2023年12月21日木曜日

38.5度。しかし、コロナでもインフルでもない

12月12日の火曜日の夕方、フラフラするので熱を測ってみたら38.5度。こりゃ、どっちだ? しかしどっちかだろう、ということで、翌日、近所の発熱外来で検査をしてもらったら、コロナもインフルエンザも共に陰性(コロナは念のためにPCR検査までしてみたが、翌日、陰性の知らせ)。熱冷ましと咳止めと扁桃腺の腫れどめを処方されて、〔鼻の奥+喉〕の痛み(あとで、それは「上咽頭」と呼ばれる部分だと知った)と、始まったら止まらない咳(喘息患者の苦しみがわかったような気がした)による、一種の呼吸困難状態を一週間辛抱した。

一週間の間、体温は、夕方から夜をまたいで明け方まで高くなり、朝から昼かけて低くなる(しかし決して平熱にはならなかったが)という「タチ」の悪さ。つまり、日の出と共に、熱その他の症状が沈静化するせいで、朝になるたびに、病み上がりのような独特の清々しさを錯覚してしまい、「ああ、昨夜は辛かったけど、これで峠は越えたなあ」と騙され続けることになるからだ。

で、発症から一週間経ったが、良くなった気がしない。仮にコロナの偽陰性だったとしても五日もすれば症状は「軽快」しているはずだが、熱は下がらないし、咳も止まらない。それになんだか、昨日から目が充血してきて、ちょっと寝て起きたら目ヤニで目が開かないことも(こんな体験は幼児期以来)。何より、唾を飲むだけで鈍痛が走る喉(上咽頭)の状態が鬱陶しくて仕方がない。症状が悪化してくると、頭蓋骨にある空洞(目、鼻、口、喉)全体で、大規模市街戦が展開しているような有様。ようやく、これは、病気が違うぞ、と思う。

というわけで、行きつけの耳鼻咽喉科クリニックに予約の電話を入れ、電話口で事の次第を説明したら、その時点で看護師に「ああ、アデノですね〜」と言われ、実際の医師の診断もアデノウィルス感染だった。所謂「咽頭結膜熱」別名「プール熱」。子供がよく罹る。

身近に子供はいないし、子供に接する機会もほぼ皆無なので、どこで「拾って」きたのか全く見当がつかないが、さっき少し調べてみたら、全国規模でアデノ大流行中とのこと。全国規模で大流行中なら、そこらじゅうに転がっているのだろう。

処方された薬のおかげか、自己免疫軍がポツダム宣言を出すあたりまで来たおかげかは不明だが、今は、すっかり楽。喉は全く痛くなくなったし、咳もほぼ出ない。鼻も詰まらない。目はまだ赤いので「終戦」とまではいかないが、全体としては、このような記録が書けるほどには回復している。

アデノでいろいろ一週間飛んだ。そして体重は3キロ減った。(2023.12.21記)

2023年12月12日火曜日

【バイコマ】置き去りドローン

公文書館で出てくるドローン軍団は、全滅させなくても一定数破壊すると撤退するのだが(因みにタランチュラだと、爆風に巻き込めるので、たいてい弾丸一発で撃退できる)、前回、ドローン軍団を撤退させ、兵隊も全滅させたのに戦闘終了にならなかった。ずっと変な音もしている。よくよく調べたら、置き去りにされたドローンが一機だけでフラフラ飛んでいた。そいつを破壊したら戦闘終了になった。190周以上回って初めての珍事。

そっくりさん

『日曜美術館』を観ていたら、デザイナーの沖健次という人が出てきて喋った。全然知らない人だったけど、この人にそっくりの顔をした人を昔から知っている、と思った。しかし、昔から知っている人の方を思い出せない。所謂芸能人ではないのは分かっていた。学者か作家か、その辺だろうと思って頑張ってみたが、全然思い出せないので、諦めた。

ちょっと寝てから今起きて、そしたら思い出した。古武術の甲野善紀さん。沖健次という人が、日曜美術館の中で喋っている映像が、この古武術の達人にそっくり。


で、本当に似てるかどうか確認するために甲野善紀のさんの画像を探していたら、くらたま相手に、(いつもの感じの)キワキワな話をしているページを見つけた。いつもの感じで面白かった。


2023年12月11日月曜日

謎の「2355」

昔毎日録画して観ていて、しばらく観なくなって、また最近、NHK+で観るようになったEテレの「2355」で、躓いた。コーナーの合間に入る「2355」の「ジングル」的なものの意味が全くわからない。普通は「2、3、5、5」と順番に「声(ナレーション)」が読み上げるときに映し出されているのは、(わかりにくい場合もあるが)全て、その時読み上げられている「数字」になっている。しかし、先週見たコレ(「声」はピーター・バラカン:元気かな?)はまるで意味不明。何か、「特別な知識」が要るのか?

「2」


「3」


「5」

「5」

「2355」

2023年12月8日金曜日

イチゴの「木星に疑問を持って逮捕される話」(M1の準々決勝ネタ・TVerで観た)が好かった。人間の論理的思考が絡め取られがちな「論理的マヤカシ」をオモシロがるネタ(タイムオーバーしてたみたいだけど)。

2023年12月7日木曜日

【バイコマ】アタマの帰還

次の周で確認したら、アタマが戻ってた。



★『ジェン・ブイ』(『THE BOYS』スピンオフ)シーズン1全8エピソード/2023年12月7日/最終話の最後に、英語はもちろん配信されている国の言語のエンドロールが流れた(勿論、日本語版も)のが、一番「今どきだなあ」と思った。『Bionic Commando』のようなゲームでは、販売されている各国版のスタッフなどが、すべて英語で表記されているけど、『ジェン・ブイ』はそれぞれの国の言語で表記されているところが違う。


▼最後の最後に、ホームランダーとブッチャーが登場した。


2023年12月3日日曜日

2023年12月2日土曜日

『所さん事件ですよ/外来生物』:メモ

▼チガヤ:日本古来の植物。鳥取砂丘で、砂丘の草原化を引き起こしている。①砂丘の砂から街を守るために人間が保安林を作った。②景観を良くするために保安林を伐採した。③保安林の根本に繁茂していたチガヤが砂丘に進出した。

▼カダヤシ:メダカそっくりの北米産の繁殖力旺盛な淡水魚。奈良の興福寺の池で大量発生。①奈良の興福寺が戦後、「放生会(ほうじょうえ)」を始めた。殺生を戒める目的で、池に金魚を放す行事。②他の魚も池に放していいと考えた誰かが、ペットのカダヤシを放した(というか捨てた)。③事態を憂慮した興福寺は3年前から放生会を中止。

▼キョン:中国産の小さめの鹿。千葉県の動物園から逃げ出して大繁殖。現在は推定7万頭。年間5000頭を駆除している。中国や台湾では希少生物として保護されている。彼の地では珍味として消費されている(だから数が減ったのだろう)。

▼ワカメ:オーストラリアの海岸で大量発生して、現地の魚の餌になっていた、現地の海藻を駆逐している。タンカーの「バラスト水」に紛れて、オーストラリアにやってきたと考えられている。バラスト水とは、バランスを保つためにタンカーに積み込む海水のこと。出発地で取り込み、到着地で放出するので、そこにワカメの胞子が紛れ込んでいたら、遠征「種まき」をしているようもの。

(穴)いずれにせよ、外来生物という概念を作り、外来生物を大事件にして大騒ぎしているのが、地球最凶の外来生物であるホモ・サピエンスであるという事実が、「外来生物番組」最大の嘲笑いどころ。

2023年11月30日木曜日

【バイコマ】アタマの行方

バイオニックアームを取り戻して最初にぶっ飛ばしたやつのアタマが大変なことになっていることに、190周目で気づいた。



2023年11月29日水曜日

『メイズ・ランナー』:スルー・メモ

『メイズ・ランナー』

観始めて5分くらいで、主人公が、「入るな」と言われている迷路に入ろうとして、無理やり止められ、その直後に迷路が動き出した。ここで観るのやめた。主人公の行動が、アカラサマに「物語演出のための行動」だったから。

〔自分の名前も思い出せない状態で、どこに居るのかもわからないときには、周りにいる「事情をよく知ってるふうの人たち」の「親切な助言」には、とりあえず従っておく〕というのが、人間の心のリアルな動き。

例えば、どこかの巨大工場に見学に来ているときに、現場の工場労働者から「危ないから、そこには入るな」と言われれば、そこには入らないし、入りたくないのが、普通の振る舞い。

あと、「入るな」と言って止める側が、「もうすぐ壁が動き出して押しつぶされるから」というような具体的な説明を全くしないのも、(映画とかではよくあるけど)やっぱり現実に考えるとわざとらしい。

ああこのレベルか、以降も、この感じが続くんだろうと思って、なら、もういいや、と判断し、観るのをやめた。


2023年11月28日火曜日

『シャイニング』:メモ

 ◯『シャイニング』(字幕版)2023年11月28日/Prime Video/4周目くらいか?/久しぶりにまた観た。「今までに何回も観てるのに、ネットで或る解説動画を観たら怖くて仕方がなくなった」という話をどこかの誰かがネット動画上でしているのを見て、興味が再燃したのだ。ちなみに、その「解説動画」は見てない。誰のどんなのかも知らない。


で、今回気づいた。この映画は、ホテルに取り憑いた死霊たちが、訪れた人間を「仲間」に引き入れていくホラーの「フリ」をしてみせているけど、「正体」はコメディ。輒ち、霊が見えるとか未来が見えるとか言い続ける神経疾患気味(発達障害?)の「鬱陶しい」子供と、その子供のことが「第一」で何かと予定を狂わせるメンヘラな妻に対して、遂にブチギレてしまった作家志望の夫が巻き起こす悲喜劇。劇中で、ジャックがウェンディに向かって捲し立てているセリフを聞くと、それがわかる。ジャックは、この「めんどくさい」妻と「めんどくさい」子供に、ずっと、自身の夢の実現の「邪魔」をされてきたと思っているのだ。この物語の〔心臓=エンジン〕はこれ。


しかし、そのままだと、(クリエイター以外には)共感を得られないし、読んでも観てももらえないので、「ホテルの死霊たちに取り憑かれたせいで、殺人鬼になった」ということにしている。


でも本当は違う。


「面倒くさい・足手まとい」の妻子にうんざりしたクリエイター(志望)の男が、限界に達して、暴れてまわって、自滅しているだけ。ダニーが見るビジョンも、ジャックが話をする死霊たちも、最後にウェンディが見るビジョンも、実は彼ら自身に原因がある。そもそもあの一家は全員「そういう系」ということ。ホテルは関係ない。なぜ、ウェンディの見た目が、ああいう「ムンクの叫び」みたいなのか謎だったけど、今回合点がいった。三人共に「やばい」ということ。「やばい」二人の間にできた子供(ダニー)は、二人に輪をかけて「やばい」。所謂、劣勢遺伝(今風に言えば、潜性遺伝)の発現?


