2022年12月21日水曜日

スタンド論:『ジョジョの奇妙な冒険』考

*この前、ちょっと『ジョジョ』の「悪口」を書いて、「そういえば」と思い出し、引っ張り出して読んでみた。いろいろ書いてる余計なことは全部省いて、書き損じも直し、わかりにくい表現や、くどい繰り返しも改めた結果、結構な「大改訂」になって、酷い目にあったが、ともかくも、再掲。
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(1)「スタンド」の「発見」

第3部から登場した「スタンド」に的を絞って考える。

「スタンド」とは精神力を「映像化」したものだ。「強い」スタンドは「強い」精神力から生まれる。肉体と肉体の戦いは、実は精神と精神の代理戦争に過ぎなかった。ならば、その精神同士を目に見える形で直に戦わせればいい。これが、『ジョジョ』第三部のモチーフ。

『ジョジョ』以前にも、この手の「人の精神力の戦い」を描いたものはいろいろ存在した。輒すなわち、「超能力対決漫画」である。

まず、横山光輝よこやまみつてるの古典的名作『バビル2世』。この作品の影響は大きい。「第3部」の主人公である承太郎や花京院がいつまで経ってもどこにいても学生服のままなのは、まさに「バビル2世」の主人公に倣ならったものだ。

少しあとには大友克洋おおともかつひろの『アキラ』がある。この作品こそはまさに「超能力対決漫画」の金字塔だが、大友にはこの作品とは別に『童夢どうむ』というやはり、超能力を持つ「子供」たちを描いた作品がある。目に見えない力が壁をドーム状にへこませ人を押さえつけるシーンは知る人ぞ知る名場面だ。

そして『ジョジョ』第3部。しかし、『ジョジョ』は「スタンド」という新たな表現システムを「発見」したことで、先行の「超能対決者漫画」とは一線を画す作品となった。

言ってしまえば、今までの「超能力対決漫画」は、どれも超能力を表すのに「結果」だけを描いてきた。例えば、いきなり頭が爆発したり鼻血が出たり、勝手に物体が浮き上がったり壊れたり、と言った具合。つまり超能力が発揮されたときに「なぜそうなるのか」は全く描かないままで、超能力が行使された「結果」だけを描いて済ませてきたのだ。それは、それまでの「超能力対決漫画」がずっと、超能力を持たない者の視点で描かれてきたということを意味する。「スタンド」以前、「超能力対決漫画」の作者たちは、超能力者の主人公を描きながら、自身は超能力を持たない一般人側に立っていたのだ。だから、彼らは、超能力の「結果」は描いても、「経緯・経過」を描く必要を「感じ」なかった。「超能力は分からないもの・見えないのもの」で済まして「平気」でいられた。いや、もしかしたら「一般人どころか、超能力者自身にすら、なぜそうなるのかは分かっていない」とさえ考えていたのかも知れない。まあ、表現者としては迂闊であり怠慢である。

だが、『ジョジョ』の「スタンド」が、それは違うと否定した。超能力者には「見えている」。なぜ、頭が爆発するのか・車が持ち上がるのか、超能力者にはその「経緯・経過」が「見えている」のだ。敵の頭が砕け散るのは、「スタンド」がその拳こぶしで敵の頭をうち砕いているからだし、車が持ち上がるのは「スタンド」がその両腕で持ち上げているからだ。拳銃の弾が空中で静止するのは「スタンド」がすばやくつかみ取ったからでしかない。そしてここが重要な点だが、『ジョジョ』は、それを読者にも見せた。つまり『ジョジョ』は、初めて、読者を「超能力者側」に立たせた「超能力対決漫画」でもあるのだ。

「スタンド」によって、超能力の「経緯・経過」を描き出せるようになったことは、単に、超能力の「説明」に留まらない「機能・効果」をもたらした。本来(?)地味なはずの超能力対決を、ド派手で変化に富んだアクション場面として描けるようになったのだ。

