「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年5月7日月曜日
3-8:大震災
大型機械がいくつも動いている一階の工場にいたので揺れは感じなかったが、高く積み上げた紙の束が、みんな、ゆらゆらと動いているのを見て、すぐに16年前を思い出した。揺れ方があの時とそっくりだったからだ。この小さな揺れは、耳元の囁きなどではなく、山の向こうの絶叫なのだと直感した。
なみなみと注がれた珈琲カップの縁にある町や村は、カップに加えられた衝撃で中の珈琲がほんの少し波打って縁を掠めるだけで、もう、ヒトタマリもない。
40年前の使い古しの湯沸かし器から、今の人類には消せない火事が起きて、慌てふためいた政府は決死隊を使って上から下から水を撒いたが、結局、湯沸かし器は爆発し、透明の毒を辺り一帯に撒き散らした。毒が広がっていく様子はコンピュータがネット上で24時間描画し続け、地図上をのたうち回るその巨大アメフラシの姿を、誰もが飽きもせず見つめ続けていた。
なんだバカらしいと思って、猫と外に出た。セシウムの雪が空から落ちて来るのを眺めていると、通い猫のコビ(仮名)が来た。コビはうちの猫に大声で挨拶したあとでこう云った。
「科学に欺瞞を持ち込んだムクイさ。科学と欺瞞は両立しない。誤りなら科学にもある。しかし欺瞞はない。科学とは単なる事実だからね。しかし政治や経済はそうではない。政治や経済は本質が欺瞞、詐欺、隠蔽。なぜなら政治や経済は人間の都合の表明と実行に過ぎないから。政治や経済の正直/公開/公正は演出や手段であって目的ではないんだ。それに対して科学はいつでも丸裸だよ。水素と酸素が結合して水ができることには、どんな信念も損得勘定も関わりようがないだろう。好きも嫌いも善も悪も身も蓋もないのが科学さ。なぜなら、科学の原理は人間の幸福や利益とは無関係だから。つまり、科学に欺瞞を持ち込むとは、科学に政治や経済を持ち込むということで、それによってただの自然災害に余計な災厄が上乗せされたわけだね」
それに対してうちの猫が答えた。
「どんな装置でも事故は起きる。破壊された原子炉の暴走は今の人間には止められない。津波の高さも予測できない。こうした事実に対してどうすべきかを前もって決めておくことがあるべき科学の姿だ。原発は事故らない。原子炉の暴走は食い止められる。予測より高い津波は来ない。これらは全て政治や経済が云わせる願望にすぎない。しかし事実の前で願望は無力だよ。物理は人間の都合をオモンパカリはしない」