以上のことに気づくと、もう、只々、ジャックが気の毒なだけの映画。ホラーでもなんでもない(別の意味ではホラーだけど)。有名な「血の洪水」や「双子」も、キューブリックお得意の「単なる」アート表現にしか見えなくなる。もう、何一つ怖くなくなってしまったが、逆に、前よりも好きな映画になった。

2023年11月26日日曜日

『THE BOYS』:メモ

ふつうの男たちが、調子に乗った性悪のスーパーヒーローたちを殺す話で、例えば、ダイヤモンドのように堅い皮ふを持つスーパーヒーローのケツの穴にプラスチック爆弾を突っこんでバラバラに吹き飛ばす――という説明をどこかで読んで、俄然興味が沸き、今更観始めた『THE BOYS』だが、パンクなノリが気に入った(流れる曲も好い)。オモシロい!

第1話を観てすぐに、「元FBIのキャラ(ブッチャー?)って、引退したセブンのメンバーのグリーンランタン...じゃなくてランプライター(?)でしょ?」と直観した。

で、とりあえず、「無事に」プラスチック爆弾も炸裂し、ハイジャックの件で、スーパーマン(ホームランダー?)のサイコパスぶりがハッキリしめされた所まで観て、グリーンランタンは、ワンダーウーマン(メーベル?)と寝たことがスーパーマンに「バレた」ので、「引退」したのだろうと「確信」した。

でもそうなると、フレンチの告白(最初の「スーパーヒーロー殺し」は11年前)と合わなくなる。じゃあ、グリーンランタンも、ブッチャーたちに始末されただけなのかな? 

【追記】ブッチャーとフレンチは、やってることと雰囲気は、もうどっからどう見ても「貧乏なバットマンとロビン」なので、それも気に入ってる。昔、クリストファー・ノーランの『ダークナイト・ライジング』を観たとき、バットマンの「コスプレ」が完全にジャマだと思ったけど、今回の『THE BOYS』を見て、その見解は正しかったと確信したね。バットマンの格好は、ティム・バートン版くらいの「とぼけたファンタジー」ならちょうどいいけど、ノーラン版くらい「真面目で深刻」なノリになると、もう滑稽。逆に言えば、バットマンをふつうの格好の「ガジェットおやじ探偵」にしたらきっとオモシロイと思っていた。やっぱりオモシロかった。

第六話くらいにから出てきた、他人の心を読むメズマーって、どっかで観たことをあると思ってすぐに気づいた。『シックス・センス』のあの子やん! ハーレイ・オスメント? こんな仕上がり!?

【追記2】(2023年11月17日)「シーズン1」を全話観た。最初の直感は全然当たってなかったけど、面白かったから問題ないよ。キャラクターの人物造形が複雑で好い。

【追記3】(2023年11月23日)第2シーズンを観終えた。
Stormfrontは、「宣伝(SNS等)で大衆を扇動」「ゴリゴリの人種差別主義者」「人体実験の推進」と、わかりやすい「ナチス・ドイツの亡霊」感だったけど、話が進むと、全くその通りだった。一時、アメリカの一部市民たち(ジョン・フォードとか、リンドバーグとか)にも熱烈に支持されたという点も、本物のナチスドイツと同じ。
ライアンは、きっと子供の頃の「孫悟飯」的な存在+展開になると思ったら、やっぱりなった。Stormfront、ご愁傷さま。
回を追うごとに、Homelanderが好きになっている自分に気づく。とにかく、登場人物が、超人一般人の隔てなく、全員がメンヘラ。特にHomelanderは、その圧倒的超人能力故に、「普通の人間が超人能力を持つと心が保たない」ことの最悪の「症例」になっていて面白い。第二シーズンの最終話の最後の場面で彼があんな事になったのも、心を寄せた女が実はナチの残党で、しかも、自分のレーザーも「平気」だったその女を、実の息子(ライアン)が、黒焦げの再起不能に陥れているという現実に直面したから。「最愛のヒト」をこんな目に合わせたのが、唯一の血縁(愛してもらいたくて仕方がない)だから、いつもの(怒りに任せた)仕返しもできない。それは、或る種の「八方塞がりな屈辱感・無力感」。「俺は何でもできる〜!」と月に向かって絶叫したくもなるだろう。
▼「アタマがポン!」は、超能力モノの古典『スキャナーズ』への敬意でしょうなあ。


【追記4】(2023年11月26日)第3シーズンを観終えた。
▼ソルジャーボーイ(キャプテン・アメリカ)の血の繋がりなど全く気にしないキャラが好い。作り手の「そんなソルジャーボーイと比べたら、家族を求めるホームランダーの方がまだまし」感が出ていて、笑った。
▼ブッチャーとホームランダーが表裏の関係にあるのはわかっていたけど、時効性Vで得た能力(目から出るレーザー/色違い)が同じなので、やっぱり、と確信した。
▼マインドストーム(だっけ?)の能力の「おかげ」で、ブッチャーは自身の「トラウマ」と正面から向き合うことができた。
▼ブラックノアール退場(ホームランダーに殺された)。ブラックノアールがずっとマスクを付けていたのは、ウォーズマン的な理由だとわかっていたけど、あの可愛いアニメのおかげで、それがソルジャーボーイによる「暴行」だと言うことはわかった。あと喋れないのは、その暴行で脳に損傷を受けたからというのもわかった。要するに、ソルジャーボーイって、ホームランダー以上のサイコパス。というか、ブッチャーの親父の「系譜」。ちなみにブッチャーの親父の「系譜」は、ブッチャー、ホームランダー、ソルジャーボーイ。
▼クイーン・メイブ退場(ソルジャーボーイとの相討ちという偽装。死んではいない。密かに引退。ただし、ソルジャーボーイの「核爆発」に巻き込まれた、スーパーヒーローとしての能力は失ったので、ホームランダーに親指で潰された右目は失った)。
▼2024年に第4シーズンが配信されるらしいけど、ブッチャーは余命一年宣告を受けてるし、ホームランダーは公衆の面前で一般市民をレーザーで惨殺したのに、支持者に「歓喜」を持って受け入れられてるし(まさに、トランプとトランプ支持者だよね)、なかなか、厳しい物語づくりになると思うけど、どうなんだ?

【3シーズンを通しての印象】
とにかく、人間と人間社会のあらゆる問題が暗喩も含めて盛り込まれていて素晴らしい。更に、どんな作品も「性的おもちゃ」や「政治的おもちゃ」にしてしまう現代のSNS社会がやりそうなことを、作品の中で全て先にやってしまっている点も痛快。所謂、「リアル路線アメコミ・ヒーロー」モノは、『THE BOYS』で究極に到達したという印象。もうあとは何を作っても、『THE BOYS』の簡易版や劣化版や譲歩版にしかならないだろう。
▼あと、『THE BOYS』を世に生み出したことだけでも、Amazon Primeには存在した価値があったと言える。

2023年11月23日木曜日

将棋や囲碁で人間が機械(computer/AI)に歯が立たないのは、もう、子供でも知っていることだけど、世界大会なんかで変に盛り上がっている、所謂「格闘ゲーム」も、本当は機械が最強なんだよね? プレイヤーが「不愉快」にならないように、メーカーが手加減(調整)しているだけで?

もはや、チェス・囲碁・将棋の人間の世界チャンピオンは、実は全員「マイナーリーグ・チャンピオン」で、ビデオゲームの世界チャンピオンは(当事者全員がしらばっくれてるだけで)「最初からずっと」そう。いずれオリンピックの金メダリストも同じ「憂き目」に遭うことになるのだろうが、だが、それでいい。人間の「役割」はそこではないし、人間の存在理由もそれではないのだから。

2023年11月21日火曜日

【Twin Peaks】ヒロユキを見るたびに、「ポーンの中で殺されていた若者(Rusty Tomasky)」を思い出す。

2023年11月19日日曜日

「名探偵津田」前後編を堪能した。

津田の「好さ」は、嫌だとか面倒くさいという気持ちを全く隠すことなく、しかし、「事件」に関して何か気づいたり思い出したり、あるいは事件に展開があったときに、素直に驚いたり喜んだりする点。

「ふつう」の探偵ドラマは、実は探偵自身も事件の展開や真相についてすべて知った上で、〈ただ〉演技をしているだけなのだが、津田探偵は、その都度、〈実際に〉驚いたりボヤいたりしている、その表情(感情表現)が、我々を愉しませてくれるという仕組み。ちょっとした「発明」だと思う。

勿論、今は亡き『笑ってはいけない』の系譜なのはその通り。

2023年11月13日月曜日

生涯、『ガンダム』がどーこー言ってるのと、漱石の『こころ』をどーこー言ってるのには、何の違いもないよ。

2023年11月11日土曜日

『笑わない数学・第2シーズン/超越数』:メモ

『笑わない数学』第2シーズンを愉しく観ている。Thank you、 尾形。今回の「超越数」。なにより名前が好い。超越数。英語で言えば「transcendental number 」?  しらんけど。

ただ、毎度、細かいことが気になる性格で、今回も一点、どうしても「許せない」部分があったので記録しておく。

それは番組中に二度出てきた、「集合」風の図。

1つ目のこれが出たときに、まず、ちょっとモヤモヤした。


というのも、「超越数とは、代数的数ではない数のこと」という説明があったのに、この図だと、なんとなく、代数的数は超越数に含まれる「超越数の中の特殊な数」のように見えてしまうからだ。高校数学(多分)の「集合」的に言うと、実際の超越数は代数的数の「補集合」のはずなのに、この図からは、代数的数が超越数の「部分集合」のような印象を受ける。

この違和感が伝わりにくいのは数学用語なんか使ってるから。「数全体」を「人間」、「超越数」を「女」、「代数的数」を「男」に置き換えて言い直せば、途端にわかりやすくなる。それで言うと、上の図はまるで、「人類は全体として女であるが、女の一部は男である(男は女の一種である)」ことを表しているように見えてしまい、どうしても「全体としての人類は、女と男の二種類がある」というふうには見えない。という話。

「でも、それは、こちらの受け取り方がダメなのであって、ちゃんと色分けもしてあるし、息を止めて見れば、代数的数ではないものが超越数だというふうに読み取ることもできる。πも弾かれてるしね」と、思い直し、更に番組を観続けると、しばらくあとに第2の図が現れて、堪りかねて一時停止ボタンを押した。

第2の図。



なんか、嫌。すごく嫌。さっきと同じ構図で、今回の図は、〔「周期」は「超越数」の「部分集合」である(「周期」は「超越数」の一種である)〕と言っている。第1の図で「代数的数」だったところが、第2の図では「周期」になっているだけなのに、さっきと言ってることが違っている。つまり、第1の図は〔「代数的数」は「超越数」ではありません〕の意味で、第2の図は〔「周期」は「超越数」です〕の意味。色分けで「含まれる/含まれない」を区別してるんだろうけど、モヤモヤどころか、イライラして仕方がない。