例えば、超能力対決の「紙一重」の勝利も、「スタンド」を使えば、その戦いの経緯を「リアルタイム」で「具体的」に読者に示すことが出来る。結果、その「紙一重」感を描き出す工夫をあれこれとできるようになる。もし「スタンド」がなければ、強力な超能力者同士が息を詰め黙って向き合ったあとで、どちらかがばたりと倒れる。勝ち残った方が「危なかった」と安堵の言葉を漏らすことで、読者は「事後」に、戦いの展開をある程度(なんとなく)推測できるだけだ。しかも読者には、一体何がどう危なかったのか、どの程度危なかったのか、具体的なことは何も分からない。第一、これだと、結局、誰と誰が戦っても同じ光景にしかならない。いつも「睨にらみ合い」と「ばたん」と「危なかった」で終わりだ。超能力者の対決を描くマンガで、最大の見せ場であるはずの超能力対決の場面がいつも地味というバカバカしい事態に陥る。その意味でも「スタンド」の発見は大きかった。存分に超能力対決の具体的な様子を描けるからだ。

「スタンド」は、超能力がなぜそのような現象を引き起こすかを読者にも見える形で説明してくれる。「目に見えない謎のチカラ」という超能力の定義を、「謎は謎だが、当事者である超能力者たちには見えるチカラ」(だから読者にとっても「見せられるチカラ」)という定義、つまり「スタンド」に、完全に置き換えたことが『ジョジョ』の最大の功績。

(2)「スタンド」の「変容」

ところが、である。長期に渡って描き続けているうちに、生みの親である作者(と担当編集者?)自身が「スタンド」の意味を変容させてしまった。

どういうことか?

つまりこうだ。作者(とその担当編集者?)は、超能力者の超能力そのもを擬人化あるいは映像化したはずの「スタンド」自身に、更に「超能力」を持たせてしまったのだ。まず、超能力者の能力が、一般人には見えない「スタンド」として、超能力者と読者に顕在化された。しかしその顕在化された超能力であるはずの「スタンド」自体が、更に、超能力者(「スタンド使い」)自身にも読者にも「見えない超能力」を持ってしまったのだ。言ってみれば、それは「超超能力」である。

最も分かりやすい例は、第5部に登場する「クラフトワーク」という「スタンド」だ(実は私がこの文章を書こうと思ったのもこの「スタンド」の登場がきっかけだった)。

「クラフトワーク」の能力は、触れた物体を空間に固定させること。自身の射程内、つまり能力を発揮できる範囲内であれば、あらゆるものを〔静止・固定〕させることが出来るのだ。たとえ、それが空中であっても。だから向かってきた弾丸なども空中で止めてしまえる。しかし、なぜ、そうなるかは全く説明されない。弾丸が空中で止まる「原因」や「経緯」は全く描かれない。つまり、「クラフトワーク」、がその「手」や「指」で「直」に弾を保持しているわけではない。「クラフトワーク」の射程の範囲に入れば、弾丸はただ止まるのだ。これは「クラフトワーク」自身が「超超能力」を持っていることを意味する。

この「変容・変化」は、初期の「スタンド」と比べてみると分かりやすい。比較対象は第3部の主人公承太郎の「スタープラチナ」だ。いい具合にこの「スタンド」も作中で弾丸を止めている。だが、「スタープラチナ」の弾丸の止め方は「クラフトワーク」の「超超能力」とは全く違う。「スタープラチナ」は「指で掴んで」弾丸を止めるからだ。「スタープラチナ」には「クラフトワーク」のような「超超能力」はないので、もし弾丸を掴み損ねると、弾丸は止まらない。(もちろん「スタープラチナ」が後に獲得する「時を止める」という「超超能力」を使えば可能だが、それはまた別の話)

「スタープラチナ」の「掴んで止める」という方法だと、掴んだ弾丸を「スタープラチナ」が離してしまえば、弾丸は下に落ちる。人間が持っているものを手放すとその物体が下に落ちるのと同じことが起こる。これは読者にも作中の「スタンド使い」にも自然で分かりやすい。しかし「クラフトワーク」の場合、「スタンド」の「超超能力」が効果を発揮していれば物体はずっと空中にとどまっているのだ。

