の中を歩いて帰った。真夜中近くにアパートに着くと、ドアの外に魔女がいた。魔女は魔女だとは名乗らなかったが、立てかけてあった古い棕櫚箒の毛を一本一本熱心に数えていたので、そうと分かった。魔女は数えながら「サーレもダメなのよ」と云った。「つい朝まで粒の数を数えてしまって」。サーレって何だっけ、ああ、イタリア語の塩か、と、そこで目が覚めたら、寂しい路地の突き当たりの自販機の前で半分雪に埋もれて死にかけていた。小さい女が顔を覗き込んで「生きてる?」と訊いた。小さい女は自販機で熱いおしるこを買うと、飲むように云った。飲むと少し元気が出たので、そこで初めて礼を云った。おしるこの礼ではなく、凍死から救ってくれた礼だ。小さい女は、礼には及ばないと云い、それから、路地の外に車を待たせてあるからついて来いと云った。ついて行ったら、車ではなくサイドカーだった。フルフェイスと革のつなぎで完全装備した痩せたバイカーがバイクに跨っていた。バイカーはマッチ箱のマッチをつまんでバイザーの隙間に入れていた。マッチが入るたびにヘルメットの中がぼうっと光った。ライダーは幽霊で、幽霊だからマッチの燐が好物なのだ、と小さい女が説明したので、そんなバカなと笑おうとしたら、凍死しかかったせいか、うまく笑えなくなっていて、代わりに変な短い音が出た。小さい女に促されてサイドカーのカーの部分に乗りこんだ。小さい女は幽霊ライダーの後ろに跨りゴーグルをかけた。自分はコートのフードを頭にかぶった。幽霊ライダーは空になったマッチ箱を潰して捨てた。サイドカーが走り出した。てっきり家に送ってくれるものと思っていたら、着いたのは夜間診療の看板が出た民家の前だった。小さい女が「自分で思っている以上にギリギリで、このまま何もしないで家で寝たら、きっとそのまま二度と目が覚めないわよ」と脅かすので、しぶしぶ「受付」の小さい窓を覗いた。すぐに診察室に連れて行かれた。そこで待っていたのは魔女だった。魔女は魔女とは名乗らなかったが、ピンセットと顕微鏡で塩の粒を熱心に数えていたので、そうと分かった。魔女は数えながら「右手はこの中です」と、床の保冷ボックスを持ち上げて見せた。
右手ならある。ほら、握ったり開いたり。
「それはただのオバケです」
幽霊なら今乗せてもらって来たばかりだ。
「あれはゴースト。それはファントム」

2018年5月7日月曜日

3-8:大震災


大型機械がいくつも動いている一階の工場にいたので揺れは感じなかったが、高く積み上げた紙の束が、みんな、ゆらゆらと動いているのを見て、すぐに16年前を思い出した。揺れ方があの時とそっくりだったからだ。この小さな揺れは、耳元の囁きなどではなく、山の向こうの絶叫なのだと直感した。

なみなみと注がれた珈琲カップの縁にある町や村は、カップに加えられた衝撃で中の珈琲がほんの少し波打って縁を掠めるだけで、もう、ヒトタマリもない。

40年前の使い古しの湯沸かし器から、今の人類には消せない火事が起きて、慌てふためいた政府は決死隊を使って上から下から水を撒いたが、結局、湯沸かし器は爆発し、透明の毒を辺り一帯に撒き散らした。毒が広がっていく様子はコンピュータがネット上で24時間描画し続け、地図上をのたうち回るその巨大アメフラシの姿を、誰もが飽きもせず見つめ続けていた。

なんだバカらしいと思って、猫と外に出た。セシウムの雪が空から落ちて来るのを眺めていると、通い猫のコビ(仮名)が来た。コビはうちの猫に大声で挨拶したあとでこう云った。
「科学に欺瞞を持ち込んだムクイさ。科学と欺瞞は両立しない。誤りなら科学にもある。しかし欺瞞はない。科学とは単なる事実だからね。しかし政治や経済はそうではない。政治や経済は本質が欺瞞、詐欺、隠蔽。なぜなら政治や経済は人間の都合の表明と実行に過ぎないから。政治や経済の正直/公開/公正は演出や手段であって目的ではないんだ。それに対して科学はいつでも丸裸だよ。水素と酸素が結合して水ができることには、どんな信念も損得勘定も関わりようがないだろう。好きも嫌いも善も悪も身も蓋もないのが科学さ。なぜなら、科学の原理は人間の幸福や利益とは無関係だから。つまり、科学に欺瞞を持ち込むとは、科学に政治や経済を持ち込むということで、それによってただの自然災害に余計な災厄が上乗せされたわけだね」
それに対してうちの猫が答えた。
「どんな装置でも事故は起きる。破壊された原子炉の暴走は今の人間には止められない。津波の高さも予測できない。こうした事実に対してどうすべきかを前もって決めておくことがあるべき科学の姿だ。原発は事故らない。原子炉の暴走は食い止められる。予測より高い津波は来ない。これらは全て政治や経済が云わせる願望にすぎない。しかし事実の前で願望は無力だよ。物理は人間の都合をオモンパカリはしない」