では、どうすれば、このイライラを解消できるかを考えて、「形」を変えればいいんじゃないかな、と思いついた。


自分的には、この方が、随分、マシな気分。あと、自分で図を描いてみて気づいたけど、第2の図のように、「周期」の「中」に「代数的数」を描きこむのは、いずれにせよ全然オハナシにならないと思った。




2023年11月10日金曜日

THE HIGH-LOWSは、まど・みちおだと思って聴いてます。

2023年11月8日水曜日

▼無律法主義:Antinomian:無律法的――新約聖書の中でイエスが「与えられたルールを全て捨てなさい。代わりに一つの指示を与えよう。輒ち、お互いを愛しなさい」的なことを言っている。これが、専門家や専門性に対する反発の「根拠」になっている。

▼「理性の穴埋め問題」」――西洋の理性に対する行き詰まりを、「西洋が想像した東洋思想」で穴埋めしようとすること

▼「キャンセルカルチャー」――過去の「汚点」「過ち」をネット上で探し出してきて、当該の人物の社会的に抹殺する風潮。

▼「ネオ・ヴィクトリアン」――19世紀のイギリスのヴィクトリア朝時代の人々のように、公共の場では本音を隠して建前だけで生きる〔21世紀の「若者たち」〕のこと。

(ジョセフ・ヒース:「反逆の神話」「啓蒙思想2.0」などの著者)

(Eテレ「日本サブカルチャー史」スピンオフ)

「続編」は大抵の場合、単なる「キャラ萌え」作品。見るに堪えない。

人間の知性現象にとって、自身の身体すらも、日々便所に流される糞と変わらない。もう少し上品な物言いをするなら、知性現象にとって、〔生まれ・老い・死んでいく〕身体は、単なる「消費財」ということ。

序に言うと、知性現象にとっての「耐久財」とは、所謂「後世に残るもの」。輒ち、芸術であり、思想であり、科学であり、技術である。大きく言えば、文明である。

2023年11月4日土曜日

「おかず」が旨けりゃ「米」の味は気にならない岡田斗司夫

岡田斗司夫との付き合いは、「コロナ(covid-19)禍」の期間と同じになった。『コナン』の解説動画きっかけで観始めて、「最悪な平和とまだマシな戦争」発言で実質的に見限り、その後少しして、完全に「卒業」した。それ以降、全く視聴してない。その代わり、というわけでもないが、今は『山田玲司のヤングサンデー』を有料視聴している。

――もう少し詳しく

パンデミックで『キングダム』のアニメ制作がにっちもさっちも行かなくなったNHKが、倉庫の奥から『未来少年コナン』を引っ張り出してきて穴埋め放送したお陰で、数十年ぶりに『コナン』を目にすることになり、(いかにも今どきなことだが)それで、岡田斗司夫の解説動画に引っかかったという流れ。

最初に動画を見たときには、「この人が、数年前に『アオイホノオ』で濱田岳が演じていた『岡田斗司夫です〜♪』本人かあ」というくらいにしか、「全く知らない人」だったのだが、その後の約3年間の有料視聴で「だいたい分かったから、もういいや」となった。

――更に詳しく

岡田斗司夫が面白がる作品を「弁当」に喩えると、「確かにおかずはいろいろで美味いけど、とにかくどれも米が美味くない」というのが、一番ぴったりな表現になると思う。岡田斗司夫は不味い「米」が好きなのではなく、「米」の美味い不味いがよく分からない(気にならない)のだ。

ここでの「おかず」は、「新しい知識」や「物語の世界設定・SF設定」や「表現技法」や「時代背景」や「創作秘話」など。「米」は、「文章の美しさや気持ちよさ」とか「登場人物たちの心の描かれ方の深さや複雑さ」、要するにもっとずっと普遍的な要素。

岡田斗司夫が高く評価する「作品」にいくつか接してみれば、とにかく「米」に相当するものに対する評価が、「素通り」か「凡庸と言っていいほど甘くて幼稚」なことに気づく。だから、例えば、彼が強く推すSF小説などを試しに読んでみても、「設定は面白いが、物語は退屈」という感想になる。「わざわざ拙い小説に仕立てなくても、直に設定資料集で読ませてくれればいいよ」という感想になる。

――「卒業」の決め手になったこと

去年かそこらに岡田斗司夫が「激賞」していた『コーダ あいのうた』を自分でも観たとき、岡田斗司夫のサイコパスがただの「自称」ではなく「本物」であることを確信した。

岡田斗司夫は「安い感動」にしか感動できない人のことをよくバカにしているけど、あの映画を観て、「最後の2分間に訳の分からない感動を覚え」、「今年一番」「歴代二位の高得点」と褒めちぎるような60過ぎのおっさんが、「24時間テレビで安い感動をしている人」をバカにしちゃいけない。

ただし、もしかしたら、岡田斗司夫が体験した「訳の分からない感動」は、本当の感動というより、もう少し「手の込んだ」、或る種の「メタ感動」だった可能性もある。

つまりこうだ。

『コーダ あいのうた』の劇中で、娘(主人公)の歌の発表会に出席した父親(耳が聞こえない)が、自分は娘の歌は全く聞こえないのだけれど、周囲の観客が涙を流したり喜んだりしているのを目にして、自分の娘の歌の価値(娘が歌を歌うことの価値)に気付く場面がある。その場面と、感情移入が得意ではない(輒ちサイコパスな)岡田斗司夫が、映画館で、周りの観客が映画の観て泣いているのを目にして、この映画の価値に気づく状況とが、岡田斗司夫の中で「同じ」になったんじゃないかな? つまり、「劇中で父親に起きたことが、現実の自分の身にも今起きている!」と。それがあって「訳の分からない感動」を覚えたんじゃないのか?

しらんけど。

――岡田斗司夫ゼミの面白さについて

岡田斗司夫ゼミを視聴する面白さは2つあって、一つは、いわゆるオタク的な情報を聴く面白さ。要するに、今はなき「タモリ倶楽部」で、様々な分野のオタクが出てきて、愚にもつかない知識を喜々として披露しているときのアレ。もう一つは、サイコパス(感情移入が苦手)な岡田斗司夫の「人の心の機微の分からなさ」の面白さ。知能は高いのに、人の心の機微がわからないばっかりに、キャラクター分析や物語展開の理解が「大暴投」になる面白さ。それは、耳の聞こえない人の音楽解説のような面白さ。

例えば、「サイコパスの人生相談」の「独自性=キモ」はまさにこれで、要は、相談者と岡田斗司夫の「スレ違い」。弁当の喩えを使うなら、弁当の米が不味くて困っている相談者に対して、米は食わずにおかずだけ食べればいいでしょと答えてしまうのが岡田斗司夫。米なしでおかずだけを食べる味気なさや物足りなさに全く気づけない人間だけが「じゃあ、おかずだけ食べとけばいいでしょ」と平気で言える。でも、これでは、相談者の相談を答えたことにはなってない。岡田斗司夫当人にそのつもりはなくても、実際には「逸して」いるだけ。つまりは、一休さんの「とんち」と変わらない(だから、サイコパスの人生相談は面白いとも言える)。

――最後に

岡田斗司夫は『ガンダム』で何を学んだのだろう? 何を観ていたのか? サイコパスの「物語(映画・アニメ・小説)鑑賞者」は、耳の聞こえない音楽鑑賞者のようなものなのだということを、岡田斗司夫との3年間で学ばせてもらった。それで言えば、『コーダ・あいのうた』に対する、岡田斗司夫の頓珍漢な高評価が、岡田斗司夫卒業の決定打になったことは、なにやら意味深い。

ありがとう、岡田斗司夫。そして、さようなら。

2023年11月1日水曜日

5代目コントローラ。大変結構です。

▼5代目のPS3用(というか、Bionic Commando用)コントローラとして採用したHORIPAD(PS4/PS3兼用機)が素晴らしい。照準合わせが、これまでになく繊細にできて素晴らしい。左スティックと十字ボタンの位置が入れ替わっているのがどうかと思ったが、左手の親指(スティック)・人差し指(L1)・中指(L2)がコンパクトにまとまる感じも好い(但し、十字ボタン下のクイックターンがやりにくくなった。まあ、慣れだけど)。移動用の右スティックもヌルンヌルン反応してよろしい。

▼startボタンとselectボタンが見当たらないので、最初面食らったが、optionボタンとshareボタンが、それぞれに対応していた。これは多分、PS4がそういう仕様なのだろう。しらんけど。(PS4は持ってない)。

▼そうそう。最初、接続したら、スティックは反応するのに、それ以外のボタンが全て無反応だったので、不良品か!と思ったけど、何のことはない切り替えスイッチを「4」から「3」にすればいいだけだった。それについての注意書きステッカーを、メーカーがちゃんと、本体の目立つところに貼ってくれているのに、当方、そういうのすら見ないから。説明書とかも基本的に見ないから。これって、Jobs(Apple)の「薫陶」の「おかげ」。悪い癖。

2023年10月31日火曜日

【ガンダム】第21話「激闘は憎しみ深く」:号泣の謎

▼2023年10月31日

主要キャラたちがリュウの死に号泣する場面は、やや大げさで、取ってつけたように感じるが、あれは、彼ら少年たちの「一大転機」だから、あのわざとらしさになっている。つまり、それまでは(ブライトですら薄っすらと)「面倒に巻き込まれた被害者」の意識で、なんとか、大人たちのいる場所まで「逃げ切ろう」としていただけの少年たちが、リュウの死(リュウの死に方も重要。彼は「特攻」で死んでいる)をキッカケに、戦争を終わらせるために、自ら積極的に戦争をすることを覚悟した(腹をくくった)ということを、視聴者にはっきりと示す必要があったのだ。


というのも、もしもこの「一大転機」がないと、「オデッサ」に着いた途端に、少年たちは、そこにいる連邦軍の大人たち(軍人たち)に、ホワイトベースを「明け渡し」てしまうことになるから(僕らはもうやらないと言い出す)。だって、そもそも彼らは「勝手に襲いかかってくる敵から、ただ逃げていただけ」なのだから。「オデッサ作戦」は「正式」な戦争で、それまで少年たちがやってきた「逃避行」とは全く違う。少年たちに「戦争をする覚悟」がないなら、『ガンダム』のお話は、オデッサに着いた時点でオシマイ。


因みに、あの号泣にカイは参加してない(あの場所にはいるけど)。カイが「本気で戦争する覚悟」をするのはミハルが死んだ時。カイは、アムロ、ブライト、セイラ、ハヤトたちよりも、IQが高い印象のキャラなので、彼を「覚悟させる」には、もうひと押し要るということ。

2023年10月30日月曜日

結局、カラオケの精密採点で高得点を取るのって「曲芸」の類いだと思うなあ

『私のバカせまい史』は時々「!」というのをやる。

今回、霜降り明星のせいやが、テレビのカラオケ番組についてプレゼンをやった。輒ち、昔のカラオケ番組は芸能人がただ愉しく歌を歌うだけだったのに、最近のカラオケ番組は、カラオケ・マシンに採点機能が導入されたこともあって、「そのうち死人が出てもおかしくない」くらい緊張感に溢れたシビアな番組になっている。それは良くない、という主旨。