この二つの「スタンド」(「スタープラチナ」と「クラフトワーク」)の違いが意味するところは、作者自身の〔スタンドの解釈あるいは定義〕の変容である。

初め、「スタンド」は「スタンド使い」が現実の物体に影響を及ぼすときの「チカラそのもの」の「映像」として描かれた。「スタンド」の振る舞いが見えさえすれば、物体がなぜそうなるのかは、「スタンド使い」と読者には分かった。「スタンド使い」が念じただけで物体が動いても、実は彼の「スタンド」が「実際に」その物体を動かしているのだ。しかし「スタンド」は連載が進むに連れ次第に変化し、「スタンド使い」の超能力の単なる「象徴」になった。こうなると「スタンド」の「ふるまい」を見ただけは、それがどんな能力を持っているのかは、読者はおろか「スタンド使い」にすら分からない。

「変容」した「スタンド」は「触っただけで」ありとあらゆることをやるようになる。破壊されたものを復元し、生命を生み出し、「通り抜けフープ」のよなジッパーを出現させ、肉体を若返えらせる。そしてなぜそうなるかは一切説明されない。さらに強力なスタンドになると、そうしようと「思った」だけで、時間までコントロールするようになる。もはや触ることさえしない(もっとも、時間を止めるにはどこを触れればいいのか、という問題はあるが…)。

スタンドの「超超能力」はそのスタンドの本体である「スタンド使い」自身にも、理解も説明もできない「謎の能力」なのだ。なぜかは分からないが、俺の「スタンド」にはそういうことが出来る、というレベルだ。

ここにあるのは、三段階の「能力」だ。まず初めは一般人にも理解と説明のできる「能力」。次が「スタンド使い」には理解と説明のできる「能力」。最後が「スタンド使い」にさえ理解も説明もできない「能力」。

一般人にも理解と説明のできる能力とは、ごく普通の、我々がよく知る物理法則にしたがった能力のことだ。体を使って、コップを持ち上げる・ドアを開ける・水を撒く、等々。

一般人には理解不可能でスタンド使いには理解できる能力とは、所謂、超能力だ。サイコキネシス、テレパシーなどは、引き起こされた現象自体は、フツウの人間にも出来ることだ。手を使えばコップは持ち上げられるし、電話を使えば離れた人との意思疎通もできる。つまり、ものを動かしたり、意志を伝えたりということ自体が「超能力」なのではない。それが「超能力」と呼ばれるのは、その一連の出来事に、あたかも、介在するものが全く存在しないかのように「見える」からだ。だが、もし「スタンド」の「介在」が「見えれば」、それは「なんでもないこと=当然のこと」になる。「スタンド使い」には「理解」が出来る「能力」とはそういうことだ。「スタンド」によって引き起こされたとしても、起きたこと自体は平凡な出来事だ。壊れた、ぶっ飛んだ、切れた、燃えた。あるいは体に入り込まれて(まるで催眠術のように)操られた。

しかし「スタンド使い」にも理解できない「超超能力」は、大半がそんな生半可な能力ではない。なんであれ、引き起こされた現象自体が異常なのだ。「真の意味での超自然的」と言い換えてもいい。それは「介在しているものが見えないから異常」なのではなく、どんな力が作用していても起こりえそうにないという意味で異常なのだ。そういう現象を引き起こす方法・手段・道具を人間は持っていないし、知らない。どうやって時間を止めるのか? どうやって鏡の世界に入るのか? どうやって一瞬で怪我を治すのか? どうやって人間をあっという間に老人にするのか? 「スタンド」の「超超能力」は、超能力と言うよりも、現時点では別の部類に属する現象だ。一般的にそれは、「奇蹟」あるいは「呪い」と呼ばれる。

「スタンド」は、そもそも、所謂「超能力」を説明するためのアイディアなので、それ〔以外・以上〕の「能力」の説明は最初から不可能なのだ。「スタンド」は、「カーテンの向こう側」から、人間のいる世界にちょっかいを出しているような存在。だから、「スタンド」がその「カーテン一枚隔てた向こう側」からどんな力を及ぼしても、それが理由で起こることは、必ず、人間の住む世界の物理法則に従っている。つまり「スタンド」と雖いえども、この宇宙の物理法則に背くことは出来ない。だから、「スタンド」が棚から壺を落とせば、その壺は、人間の世界の法則に則って、床に落ちる。途中で、壺に関わる物理法則が変化して天井にぶち当たるということはない。だが、「スタンド」の「超超能力」はその法則を破るし、全く理解不能の現象を引き起こす。(魂を入れ替え、宇宙の時間を一周させる)。