2018年5月6日日曜日

3-7:猫と煙草


自転車を置きにアパート地階のガレージに入ったら、見覚えのある子猫が駆け寄って来た。アパートの別の部屋に住む姉弟がどこからか拾ってきて、階段のところで弄んでいた子猫だ。親に拒絶でもされて、ガレージで飼うことにしたのだろう。布を敷いたダンボール箱と牛乳の入った容器がガレージの隅にあった。しかし子猫はダンボール箱の囲いを飛び出して外をうろついている。ガレージの暗がりをこんな小動物がウロチョロしたていたら、早晩、出入りする車に轢かれてオダブツだ。そう思ったので、預かっている旨を書き置きして自分の部屋に連れて上がった。

それ以来猫が居る。猫は初めてではないし二匹目でもないが久しぶりだ。

連れて上がってすぐに生の豚肉を目の前に置いたら、ガツガツ食って喉に詰まらせた。アッと思って軽く背中を叩いたら、目を剥いてゲロッと吐き出し、その吐き出した肉にまた急いで食らいついて、今度は体全体でゴクリと飲み込んだ。「入居」と同時に豚肉で窒息死しかけたわけだが、その後、豚肉がこの猫のソウルフードになっている。数日後、健康診断で近所の獣医に連れて行った時にこの話をしたら、生の豚肉はやるべきではないと云われた。野生の肉食獣が食ってる肉はみんな生だろうと思ったが、寄生虫がどうとか云っていたので、なるほどと思い、それ以降は豚肉は火を通したものしかやってない。生は最初の一度きりだ。

猫の同居で煙草が問題になった。猫自身は別に気にしている様子もないのだが、獣医を含む周囲の人間たちが、煙の害や吸い殻の誤飲だのをとやかく云い出したからだ。できるだけ離れて煙草を吸っていても猫の方から近づいてくるので意味がないし、灰皿の灰をイチイチ始末しなけばならないのも鬱陶しい。どうすべきか、煙草を巻きながら考えていると、イタリア・ベネヴェントの魔女を名乗る、見ず知らずの人物から、イタリア語で書かれた電子メールが届いた。ざっと訳すと、

両立が難しいものをなんとか両立させるような努力は無意味。そんな努力に値するものはこの世界には何一つない。どちらかをアキラメルだけ。客観的にはどっちでもいい。主観的には選択の余地はない。二つのうち、ひとつは生き物で、ひとつはそうじゃない。人間にとって「生き物であること」は無視できない属性。故に答えは初めから出ている。
(ベネヴェントの魔女より)

猫は魔女のシモベらしいから、魔女から「脅迫」メールが来たのだろう。

2018年5月1日火曜日

3-6:機械操人


朝来たら巨大機械の電源を入れて昼まで動かす。昼飯の間は止める。昼飯が済んだらまた電源を入れる。途中、お茶の時間に一瞬だけ止めて、あとは夕方の終業まで動かし続ける。数人で働く。

繁忙期には一人で夜のシフトに入り、夜中から朝まで機械を動かす。お茶の時間は取らないで適当に缶珈琲で煙草を吸う。仕事をしたくないから夜に回る。徹夜シフトには残業がないし、機械を動かす以外の作業もない。

広い工場の反対側では、同じ徹夜シフトの別の部のひとりが、こちらの機械よりも更に巨大な機械を動かしていることもある。言葉を交わすことはない。遠いし、機械がうるさいし、そもそもそんな暇はない。

徹夜シフトで一番ツラい時間帯は、夜明け前の2、3時間。昼間働いて夕方疲れてくる感じとは全く違うツラさで、体が冷え切ってしまう。そのまま死ぬまで体温が下がっていきそうな気配なのだが、不思議なことに日が昇って明るくなると元気が戻る。おそらく、サーカディアン・リズムとなにか関係がある。

それに比べると、いわゆる丑三つ時はむしろ昼間よりも気分がいいほどで、仕事も捗る。夜中に一人で仕事をしていると「出る」とか「見た」とかいう話はどこにでもあり、この工場にもあるのだが、この宇宙がそんな子供騙しでは到底済まされないことを既に知ってしまった身では、そんな楽しい経験はできそうもないし、実際できてない。

缶珈琲を啜りながら一服し、次に機械にやらせる仕事の丁合見本を開いて少し読んでみた。

【次の文を読んで、以下の問いに答えなさい】
人間の意識や知覚についての(A)が或るレベルを超えると、人間の体験の場から(B)は消失してしまう。極つまらない例を一つ挙げるなら、現代的科学知識を持つ者は、雷の鳴るのを聞いても、もはや誰一人として雷神が太鼓を叩き鳴らす姿を思い描くことはないのである。このことは、ちょうど、思春期以降に異性の「見え方」が不可逆的に変わってしまうことと似ている。すなわち、脳内のニューロンの回路状況が決定的に変化することで、それまでは気付けなかった世界体験の「裏側」あるいは「真意」を読み取れるようになるのである。

【問1】(A)に入ると思われる語句を以下から選びなさい。
(1)科学的知見 (2)迷妄性 (3)政治圧力 (4)信仰
【問2】(B)に入ると思われる語句を以下から選びなさい。

最後に挟んであった表紙見本を見た。
「現役合格/個別指導COBE」