で、プレゼンの締めに、せいや自身が、カラオケの採点なんか全く気にせず、自分の好きな歌を好きなように歌ったのだが、あれで「!」となった。

というのは、せいやがスタジオ内を歩き回りながら熱唱している間中、テレビ画面の下側に例のカラオケの精密採点グラフ(?)が表示されていて、当然、せいやの歌唱はグラフを外しまくっていたのだが、にも関わらず、せいやの歌は「聴いててとても心地好かった・気分よく聴けた」からだ。

自分も含め、あれを観た(聴いた)多くの視聴者は、(うすうすは感じていた)カラオケの精密採点グラフというものの「醜さ」「趣味の悪さ」「無粋さ」をはっきりと自覚した。何より、歌を歌うこと、歌を愉しむこと、あるいは、好い歌唱にとって、あのグラフを「なぞる」ことになど「何の意味もない」ということを、実感し、確信したはずだ。ありがとう、せいや。


追記1:などと書いている私は、生まれて此の方、カラオケに興味を持ったことは一度もないし、カラオケで歌ったことも、これから歌うことも、いつか歌いたいと思うこともない。

追記2:『バナナサンド』の「ハモリ我慢ゲーム」は大好きで、あのゲームでは、「精密採点グラフ」が、挑戦者が盛大に音程を外しまくっている様子をわかりやすく見せてくれるので、何が何でもカラオケの「精密採点」が駄目だと言ってるわけではないよ。

2023年10月28日土曜日

絶妙な旨さの「花コスモス」

好物の「花コスモス」をアテに珈琲を飲んでいたら、パッケージの裏に印刷されている「謳い文句」がおかしいことに気づいた。以下がその写真。


おかしいのは最後の二行。「そのイメージ胡麻のクッキーコスモスピンクのチョコサンドした自然派の焼き菓子に仕上げました」とある。すると、図の①のようになるはずだが、実際の「花コスモス」の「構造」は図の②である。


結構な枚数食べてきたが、今のところサンドされているはずの「イメージ」にはお目にかかってない。「謳い文句」を「そのイメージ胡麻のクッキーコスモスピンクのチョコサンドした自然派の焼き菓子に仕上げました」(つまり「そのイメージを焼き菓子にした」という文章にする)とすれば、パッケージを新しくする手間とお金はかかるだろうけど、工場を改修したり、「イメージ」の材料を新たに作ったり仕入れたりするよりは安く上がるはずだ。

いや、そのままでもいいんだけど、ちょっと気づいたから。

遠軽名物「花コスモス」。「白い恋人」より「花コスモス」


2023年10月27日金曜日

ハヤシライスなんてカレーライスの代用品だと、ずっと思ってきたけど、「国技館ハヤシ」と出会って、その考えを改めた。「一番強い格闘技はどれだ?」問題に対する回答と同じで、ハヤシよりカレーが旨いのではなく、旨いカレーが旨くないハヤシよりも旨いだけ。だから、旨いハヤシは、旨くないカレーよりも、当然、旨いのだ。そして、「国技館ハヤシ」は「身内」の「国技館カレー」よりも旨い。それどころか、大抵のレトルトカレーよりも旨い「ツワモノ」。変な表現だが、「国技館ハヤシ」は、ハヤシライスとは思えない旨さで、すっかりやみつき。

安物買いの「4号機」で酷い目に遭う

185周目は、400円で買ったコントローラ4号機(定価1200円・日本製)を試して、酷い目に遭った。安いには理由がある。

色々不満だが、何より、複数のボタンを同時に押すとレバー(スティック)の反応が急に雑になって、細かいコントロールが出来なくなる(同時押しをしなければ、割となめらかなのに、なんだこれ?)。「ダイハード」戦、「オオミミズ」戦、「八艘飛び」戦では致命的。つまり、照準ボタン(R2)を押した状態とか、車やオスプレイを掴んだ状態(L2)で、視点(カメラ)を動かそうとすると、視界が暴れて、てっきりスペンサーが発狂したのかと思った

あと、総じてボタンの戻りが遅いので、例えば、銃の連射(手動)が勝手に途切れて(本当は違うのに、ジャムった!と思って)、怖い思いをする。

突然、「コントローラーを差してください」的な表示が出たことも、二度ほどあった。要するに、勝手に「切断」されてしまうのだ。

これなら、使い込んであちこちボンヤリしてしまった3号機(HORI製)の方がまだ全然マシ。やっぱりHORI製がいいなあ。しかし、製産終了したのか、Amazonで1万円超え。たじろぐ。他はどれもこれも、正体不明の中国製。困ったね。

追記:よくよく調べたら、PS4用のコントローラがPS3でも使えることが分かった。そして、HORI製のPS4用(PS3兼用)コントローラがちゃんとあって、価格も常識的な4000円だったので早速注文した。

2023年10月25日水曜日

【memo】レコーディング・スト:1940年頃のアメリカで、演奏家たちがレコードやラジオに危機感を覚えて、約2年間、スト(録音拒否)をした。そのため、その期間のアメリカのレコードは極めて少ない。

(デイジー・ホリディ)

『ダンバイン』のガラリアは、のちの『∀ガンダム』の「泣き虫ポォ」。そもそも、『∀』は、『ガンダム』『イデオン』『ダンバイン』(あと、『海のトリトン』も)を「具材」にした「カルピスこども劇場」。

『シン・仮面ライダー』2周目:メモ

録画してほったらかしにしていたメイキングドキュメンタリー番組(NHK)をこの前やっと観たので、もう一周してみる気になった。番組内で登場した殺陣が、やっぱり、本編ではほぼ何も使われていなかったのには(申し訳ないけど)「笑った」。あと、喋りすぎ(説明ゼリフ多すぎ)と思ってたけど、元々の『仮面ライダー』も、敵味方問わず、登場人物たちの「独り言」が多かったから、これはこれでいいのだ、と気づいた。前にも書いたけど、これは庵野が「清書」した「だけ」の『仮面ライダー』なのだから。

2023年10月23日月曜日

【memo】運動誘発盲(うんどうゆうはつもう)

(Eテレ「2355」)
【memo】1998年、数学者エリック・ディメインは、或るルールで紙を折りたためば、ハサミを一回入れるだけで、どんな多角形でも切り出せることを証明した。

(Eテレ「2355」)

【memo】「けとばし」:「馬肉」の俗称。

「あとで、けとばしにしてみんなで食べたんですか?」(厩火事/桃月庵白酒)

【memo】「ウエスケ」:「ウィスキー」のこと

【memo】河豚計画

日本政府が、ユダヤ難民を満州に受け入れようとした計画。旨味も大きいが、一歩間違うと取り返しにつかないことになるので「河豚計画」。日独伊の三国同盟が成立したために、この計画が実行されることはなかった。

(NHK 『映像の世紀・バタフライエフェクト/満州』)
『CHEF-1 グランプリ 2023』を愉しく観た。料理云々より、まず、バラエティー番組として愉しかった。

GACKTがいきなり、あんな点数をつけ、あんなことを言ったお陰で、それ以降、他の三人の採点が「自由」になった気がする。去年と一昨年は観てないので、本当のところは知らないけれど、GACKTが一発目につけた点数に、みんなが「!」となっていたので、去年や一昨年は、今年のGACKTのような採点をする人がいなかったのかもしれない。

しかし、GACKTの言ってることは至極最もで、全員が「そりゃそうだ」となったからこそ、それ以降の「勝負の展開」が変わった。気がする。つまり、美味しくても「革命」がなけりゃどうしようもない、と。しかし、そのせいで「革命」という言葉が、自分の中で「おもしろワード」になってしまった(いや、「革命」は元からおもしろワードだ!)。

もう一つ。意識してやっているのか、自然にそうなってしまうのかは知らないが、最初に最低点を与えて「殴り倒し」、最後に最高点を与えて「抱擁」する、GACKTの「人たらし」ぶりにも感心した。

「お茶ラーメン」はきっと商品化されるだろうから、そのときはぜひ食べてみたい。

2023年10月22日日曜日

庵野秀明は「書家」だよ。書家は文字を書くし、文字を書きたい。でも、自前の「書くべき中身」は、あまり持ち合わせてないので、他人の書いた詩や文章を書く。この場合、庵野にとっての「文字」は、「映像(動画)」。

2023年10月21日土曜日

殺陣とリアル

録画したままずっと放置してあった、『シン・仮面ライダー』のメイキング番組(NHK)を、さっき、やっと観た。うっかり、「本編よりも面白いなあ」と思ってしまった。「あんなに苦労して、飛んだりはねたりしたのに、全然使われてないやん」と。一周で充分かな、と思ってたけど、あの「使われてなさ」(と池松壮亮君の苦労)が面白くて(気の毒で)、本編をもう一周したくなった。

それはそうと、アクションに関して、庵野の言ってること(不満)は最初からわかったよ。

ガキの頃、ジャッキー・チェンの映画(テレビ放送)を夢中で観ていたら、後ろにいた親父(マグロ漁師)に「なんだ、それ、踊ってるのか?」と言われて、ムッとした記憶がある。今は分かる。親父が正しい。ジャッキー・チェンのカンフー・アクションの正体は「踊り」。庵野的に言えば「段取り」をこなしているだけなのだ。

UWFから始まって、リングス、プライド、バーリトゥード等々、今は誰もが、より「実戦」に近い「取っ組み合い」や「殴り合い」を「知って」いる時代。実戦に近づけば近づくほど、格闘戦は、地味で殺伐としたものになって「見栄えが悪くなる」ことを「知っている」のだ。「本気」度が増すほど、格闘戦は、見世物としては「身も蓋もない」感じになっていく。そういうものを既に大量に目にしている現代の観客にとって、庵野にダメ出しされていたライダーアクションや、ジャッキー・チェンのカンフーアクションのようなものは、どちらかと言えば「踊り」なんだよね。つまり、歌舞伎のチャンバラと同じ。様式美。庵野はそれがだめだと言っている。

つまり、仮面ライダーもショッカーも、「試合」に勝とうとしているわけでもなければ、「技」を見せつけようとしているわけでもなく、「改造」のせいで凶暴性に歯止めが効かなくなって、とにかく一瞬でも早く相手の息の根を止めようとしているわけで、その部分を表現するためには、「踊り」や「様式美」や「殺陣師がカッコイイと思っている動き」は邪魔にしかならない。

庵野の「誤算」は、〔見世物としては身も蓋もない、もはや殺陣とも呼べないような「殺陣」〕ですらつけられるのがベテラン殺陣師だと思っていたら、実際はそうじゃなかった、アレ?困ったな、ということだろう。まあ、どんな職業にも「職業病」というものがあるけど、殺陣師にも殺陣師の「職業病」があった、ということで。

【追記】庵野って、やっぱり、「作品よりも本人が面白い」系の人だよね。


2023年10月20日金曜日

【バイコマ】Augmentation

 


