日に一回、下の階のナースステーションに出向く。お願いしますと声をかけてから、「処置室」と札の出たそばの小部屋で待っていると、後から看護婦が一人来て、患部に化膿止めの軟膏を塗り、ガーゼを張り替える。今日もそのつもりで行った何日目かに、看護婦が無感動に「今日からご自分でやってみましょうか」と云った。退院後もしばらくは化膿止めを塗ったりガーゼを張り替えたりすることになるので、入院患者はみんな前もって練習しておくのだという。看護婦立ち会いのもと、鏡で患部を見ながら自分で軟膏を塗ったりガーゼを貼ったりするのは、非常に間抜けで面白い体験だった。別に難しいことでもないので、練習はその一回きりで、以降はナースステーションには行かず、自室で自分で処置することになった。
「入院してみて気づくのは、医療そのものに感じるアリガタミと、個々の医療従事者たちの医療行為のソッケナサとの落差ではないかね? いや、個々の医師や看護婦が患者に対して薄情だと云っているのではないよ。或る現象の特性と見做せるものが、その現象の構成要素には必ずしも備わっていないことがあるという話さ。部分が集まって全体となったときに、部分にはないものが出現することがある。我々に様々な恩恵をもたらす現代社会は、概ね、無愛想で嫌々の、そうでなくても善意や好意とは全く無関係な個々の労働によって形作られているからね」
見舞いの教授はそう云うと、白杖で丸椅子を探り当て、それに腰を下ろした。
「全体としては確かに存在しているとしか思えない意図や目的や知性は、それぞれの構成要素を調べようと[認識の倍率]を拡大していくに従って消えて行ってしまうのだよ。反対側から喩えるなら、一滴の雨粒かな。雨粒には、川を生み出す意図も、洪水を引き起こす目的も、休日を潰そうと企む知性もないが、現実にそういう現象は起きる。同様に遺伝子には、細胞を作る意図も、生物になる目的も、文明を築く知性もないが、それらは現れる。つまりだね、知性も生命も、正体は[特定の物理現象の繰り返しの量とその偏りの閾値越え]なのだなあ。無愛想な看護婦が集まって温かい医療行為が生まれるのも正にそれさ。あ、そうだ。ついでだから、今日は、頼まれていたこれ、持ってきたよ」
教授はポケットから腕時計を取り出した。しばらく耳に当て、満足げに秒針の音を聞く。時計の修理は教授の昔からの趣味で、それは今も変わらない。