「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年5月14日月曜日
4-2:夜中に麻酔が切れる
看護婦の予言通り夜中に麻酔が切れた。16時間前、自分の体のどの部分が切り貼りされたのかがそれで初めて実感できた。手術直後に看護婦が「これですよ」と見せてくれた肉片が元は本当に自分の体の一部だったことも、あるいは、手術が、フリではなく実際に行われたことも、それで初めて疑いのないものとなった。
麻酔が切れるまでがあまりにも平穏すぎたのだ。手術のあとがキツイと散々脅されていたので、噂ほどではないとすっかり安心していた。麻酔は有難いものだと思った。同時に恐ろしいものだとも思った。麻酔は傷を癒しているわけではない。傷の存在を隠しているだけなのだ。麻酔があれば両足がもげても何の苦痛もないだろうが、だからと云って、それで命が助かるわけではない。当事者の自覚など死神は問題にしない。麻酔は死神を追い払うのではなく、死神を見えなくするだけのものだ。しかし死神を見えなくするだけなら、大抵の人間が麻酔の助けなど借りずに、無意識と我流で、日々実践している。
事前に習っていた通りに枕元のナースコールボタンを押して痛みを訴えた。間もなく小さな懐中電灯を灯した看護婦がやって来て、病室のドアを音もなく開けた。二人部屋なので部屋の電灯はつけない。丸く太ったシルエットが懐中電灯の細い光で足元を照らしてベッドのそばまで来ると、小声で「痛み止め、飲みますか?」と訊いた。他に何かやりようがあるのかと訊き返したら「ありません」という答え。それなら貰いますと云ったら、看護婦の丸く太ったシルエットが耳元で囁いた。
「痛みは時間と同じですよ。どちらも客観的には実在しませんから。ただの体験。つまり解釈です。主体があって初めて現れるものです。客観的事実だけを見れば、時間は光の移動で、痛みは電気の流れです。ついでに云うと、時空間という云い方は重複表現です。なぜなら、時間も空間も光の移動のことだからです。空間の理解で気をつけて欲しいのは因果の順序です。まず空間があってそこを光が移動するのではありません。光の移動それ自体が空間です。光の移動のない空間は幽霊と同じです。物理的実体がないにもかかわらず、物理的実体と関わることができるなんて不合理の極致ですから。時間と空間は、光の移動という一つの現象を…」
相部屋の患者が咳をしたので看護婦は話をやめて、小豆粒のような痛み止めを二つ、ナース服のポケットから取り出し、ベッドテーブルの上に置いた。