今日気づいた。Augmentationとは「増強・追け足し」。『シン仮面ライダー』の「蜘蛛オーグ」とか「蝶オーグ」とかの「オーグ」ってこれか! と思って、少し調べたら、あっちは、「augment」だった。つまり「動詞」。それはともかく、ということは、ネイサン・スペンサーは「エミリーオーグ」ってことだね。


さっき観た「トビーの映画音楽の夕べ」(2355)は、『ピアノ・レッスン』のテーマ曲だった。好いよねえ。一気に映画の世界が蘇る。ついでに書けば、個人的「女の映画Best3」は、『ピアノ・レッスン』『シェルタリング・スカイ』『記憶の棘(Birth)』(順不同)。三者三様。

2023年10月19日木曜日

◯『帝都物語』監督:実相寺昭雄、原作:荒俣宏、脚本:林海象/2023年10月19日/Prime Video/ストーリーそのものは、子供騙しの他愛もないバカ話だけど、それ以外が好い。輒ち、実相寺アングル+円谷特撮。陰陽道と風水と式神。明治末期から昭和初期にかけての様々な風俗を描いた街の風景。渋沢栄一、幸田露伴、泉鏡花、森鴎外、寺田寅彦等々の実在の人物の登場。学天即とその発明者である西村真琴を、その息子である西村晃が演じている面白さ。早い話が、小ネタ満載の「The オタク映画」ということ。そういう面を見ればものすごく愉しめる。しかし、繰り返すが、ストーリーそのものは、他愛もない子供騙しでバカバカしい。あと、これが出世作となった嶋田久作(加藤保憲役)が若くて好い。のちの『戦メリ』の坂本龍一そっくり。
【memo】平面上の二つの点(A、B)から、決まった比率(m:n /m≠n)で離れた場所に点Pを打つ。複数の点Pを結ぶと、必ず円になる。この円を「アポロニウスの円:The circle of Apollonius」と呼ぶ。

スカイツリーを点A、東京タワーを点Bとし、スカイツリーの高さを「m」、東京タワーの高さを「n」として、その比率で、地図上に「アポロニウスの円」を描くと、円周上に当たる場所のどこから見ても、スカイツリーと東京タワーの高さは同じに見える。

(Eテレ「2355」)

2023年10月17日火曜日

△『SAVE THE CATの法則_本当に売れる脚本術』ブレイク・スナイダー著/2023年10月17日/図書館/面白く読んだ。しかし、脚本の書き方よりも、所謂「ハリウッド映画」の「つまらなさ」の「理由・原因」が分かったことの方が収穫。


2023年10月16日月曜日

△『風と共に去りぬ』(吹替版)2023年10月16日/Prime Video/


壮大な歴史大河ドラマなのかと思いきや、コメディ要素満載の「コテコテの昭和の少女漫画」だった。奔放な若いお嬢様主人公。本当は好きでもないのに結婚した夫が都合良く死ぬ(二人も!)。産んだ子供も(物語的に)「都合よく」死ぬ。で、嘆き悲しむけど、「あれは演技だったの?」ってくらい、しばらくするとみんなケロッとしている。戦争で「ひどい目」に合うけど、悲壮感よりも、ドタバタ喜劇感が勝ってる。煮えきらない優男な初恋の相手(アシュレー)。振っても振っても諦めずに好き好き言って迫ってくる大金持ちの「イヤな」男(レット・バトラー)、などなど。


でもまあ、それはいい。


この映画で最も「!?」となる点は別にある。輒ち、初めてこの映画を観た現代の観客(自分もそうだった)は、きっとほぼ全員が、「主人公のスカーレット・オハラに感情移入できる人(観客)って、一体どんな種類の人間なんだ!?」と思うはずなのだ。


要するに、主人公であるスカーレットが、信じられないくらい、自己中心的で幼稚で強欲で卑怯な、所謂「クソ女」。この、どう考えても観客の誰からも好かれそうにない主人公に、観客は面食らう。ストーリーが進めばちょっとくらいいいところも出てくるのかなと期待するが、まあ、ひとつも出てこない(いや、ひとつある。いや二つかな。元がカーテンなのがバレバレの緑のドレスを着て、バトラーに会いに行くスカーレットは好い。もうひとつ。酔っ払ったバトラーに久しぶりに「抱かれて」翌朝ベッドの中で浮かれているスカーレットも好い。とは言え全般的には、「こんな女、不幸になればいいのに」と思われて当然のような主人公)。物語の最後に「すべて」を失って、おいおい泣いたあとで、「でも、私にはタラ(生まれ故郷の土地)がある。明日がある」的な独白をして「立ち直る」メンタルも、なんだか、隔世の感。「どこの惑星の人?」とさえ思ってしまう。


あんまり気になったので(普段はやらないけど)ネットでちょっと他の人の感想を調べてみたら、或る女性が〔男からも親からも自立し、自分のことは自分で決める女〕であるスカーレットに猛烈に感情移入したらしい。この或る女性とは、当該のブログの著者の母に当たる人で、曰く、彼女は公開当時、4回もこの映画を見たという話。つまり、女性がまだ自立できていない時代、自立しようと意識し始めた時代に、スカーレットくらいの年齢の「若い女性」だった客層には、スカーレットのキャラクターが「刺さった」らしいのだ。なるほど、と少し思った。


しかし、この映画が制作された当時はまだ「自立した女性」というものがうまく掴みきれてない(よく分かってない)らしいことは、この映画を見れば明らか。というのは、現実の「自立した女性」がそこら中にウロウロしている現代の目で見ると、スカーレットは「自立した女性」というよりは、むしろ、典型的な「サイコパス」だから。言うまでもなく、現実に存在している「自立した女性」は、別にサイコパスではない。


▼全体の印象は、(おそらく時系列が逆だろうけど)『大草原の小さな家』。作品中の価値観とかキャラの言動とか、空気感がまったくそれ。


▼この映画で、スカーレット以上に重要なキャラはメラニー。メラニーのスカーレットに対する「聖母」のような接し方が、縦から見ても横から見ても「クソ女」でしかないスカーレットを観客が「容認・我慢」するための「助け」や「参考」になっている。二人の男、アシュレーとレット・バトラーは、スカーレットの「クソ女」ぶりを際立たせるための「反響板」のようなもの。


▼南北戦争の様子(兵器庫の爆発や、駅前に横たわる負傷者の群れ)は、映画が作られた時代を考えると、確かに「名作・大作」な感じ。


2023年10月13日金曜日

【バイコマ】「ビグザム」(コンストラクター)は、グローダーのいる場所を12時とし、補充武器のある場所を6時すると、今までは、10時→6時(通り過ぎる)→2時→(戻って)6時と回っていたけど、単純に10時→12時(グローダーの下)→2時→6時と回れることに今日気付いた。この方が移動距離も短い気がする。極初期の頃、グローダーの下をくぐろうとしてダメージを受けたのは、あそこでジャンプしたからだ。多分。(183周目)

2023年10月9日月曜日

◯『カムイ伝』第一部(全巻)、△『カムイ伝』第二部(全巻)/2023/10/09/図書館/第一部は、まあ、概ね一貫性があったけど、第二部は完全に「行き当たりばったり」な印象。つまり、物語の展開が。まるで『キン肉マン』だと思った。

2023年10月8日日曜日

カップヌードル「特上」を全種試した。その中でシーフードの特上だけは3回食べた。つまりはそういうことで、シーフードの特上だけが、ちゃんと旨い「新作」になってた。元々のシーフードヌードル(あまり好きじゃない)とは全く別物(賞賛)。

2023年10月6日金曜日

【バイコマ】スナイパーが初登場するエリア。最初にこちらをレーザー照準で狙ってくるヤツと出口のトンネルの前に居るヤツは素通りしてもいい。五人全員を倒す場合の順番で言うと、2人目と5人目は無視していい。

2023年10月5日木曜日

「あ、これ、さっき見た/さっき聞いた」系のこと

もう何年も、毎週水曜日は『コロンボ』を観ている。今日見たのは、「二つの顔:DOUBLE SHOCK」。劇中、家庭用の警報装置のスイッチを入れたり切ったりする場面がある。画面に警報装置が映るとそこに「Wolf Security Systems」と書いてる。「Wolf(狼)」なんて名前は、てっきり番組オリジナルの架空の警備会社だと思っていた。

その数時間後、今度は、最近毎日観ている『サウスパーク』を観た。今日見たのは、season 16の episode 10。なんとここに、「Wolf Security Systems」という警備会社が登場した。

まさかと思って調べてみたら、実在するセキュリティ会社だった、「Wolf Security Systems」。

もう一つ。

この『サウスパーク』を観る前に『クライ・マッチョ』の吹替版を観たのだが、今回の『サウスパーク』のエピソードで、ミルクマンについて語る(そしてサウスパークの男たちを唆す)謎の男の声が、その『クライ・マッチョ』のClint Eastwoodの吹き替えの声にそっくりなのことに気づいた。

で、やっぱり調べてみたら、Clint Eastwoodの吹き替えは、多田野曜平という人だとわかった。『サウスパーク』に関しては、カイルのお父さんの声をやっぱりこの多田野曜平という人がやっているので、例の「ミルクマンについて語る謎の男(きっと知っている人にとっては「謎」でもなんでもない、「誰か」なんだろうけど)」も多田野曜平という人がやっているはず。だって「同じ声」だから。

一日に二回も、「あ、これ、さっき見たアレに出てた」系のことが起きるなんて、珍しいので、記録しておく。

【バイコマ】182周目の腱鞘炎

182周目は「記念」すべき周回になった。というのも、途中で、左の人差し指が腱鞘炎になったからだ。腫れて曲がらない。無論、痛い。他に理由は思いつかない。「バイコマ」が原因だ。

知っての通り、「バイコマ」は左の人差し指を最も使う。というのも、「L2」が「ワイヤー発射」で、「L1」が「でんぐり返し:回避運動」だからだ。この2つを、F1のペダルワークさながらに、絶えず押したり離したりしているのが左の人差し指。

「トランキライザーガン」や「クレイジー・クライマー」の頃からやっているけど、ゲームで腱鞘炎になったのは初めて。近所の整形外科で人差し指の付け根に注射を打たれて、それで治った。効く。

2023年10月1日日曜日

◯『スポットライト:世紀のスクープ』(吹替版)2023年10月1日/Prime Video/カソリックの神父による子供への性的虐待が起きるたびに教会が組織ぐるみで隠蔽していた事実を暴いたボストン・グローブ紙の「世紀のスクープ」の内幕を描いた作品。見ごたえのある好い映画だった。もう一周してもいい。あと、今まさに「ジャニーズ事件」に当面している日本人は全員観るべき。主演の一人はMichael Keaton。ボストン・グローブ内の「スポットライト」という部署(?)のデスク役。

『マトリックス』の第4部を観て思った色々

△『マトリックス・レザレクションズ』(吹き替え)Prime Video/2023年9月21日/

凡庸で軽薄「愛が世界を救う」系のSFファンタジー。

作者が、自分が作ったキャラクターや物語世界を(色々な意味で)「忘れられず」、一旦終わらせた物語を再開したり、そのために、殺したキャラクターを「屁理屈」で生き返らせたりして、「続編」を作り続けてしまうことは、映画に限らず、漫画でも小説でもよくある。この作品もその系譜。作らないほうがよかったのにね、と心底思う。

この手の「続編」では、前作の「ラスボス=最強の敵」が、主人公と「共闘」しがちだけど、本作でも案の定、宿敵「(元)スミス」が、ネオの(一時的な)協力者になって、今回の「共通の敵」である「アナリスト」(時間を止める「ザ・ワールド」的な「無敵」能力を持つ)を「退治」してくれる。少年ジャンプか!

