「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年5月27日日曜日
4-7:シャワー室/意識
風呂の許可が出たので、洗面器と石鹸を持って病室を出た。風呂と云っても共同のシャワー室だ。風呂付きの個室にいる者だけが自分専用の湯船にゆっくりと浸かることができる。
脱衣所から覗くと、シャワー室はロッカールームに少し似ていた。中折れドアのついた「一人用シャワーボックス」とでも云うべきものが、両側に6台ずつ並んでいる。ドアには半透明の樹脂パネルがはめ込まれているが、中に人がいるかどうかはよく分からない。水の音は聞こえても、その音がどのシャワーボックスから聞こえて、どこからは聞こえて来ないのか、分からないのだ。おそらく間違いないのはドアが開いたままのシャワーボックスで、覗いてみると確かに誰もいなかったので、早速服を脱いでそこに入った。
このシャワーボックスが好い意味で予想外だった。退院後も、これのためだけに通って来ようかと思ったほどだ。一人用なので決して広くはないが、湯の噴出口が壁に十個ほどあって、これが発明なのだ。ふつうのシャワーは標的が頭にしろ肩にしろ背中にしろ、とにかく一方向からの湯を浴びるだけだが、この「極楽シャワーボックス」(敢えてそう呼ぼう)は、複数ある噴出口のおかげで、四方八方から同時に湯を浴びることができる。熱い湯が、それぞれの噴出口から直接、体全体に満遍なく浴びせかけられる。云ってしまえば、洗車機の中と同じなのだが、その間抜けな絵柄とは裏腹に、実にこの上もなく快適なものである。湯船に浸かることなく、しかし湯船に浸かった時と同じように体全体をいっぺんに温めることができる上に、湯船に浸かればどうしても感じる水圧の重苦しさはない。
まさに画期的発明。
そう思いながら、全身に心地よい湯の飛沫を浴びていて、ふと、他の極楽シャワーボックスの中でも、今、それぞれの利用者が自分と同じように感じているに違いないことに気づいた。そして、笑った。この状況が人間の身体と意識の関係そのままだと思ったからだ。
或る一人用の装置の中に閉じ込められた実存に生まれる感覚は、その実存ではなく、その実存を閉じ込める装置の仕組みによって生み出される。シャワーボックスが放出する湯が、中の利用者の感覚を形作るという構図は、身体が放出する伝達物質が、内面の意識の感覚を形成する構図そのものだ。
生き物としての人間に取り立てていうほどの個性などはない。全ては「同じ極楽シャワーボックス」の中の「同じ心地よさ」である。