何日か食べ続けた後で、入院食の、この何とも云えない贅沢感はどこから来るのだろうと考えた。合成樹脂のパコパコした器。少し足りない分量。不味いとは云わないが絶賛するほどでもない味。どれも贅沢感よりも情けなさを生み出す要素だ。「自分で作らない」「後片付けをしなくていい」というのは論外。買い食いや外食はその両方が当てはまるが、入院食独特のこの贅沢感はない。
たぶん、毎朝昼晩、時間通りにきっちりとベッドに届けられるから、というのはあるだろうが、それだけでは、この何とも云えない贅沢感は生まれない気がして、あっと気づいた。なるほどそうだ。入院食は、今日、今、食べるものを自分で選んでもいないし、決めてもいない。これだ、と。
一人暮らしが長いと、1日1食だろうと4食だろうと、自分の食べるものは自分で選ぶし、自分で決める。安くあげようと贅沢しようと、どこで何をどんなふうに食べようと、勧められようと誘われようと、今日、今、自分が何を食べるのかを決めるのは常に自分だ。入院食にはそれがない。その決断がない。それがイイのだ。
考えてみれば、今から自分が何を食べることになるのか知らない状態というのは「贅沢」だ。実際、「幸せ」な家庭の子供はみんなそれだ。毎日の献立は親が「勝手」に決める。「不幸」な家庭の子供は、自分が今日、今から食べるもの(あるいは何も食べられないこと)を、いくつかの理由で、常に知っている。
「今日は〇〇をご馳走してくれるんだって?」よりも「今日は何をご馳走してくれるのかな?」の方が贅沢指数は高い。というか「質」からして違う気がする。
ロビーで知り合いになった、病院厨房内の洗い場でアルバイトをしているイギリス人留学生ジェームスに云わせると、決断は情報の処理であり、生物にとって情報を処理しないことはどんな場合でも贅沢らしい。
「洗い場で仕事をしているとよくわかりますよ。残飯は、それぞれの器に食べ残されていた時よりも、バケツにひとまとめにされたほうが明らかに汚らしいですし、実際、混沌さも増します。器を綺麗にするために、バケツの中に今まで以上の混沌を生む。これをエントロピーは全体としては増大したというのですね。この時の器を綺麗にする行為が情報の処理に当たります。生物とは増大したエントロピーを排出し続けることで成立している物理現象ですから、エントロピー増大の元になる情報処理をしないことは贅沢なんです」