そもそも『マトリックス』ってこんなにポンコツシリーズだったかなあと思って、同じPrime Videoにあった前作(第三部)の『マトリックス・レボリューションズ』を見返してみたら、 なんと同じだった。ポンコツというのは言い過ぎだけど、生命教信者が生命教信者向けに作った、生命教「信仰」を讃えるだけの映画でしかなかった。輒ち、「知性現象は、人間(生命由来)のものが一番尊い。それ以外の知性現象は、いくら高度で高速で大容量でも、所詮は偽物・出来損ない」という信仰のもとに作られている。

生命教信者向け映画だという点について、もう少し書くと、例えば、機械の親玉(マシン・シティに乗り込んできたネオの取引に応じたり、人間と機械との戦争が終わったあとで、白髪の紳士の姿でマトリックスの予言者を訪ねて来るあのヒト)や、マトリックスを乗っ取った「暴走スミス」が、それぞれ「機械」や「コンピュータプログラム」のはずなのに、考え方や価値観が、当前のように「生命教」に則っているというのが、まさに生命教信者御用達映画の証(というか、症状)。

もう何度何度も書いているけど、「知性現象というものが存在すれば、それは常に生命原理に従う」と考えるのが生命教信者。この映画は生命教信者達によって作られているので、機械の親玉も、スミスも、当然のように、生命原理に従う知性現象になっている。言い換えると、彼らの知性現象は、人間の知性現象のあり方を模倣、もしくは再現になっている。だから、「機械」や「プログラム」が、まるで人間のように、〔自分自身や同類の存続〕や〔版図の維持拡大〕を望んだり願ったりするし、人間との間に「戦争」も起こす。

映画の中では、「人間と機械との戦争」とか、「人間とコンピュータプログラム(スミス)との闘い」のように描かれているので、観客も大半はそう思っているだろうし、うっかりしたら、映画の制作者たちも本気でそう思い込んでいるのかもしれないけれど、実態は、「有機物製の人間」と「金属製の異形な人間」の戦争であり、「有機物製の人間」と「コンピュータプログラム製の人間」の闘いでしかない。要するに、「武装」や「有り様」の違いが「SF的な装い」をしているだけで、単なる「人間と人間」の争いなのだ。生命教の呪縛の典型

正体」は人間同士の争いなのに、外面(そとづら)は「人間対機械」や「人間対コンピュータプログラム」になっているので、それで「安心」してしまい(凄いものを描いていると勘違いしてしまい)、肝心要の人間描写や人物造形が、陳腐で凡庸な「お定まりの仕上がり」になっても平気だし、その「退屈さ」にも気が付かない。そうやって作り出される作品を、心ある人々は「子供騙し」と呼ぶ。

その昔『マトリックス三部作』を観終えたあとで、「これなら『アニマトリックス』の中のいくつかのエピソードほうが断然好い」と思ったが、今回の再見で、当時の自分の判断の正しさを再認識した。『マトリックス』は第一部(一作目)が全て「出オチ」映画。残り三作は、ハリウッド製によくある、凡庸なSF戦争ファンタジー。

いずれにせよ、ネオとトリニティが自分たちの命と引換えに人類に平和をもたらしたという第三部の結末に対して、やっぱりネオとトリニティに幸せになってもらいたいなあ、と思って作ったのが、この第四部ってことなんでしょう?

**

それにしても、今回、『マトリックス・レボリューションズ』を見返してみて驚いた。ほぼ何も覚えてなかったからだ。見覚えがあったのは、最後の最後に、マシン・シティでネオが停戦(終戦)のための取引を提案する場面くらい。あとは、「初見」かと思うくらい何も覚えてなかった。

なので、今回分かった『マトリックス・トリロジー』の顛末を、少しメモしておく。

①人間と機械が戦争をしている。(開戦の理由や様子は『アニマトリックス』で描かれている)
②機械は人間集団を発電機(エネルギー源)として使っている。
③機械は発電機(人間集団)を生かし続けるために「マトリックス」を運用している。
④「マトリックス」の用務員(エージェント)であるスミスの「暴走」が始まる。
⑤暴走したスミスは、マシン・シティを乗っ取る勢いを見せる。
⑥ネオだけがスミスの暴走を止められる。
⑦機械は、ネオがスミスの暴走の止めたら人間との戦争をやめる、とネオに約束する。
⑧ネオが(予言通り)スミスに負けて「上書き」され、スミス(の複製)になる。
⑨機械がネオの体から(元ネオの)スミスに「入り込み」、暴走スミスたちを一掃する。
⑩人間と機械の戦争は終わり、スミスが駆除された「マトリックス」は「正常」に戻る。

因みに、預言者は、わざとスミスに「上書き」されることで、「ネオの体を経由して、機械が〔ウィルス駆除プログラム的なもの〕を暴走スミスに送り込み、暴走スミス群を一掃する」作戦の道筋を作った。


付記:【第三部で引っかかったこと】

序盤で、「地下鉄駅」に「閉じ込めれらた」ネオを助けるために、トリニティが「フランス人」の眉間に銃口をあてて「取り引き」を持ちかける。曰く、「フランス人」がネオを解放するか(ネオの居場所を教えるか)、それとも、ここでみんな(トリニティ、「フランス人」、モーフィアスなど)で死ぬか、と。しかし、これは「取り引き」にならない。なぜなら、自分の命に代えてもネオを取り戻したいトリニティは、絶対に「フランス人」を殺せないからだ。「フランス人」を殺したら、ネオは永遠に解放されない(見つからない)。

もし、ネオの解放に「フランス人」の協力なり了解なりが必要ないなら、「取り引き」なんか持ちかけずに、さっさと「フランス人」を殺せばいい、というか、そもそも、「フランス人」のところに、無策状態でノコノコやって来る必要がない。

…なんて言うんだろ。ネオを助けるためならトリニティは自分の命は惜しくない→つまり、「フランス人」を殺したら自分も殺されるけど、そんなの気にしない→だから、「フランス人」を殺すと言うトリニティの言葉はただの脅しじゃない!それは、そのとおりなんだけど、だからと言って、トリニティが自分の命と引き換えに「フランス人」を殺しても、それで自動的にネオが解放されるわけではないので、「自分の命に代えてもネオを助ける」というトリニティの「決意・覚悟」は、この取引では用をなさない。ネオが解放される条件は、トリニティが命を差し出さないこと、つまり、トリニティが「フランス人」を殺さないこと。そして、何よりも(自分の命よりも)トリニティが望んでいるが「ネオの解放」なのだから、逆に、自分の命に代えてもトリニティは「フランス人」を殺せないのだ。これが取引になっているかのように(制作者や観客が)勘違いしているのは、「ネオが解放されないくらいなら、私(トリニティ)はお前(「フランス人」)を道連れに死んでやる」というふうにしか考えていないから。しかし、繰り返すが、その場合、トリニティの決断(というか短気?)によって、ネオも死ぬ(永遠に「地下鉄駅」から解放されない)ことになる。トリニティ、何がしたいの?

要するに、この場面は、たくさんの銃口を突きつけられた絶体絶命の状態で、恋のために命がけの取引を持ち出すかっこいいボンテージ女という「雰囲気」だけのもの。そもそも、最初にトリニティたちが、入り口を守る手下たちを皆殺しにして、「フランス人」が潜んでいる「会員制クラブ」に乗り込んでくる場面自体が、その後の展開(結局、あっさり敵に包囲されて銃を取り挙げられ、「フランス人」に「取引き(代わりに預言者の目をもってこい)」を持ちかけられることになる)を考えると、ただただ、銃撃戦を見せたいだけのもので、つまりは「雰囲気」。

でもまあ、「恋する女がイカれたことをする」という文脈でこの場面は展開しているから、銃を眉間に突きつけられた当の「フランス人」が、「この女(トリニティ)、こんなの全然、取引にもなんにもなってないし、俺を殺したら、ネオも助からないことすら分かってないんじゃないか? やべえなあ…」とビビって、トリニティの要求に応じるところを描きたかったのかもしれないけどね。つまり、ネオを道連れにしたトリニティの「無理心中」に巻き込まれるのはまっぴらだと思った「フランス人」が、トリニティの要求に応じるという理屈。でも、そうすると、トリニティの言い分を聞き入れてた「フランス人」は、どのタイミングでトリニティの銃口から解放されたのだろう? どう考えても「地下鉄」に乗り込む直前まで「人質」になっていたはず。「フランス人」に銃口を突きつけたトリニティが、周囲を警戒しながら、「地下鉄」乗り場まで移動している姿(画)は、滑稽。

【救済案】
①さっさとネオを引き渡さないならもうお前(「フランス人」)に用はない。私達(トリニティ)の仲間が「自力」でネオを見つけ出すから、お前(「フランス人」)はここで私達(トリニティたち)と心中しろ、という理屈なら、トリニティが持ちかけた「取引」は実効性がある?

②「フランス人」が「扉の鍵」のような存在で、「フランス人」を葬り去れば「自動的」にネオのところに行けるか、ネオが解放されるという「仕組み」になっているのなら、トリニティが持ちかけた「取引」は実効性がある?

…どちらでもなさそうなんだよね。

①の場合。「フランス人」がいなくなっても、トリニティの仲間が「自力」でどうにかするから、トリニティは「フランス人」は殺せるというのなら、そもそもあの場面で「フランス人」を殺す必要も脅す必要もない。一旦、「フランス人」の取引に応じたふりをして、悠然とあの場所から立ち去り、「自力」でネオを探し出せばいいだけ。そうすれば、トリニティもモーフィアスもセラフもみんな生きている状態で、ネオに会える。

②の場合。今度は「フランス人」の側が、取引などできる立場ではないことになる。「ネオを解放してほしかったら、預言者の目をもってこい」と言った時点で、ネオの為なら命も惜しくないトリニティに撃ち殺されて終わり。

やっぱり、あの場面は、ただただ、トリニティが「見栄を切る(歌舞伎用語)」ためだけにあるとしか思えない。というか、『マトリックス』シリーズって、この手の〔必然性も説得力もない、ただただ「カッコイイ場面のためのカッコイイ場面」〕だらけなんだよね。それがまた、軽薄でポンコツな印象を与える。

ついでのついでに書けば、キアヌの主演映画で、第一作目がすごく面白くて、でもその続編は「あれ?」ってのが、『マトリックス』以外にもう一つある。そう、『ジョン・ウィック』。いい人なんだろな、キアヌ。続編、断れないんだろうなあ。キアヌ主演のSF/ファンタジー系映画で言えば、『コンスタンティン』が一番好きだけど、これもうっかり続編なんか作ったら、「あれ?」ってなるに決まってるから、気をつけて。

2023年9月30日土曜日

「観るべき映画」指標の頂点

山田玲司が動画(ヤンサン)の中で言及していて興味を持ったので『スポットライト:世紀のスクープ』という映画を観始めたら、主要な登場人物の一人(編集のデスク役)をMicheal Keatonが演じていた(彼が出ているのは知らなかった)。映画はまだ20分くらいしか観てないから、今から話すのはこの映画の話ではない。「出演俳優が〔観るべき映画の指標〕になる」という話。と言っても、贔屓の俳優を観るために観るべき映画を決めるという話でもない。

ちょっと、ややこしいが、こういうことだ。

特定の俳優が出ている映画は、仮にその俳優が出ていなかったとしても、その映画自体が、自分好みの映画である確率がすごく高い、ということ。

まだ、わかりにくい。簡単なことなのだけれど、説明するとなると、妙にややこしい。つまりこうだ。

世の中には数多映画が存在する。しかし自由になる時間や体力(視力)は限られている。人生は短い。その場合、映画の趣味が自分と同じかよく似た〔友人や有名人〕のオススメが参考になる(逆に、アマゾンのレビューは、「どこの馬の骨」が書いたかわからないので全く参考にならない)。しかし、一番アテになる「オススメ」は、どんな「大物俳優(big names)」が、主要な登場人物(最高は主人公)として出演しているのかということ。新人俳優は出演作品を「選べない」が、「大物俳優」は出演作品を「選べる」。だから、大物俳優は、自分自身が「好い」と思った作品にしか出演しない(はず)なので或る大物俳優が主役級で出演している映画は、自動的に、その俳優が「星5」をつけている作品とみなして(だいたい)間違わない。

で、長く生きて、少なくない数の映画を観てくると、自分と同じ〔映画の「好み・趣味」〕を持った大物俳優が見つかる。私の場合は、日本人なら山﨑努、外国人ならMicheal KeatonとNicole Kidman。彼らが主役級で出演している映画は、(ここが重要なのだが)ジャンルに関係なく、観れば、かなりの高確率で「ああ、好い映画だ。観てよかった」と思える。それは山﨑努やMicheal KeatonやNicole Kidmanを観られるからではなく(まあ、それもあるけど)、その作品の〔哲学や価値観や主張やモチーフ〕そのものを好いと思えるからだ。だから、極論を言えば、彼らの代わりに別の俳優たちが出ていても、私にとってその作品は「好い」映画なのだ。が、山﨑努やMickeal Keatonが出演していなければ、それが自分にとって「好い」映画かどうかは、事前には知りようがない。

以上、自分と〔映画の趣味〕があう大物俳優を見つけると、以降、「観るべき映画選びの指標」として彼らを使える、という話。そして、まだ20分しか観ていないけど、『スポットライト』は自分好みの映画の匂いがプンプンしている。Micheal Keaton指標は伊達じゃない。

ついでに余計なことを言うと、観ているのは当然「吹替版」。何度も言うけど、映画は本じゃないから(音声を聞きつつ、映像を鑑賞するものだから)。「字幕派」は、俳優本人の声とかセリフとかをどうこうって言いがちだけど、英語の言い回しの細かいニュアンスまで直に聞いて理解できるなら、そもそも字幕は要らないわけで。もっと言ってしまえば、映画の字幕って、経済的・技術的な理由を持つ「次善の策」「苦肉の策」としか思えないんだよね。映画体験を「損なって」いる気がしてしようがない。同じ映画を5周くらいして、登場人物たちが何を言っているか概ね分かっている状態になったら「字幕版」にしてもいいかも。そのときは、逐一、字幕を負う必要はないから、眼前に展開している映像を堪能できるし。しかし、その場合は、字幕を「英語」にしてしまったほうがいいよ。実際、私は、何周もしてるLynch作品群は全て英語音声・英語字幕で観てる。まあ、余計なお世話な話です。


2023年9月28日木曜日

【バイコマ】「高射砲破壊」の次のステージの「省エネ」攻略

高射砲を破壊した次のステージは、ゴリメカ2体を倒せば出口が開く。輒ち、三本足x1、スナイパーx2、兵士xたくさん、は素通りしてかまわない。

低いルート(スナイパーや兵隊の足の下)を一目散に進んで出口前まで来たら、出て来たゴリメカx2にまとめて「ハガー」をくらわせ、すぐに一番近くの「橋の柱」の陰にかくれる。出口を12時方向とするならこの柱の5時や6時あたりの位置がスナイパーに狙撃されない「安全地帯」。ここから「タランチュラ」でゴリメカにロックオンし、ミサイルのホーミング機能で、2体とも始末する。これだけ。

但し、読んで分かった通り「タランチュラ」は必携(もし携行武器が違うなら、もっと地道な別の攻略法で)。



BarbaraとFrankie:ラジオ英会話

大西泰斗の「ラジオ英会話」を一週間遅れで聞いている(アプリで)。今日聞いたのは、大好物のDeepakの店のカレーを食べ残すBarbaraのdialogue。Barbaraは、売り物件の庭の薔薇を勝手に摘み取ったFrankieに腹を立てすぎて(「前回」のdialogue)、それが理由で好物のカレーも食べきれないと言っているのだが、それは違う。BarbaraはFrankieに恋をしているのだ。ご当人もまだ気づいてないようだけど。

2023年9月27日水曜日

△『岸辺露伴・ルーブルへ行く』視聴。Prime Video

2023年9月25日月曜日

所謂「カップ焼きそば」のキャベツ系の「かやく(具)」は、たとえ、先に入れろと指示されていても、湯切りしたあとで麺にもぐり込ませてふやかした方が、風味も食感も好くなるから、本当に。

2023年9月22日金曜日

所謂「歴女」のような、戦国武将を敬愛している人たちは、今のプーチンのことはどう思ってるんだろう?
【バイコマ】「フィッシャー」を抜けたあとの、屋上に中継機があって、その周りを二機「三本足」が飛び回っているいるエリアは、中継機を守っている兵隊三人を倒せばクリア。つまり、「三本足」は破壊しなくてもいい。ということを、今日(181周目)にして気づいた。因みにこれは、最終局面の「コンストラクター」と同じ仕様。ただし、援軍のパラシュート部隊が到着してしまったら、彼らも全滅させなければならない。

「三本足」の攻撃をよけながら、兵隊を始末するのはわりと大変。だから、難易度的には、とりあえず兵隊は無視して、先に「三本足」を二機とも破壊したほうが楽だが、「三本足無視」戦術は、ハマれば「一瞬で」クリアできるので、気分がいい

【注】以上の内容は原理的には正しいのだが、一旦開いた中継器は、三本足が近づく度に閉じてしまう(離れて行けばまた開く)ので、中継器をハッキングするには、三本足を中継器から離れた場所に誘導する必要がある。それは三本足が2機とも残っていると割と大変。要するに、三本足は(少なくとも1機は)破壊した方が実際的。

2023年9月19日火曜日

David Graeberによって広まった「ブルシット・ジョブ」という概念の「具体例」を愉しく知りたかったら、『サウスパーク』のシーズン16・エピソード2「貴金属チャンネル」を観よ。名作! 別に宣伝じゃないけど、Amazon Prime経由のMTVチャンネルで吹替版が観られる。

2023年9月18日月曜日

『VIVANT』(全10話):メモ

橋爪功の存在感ってなんか、凄いなあ、と思った。最後の最後にチョロっと出てきて、「やめろ!ちがう!』言ってるだけなのに、結局、『VIVANT』って、橋爪功のドラマだったような気がしてくるから恐ろしい。いや、実際、橋爪功の演じる公安課長(当時)が、この『VIVANT』という物語の最初の最初のキッカケと作ったんだから、言ってみれば、橋爪功のドラマだって言えば、そうななんだけどね。

演技(芝居?)で一番感心したのは、堺雅人に「テントの最終目的地は日本なのか」と訊かれた役所広司が「昔は恨みに思っていたけど、今はもうどうでもいい」的なことを言って、それを否定するところ。

つまり、本心をズバリと言い当てられた人間が、「いやそんなことないですよ。それは違うます」と、嘘をついて否定するときの、「嘘がつききれてない感じ」「なんとかしてはぐらかそうとしているのが透けて見える感じ」「本当のことを言われて心穏やかでないけれど、できるだけ平気な顔をして、相手が勘違いしているだけだと思わそうとして、しかし、挙動が微妙におかしくなる感じ」が、見事に表現されていて、凄いと思った。

が、その「凄い」が本当なのか、単なるこちらの「勘違い」なのかは、最終回を見るまで確かめようがななかった。これもまた、橋爪功(が演じたキャラ)が登場によって、「勘違い」ではないことが分かった。やはり、凄かったのだ。ただし、この場合は、橋爪功じゃなくて、役所広司が凄かったんだけどね。

2023年9月15日金曜日

『Zガンダム』5周目:メモ

◯『Ζガンダム』を一文で言い表せば「痴話喧嘩の合間に戦争している話」。あるいは、「何人かの痴話喧嘩に巻き込まれて、無関係な大勢が死んでいく話」。

◯シロッコが象徴しているのは、「分かったようなことを言って、キャラ同士の殺し合いを見物しているガンダムファン」。これは大発見でもなんでもない。当人がそう言ってるし、ハマーンにもそう言われている。更に言えば、カミーユのシロッコに対する最後の叫びがまさにそれ。ガンダムの続編を無理矢理作らされた富野さんからの、「ガンダムファン」(おもちゃ屋を含む)に対する「怨み節」の爆発。

◯『初代』は、人類は結構な割合がニュータイプになる、と仄めかして終わる。その7年後の『Z』は、そこら中にいる「ニュータイプ」同士が戦場で殺し合ったら、当人たちには地獄だというオハナシ。輒ち、「アムロ・シャア・ララァの悲劇」が、毎回毎回繰り広げられる修羅場アニメ。

____

【『Zガンダム』を勘定に入れない理由】

「痴話喧嘩」を延々描いて、最後に「オカルト」で終わるのが『Zガンダム』。ここで言う「オカルト」は、例えば、巨大隕石が地球に衝突するDisaster映画の結末で、人類が心を一つに「神様」に祈ったら、隕石が地球を逸れて、やれやれ助かった、みたいな展開のこと。最終決戦で死んだ人間(主に若い女たち)の幽霊(残留思念?)が次々と現れ、主人公に味方し、それによって主人公がいきなり謎の「無敵状態」になって物語を終結させるってのは、もう、ただの「少年ジャンプ」。でも、これはまだいい。「少年ジャンプ」は、馬鹿になれば愉しめるし、全部カミーユの勘違い(思い込み)ってこともあり得るから(実はそうとは知らずに、Ζやジ・オやキュベレイには、後に「サイコフレーム」と呼ばれるものが「材料」として使われていた、という「SF設定」を、ねじ込もうと思えば出来る)。

「勘定外」輒ち「落第」を決定的にするのは、シロッコを守ろうとする幽霊のサラに対して、幽霊のカツが、「あの人(シロッコのこと)も、こっちですぐに一緒になれるから」的なことを言って説得し、サラもそれで納得すること。要するに「死んだほうが幸せ」が『Zガンダム』の根底に流れている思想(という本音・諦め?)だということが、はっきりと示されている。これが決定的に駄目。

(因みに、この「死んだ方が幸せ・生まれる前が本来の有り様」思想は、『Ζガンダム』に限った話じゃない。劇場版『イデオン』の結末は、ガッツリそのとおりだし、『ダンバイン』の「バイストン・ウェル」だって、ありゃあ、どう見ても、「魂が帰る場所・本来居る場所」、要するに、「死んだ後・生まれる前」の世界。つまり、これは、富野さんの「持病」。)

「死後の世界」や「死後の実在」や「肉体に拠らない魂の永続性」が、物語の一番土台にあって、その「表層(生きている人間たちの世界)」で、好きだ嫌いだ、殺す殺されるをドタバタやってるという「世界像」を持っている『Zガンダム』は、自分自身の全50話を「最初から」全否定している。登場人物たちは、殺したり殺されたり、泣いたり怒ったり、騙したり騙されたりと、いろいろやってるけど、その全部は、「死んだほうが幸せ」という「真理」を「悟ってない」連中の「愚かな馬鹿騒ぎ」だと言ってるのと同じだから。

このことは、「魂」になった全キャラが全裸で宇宙を心安げに漂う劇場版『イデオン』のラストの方がもっとわかりやすい。観客はあの場面を見せられて、こう思うに決まってる。「死んでそんなに晴れ晴れと安心できるなら、ここまで見せられた二時間近くの〔殺すの殺されるのの大騒ぎ〕は一体なんだったの?」。

『イデオン』について書いたときにも書いたことだけど、「死後の実在」を肯定し、「死んだ存在になったら安らぎと悟りを得られる」とやってしまえば、生きている間のすべては、ただの「悪夢」に過ぎないことになってしまう。死んだことで、文字通りに目覚めて、「ああ、怖い嫌な夢をみていた」と安心するわけだから、これは、もうただの「夢オチ」。劇場版『イデオン』は、あのラストを付け足したせいで、完全な「夢オチ」アニメになったし、ちょっと分かりにくいけど、『Zガンダム』も、戦死者たちが全員、「安らいだ(ものが分かった風の)幽霊」となって、客観描写で登場してくる時点で、やっぱり「夢オチ」なのだ(←生きている人間たちが活動している世界は「本当の世界=本来あるべき世界」ではない、という立場だから)。

「夢オチ」が物語としては〔最低・最悪〕なのは、そもそも「虚構」である物語の「内側」で、もう一度「虚構でした」とやってしまうから。残虐非道なキャラクターに対して「本気で」ムカついている観客に向かって、当のキャラクターが画面の中から「ねえ、これ作り物だよ、芝居芝居。何をムキになってんの?」って言ってしまうような「ぶち壊し感」が炸裂するから。

初代『ガンダム』や『∀ガンダム』には、奇跡的にそれ(人間は死んでいる方が幸せで安寧で嘘がないという思想)がない。多分、この2作を作っているときの富野さんが「強気」だったからだろう。「自信」があったのだ。自信がなくて、弱気なときは、「高尚なもの」を小賢しく目指してしまう。でも小賢しさだけで「高尚なもの」を作り出そうとすると、まあ、たいてい、何千年も前から弄り倒されてきた、「魂の永続」だの「人間の精神の真の姿」だの「本当の世界」という「おもちゃ思想」に釣り上げられて、水面でパクパクしながら、「一見深淵、実は、幼稚で陳腐」な物語世界を構築してしまう。

_______

追記:人間存在の「理由」と「役割」は、我々の「物生知現象説」でもう答えが出ているのだが、人類のほとんど全ては、未だに「生命教信者」のままなので、どうしても「おもちゃ思想」を有難がって、『Zガンダム』だの『エヴァンゲリオン』だのに恍惚となる。






2023年9月13日水曜日

【Zガンダム】ハマーンは、ブラックロッジから出てきた「悪い」セイラさんだよ。
【Zガンダム】エゥーゴの標準のノーマルスーツは色が黄色でマヌケだといつも思っていたけど、ホワイトベースの標準のノーマルスーツがやっぱりマヌケな黄色だからソレが理由か、と、今頃になって気づいた。

空画:2023.09.12

 







2023年9月10日日曜日

『明鏡止水・武の闘球』(ラグビー編)を愉しく観た。岡田くん(世界大会お疲れ様)と、ケンドーコバヤシの両方が元ラグビー部だったとは。あと、高阪剛、最初気づかなかった。グラップラー変態ぶりが、歳を増すごとに、拡大している気がする(褒め言葉)。「内旋」で倒す。

2023年9月9日土曜日

【Zガンダム】ハマーンとレコアは完全に同じタイプの女。手にしている「チカラ」が違うだけ。 

2023年9月8日金曜日

【バイコマ】港:第一の高射砲を破壊して、第二の高射砲に向かう途中のトタンの壁は、投射物(箱やドラム缶)が通り抜ける(樹の茂みと同じ仕様)。輒ち、向こうにいる敵兵に、トタン板越しに物をぶつけられる。

かぐや姫の「神田川」の女子は、なんで銭湯の外で待ってるんだろう?

2023年9月6日水曜日

【memo】「半殺し」(おはぎの呼び名)の由来

米を「つき殺さず(=つき切らず)」に、半分だけ原型をとどめた状態にしておくことから、「半殺し」。

(土井善晴/NHK「きょうの料理」)

実は全然モテてないカミーユ(それに比べていつもモテモテのアムロくん)

『Zガンダム』全体の印象と、最終回のシロッコとの最終決戦の場面の印象で、なんとなく「女子にモテモテ」だと思われがちだが、実は、カミーユは全く女子にモテてない。幼馴染のファだけが、「本気」でカミーユカミーユ言ってるだけ。

思い返してみれば、カミーユにグイグイ来る女子は強化人間だけ。ニュータイプの女子ならイケそうか、と言えば、そうでもない。本当のニュータイプであるサラにはしっかり「素通り」されている(まあ、サラはすでにシロッコの「お手つき」だったってのもある)。

「薬漬け」の強化人間であるフォウやロザミアは、倒すべき相手としてのカミーユという存在を、人為的に意識に叩き込まれているので、カミーユという存在が彼女たちの中でとても強烈なものになっていて、その「特別な存在感」を、「精神がまともな状態」のときには、恋心だとか兄妹愛のように「誤解」してしまい、「カミーユ、カミーユ(お兄ちゃん、お兄ちゃん)」になってしまう。

物語をぼんやり観ていると勘違いしてしまいそうになるが、フォウにしてもロザミアにしても、「元々カミーユのことが好きだった女子が、薬漬けの強化人間にされて、カミーユを倒すべき相手だと思い込むようになった」わけではない。事実は全く逆で、元々倒すべき相手だと意識に植え込まれていた相手(カミーユ)のことを、ある種の精神錯乱(強化人間実験の失敗)で、恋人だとかお兄ちゃんだとか思い込んでいるだけ。

しかし、本当の「悲劇」は、カミーユ自身にこの「真実」が全く見えていないことの方。それに比べれば、フォウやロザミアの悲劇的な有り様は、悲劇としては、一段「軽い」。

カミーユは、相手がフォウであろうとロザミアであろうと、嘗て、アムロとララァが、「あの一瞬」でお互いの「全て」を分かり合えようには、分かりあえていない。カミーユが「これこそフォウだ、ロザミアだ」と、ニュータイプ能力レベルで「共感=精神感応」しているのは、カミーユ自身が、「本当の」フォウだ「本当の」ロザミアだと、「都合よく」思い込んでいる彼女たちの「一面」に過ぎない。

何を言いたいのかというと、これって、「ニュータイプ」としての人間洞察や感能力としては、大いに「不足・欠陥」があるんじゃないか、ということ。

カミーユとフォウの「出会い=精神感応」と、アムロとララァの「出会い=精神感応」とでは、共感の「深さ」が違う。というか、カミーユとフォウの場合は、お互いに深く分かり合えた気になっているだけで、要するに思春期の「私はあの人のことが好き・あの人も私のことが好き」という「思い込み」レベルをそれほど出ていない。

「健全/まとも」な女子にモテモテのアムロと比べると、同じ「ニュータイプ」でも、アムロとカミーユではそもそも「種類」が違う気がする。言ってしまえば、アムロ(や多分シャア)のニュータイプ能力は、健全な「共感力の拡大」なのだが、カミーユのニュータイプ能力は、病的な神経症(あるいは偏執狂)に近いもののように思える。だから、アムロとの「共感」があったときに「普通の女子(ニュータイプを含む。ただし強化人間ではない女子)」はアムロに「惹かれる」けれど、カミーユとの「共感」があったとき、「普通の女子」は或る種の鬱陶しさを感じるのではないか(想像。でも、エマさんとかレコアさんのカミーユに対する「態度」ってそんな感じだし、あのファでさえ、若干そんな感じ)。カミーユと「惹かれ合う」のは、薬漬けで脳が壊れた強化人間の女子だけ。21世紀風に言えば、メンヘラ同士なら惹かれ合う。

カミーユに訪れる「結末」を予言する不穏がここにある。

最終回、カミーユの精神が崩壊するのは、シロッコのせいでもなんでもない。「カミーユが元々持っていたもの」が、ついに「発症」しただけ。

極端な言い方をすれば、カミーユは、全50話をかけて、「実地の強化人間実験」に晒され続け、最後の最後に、とうとう、フォウやロザミーの「お仲間」になってしまったのだ。

【追記】おそらく、強化人間の候補に選ばれるのは、感じやすい情緒不安定気味の子なんだよ。つまり カミーユ みたいな子。だから、フォウとかロザミアと惹かれ合う。言ってしまえば、カミーユは、ムラサメ研究所やオーガスタ研究所の人間が喜ぶ「素材」なのだが、「自力」でニュータイプになっているので、もし、ニュータイプ研究所に連れ込まれても、フォウやロザミアみたいな目には合わずに済む。

もう一つ。カミーユのニュータイプ能力は、戦争の道具としては、うっかりしたらアムロすら凌ぐ。しかし、「本来」のニュータイプの有り様からすれば、相当に「病的」。カミーユは最初から「危うい」。遺伝か環境か、原因ははっきりしないが、とにかく自然発生的な「病気(精神疾患)のせいで」ニュータイプ能力が出現しているのがカミーユ。だから、変な喩えをすると、カミーユのニュータイプとしての異常な戦闘能力の高さは、脳にできた腫瘍のおかげで、もの凄い絵が描けるみたいなこと。