(3)「スタンド」の「暴走」

「超超能力」を獲得した時点で、「スタンド」は、作者にとって「無敵」の道具ツールになった。なぜなら、この世界の「不思議」の全て、幽霊も、死後の世界も、UFOも、多重人格も、呪いも、奇蹟も、異次元も、全て、スタンドの「せい」に出来るからだ(実際、『ジョジョ』学園卒業生の多くが、日常生活の中で、大小様々な不思議や危機に遭遇したとき、つい、「これは、スタンド攻撃か?」と思ってしまうはず)。

結局、つまりは、そういうことなのだ。
 
最初、「スタンド使い」の能力(超能力)そのものとして描かれた「スタンド」が、いつの間にか、「スタンド使い」から自立した「超人=魔物=悪魔=神」として描かれ始めた。「スタンド使い」と「スタンド」の関係が、ちょうど一人分横にずれてしまった。つまり、人間である「スタンド使い」は、「スタンド」という超能力を持っている。そしてその「スタンド」自体が自立した存在として、更に「超スタンド」とでも言うべき「超超能力」を持っているのだ。そしてこの「超超能力」は、もはやなんの制約を持たないので、作者はあらゆるアイディアを割り当てられる放り込める。

このズレは、読者にとっても作者自身にとってもあまり意識されていない。しかしこのズレこそが、「スタンド」の「物語制作上の道具」としての「無敵さ」を実現している。つまり、「時間を止める」「人間を爆弾に変える」「生命を生みだす」といった「大だいそれた能力」を、所詮は生身の人間でしかない「スタンド使い」が直じかに持つのではなく、異形の魔物めいた「スタンド」自体が持っているというところに、妙な説得力と「安心感」が生まれるからだ。いや、勿論、結局は「スタンド使い」の能力には違いないのだが、実感として、読者は、「スタンド使い」とは、〔そういう恐ろしげな能力を持っている「スタンド」という「魔物的存在」〕を所有している人間というふうに見てしまう。猛獣使いや、悪魔と契約しているメフィスト的存在としみなしているわけだ。

或いはそれは、最初は「誤解」であった初登場時の承太郎の自身のスタンドに対する理解(「悪霊に取り憑かれた」)が、巡り巡って、結局は「正しい理解」になってしまった、ということかもしれない。

いずれにせよ、『ジョジョ』がここまでの長期連載作品になったのは、「超超能力」を獲得した「スタンド」が持つ、この「自在さ」が要因の一つなのは間違いない。

(アナトー・シキソ)

2001年6月11日初出
2012年8月21日改訂
2019年9月04日改訂
2022年12月19日大改訂

2022年12月16日金曜日

「ライアーゴチ」:メモ

最近全然観てなかった「ゴチになります」だけど、挑戦者の中に一人だけ値段が載っているメニューを持っているライアー(liar・嘘つき)が混じっている特別ルールでやるとテレビ欄に書いてあったので、久しぶりに観てみた。要するに「ゴチ+人狼」。人狼系は〔テレビ+芸人・タレント〕と相性がいいから、どんな感じになるか興味があったのだ。

実際の番組は、普段どおりに「ゴチになります」をやって、全員の順位を発表したあとで、ビリになった挑戦者がライアーを見破ることができれば、飲食代はライアーが支払うという、一種の〔一発逆転=救済〕ルール。人狼的面白さはあまりなかった。

それはそれとして、もしも自分がゴチでライアーだったら、必ず「ピタリ賞」(100万円)を取りに行く。というのは、ライアーは、「頼んだメニューの値段を当てる」という元々の「ゴチ」のゲームには「参加」してないから。つまり、八百長でもしない限り、自分がビリになって支払いをする羽目になることは「絶対」にないのだから、自分がゲームとして愉しめる部分は、100万円を取れるか取れないか、というソコになる、と考えるから。もう一つの期待は、そうやって、ライアーである自分が「ピタリ賞」を取ったときに、他の挑戦者が自力でピタリ賞を取るかもしれないこと。そうすると、番組は、俄然盛り上がる。一回のゴチでピタリ賞が二人も出ることは、まず、ないので、二人のピタリ賞のどちらか一方が、ほぼマチガイなくライアーだ、という展開になって面白い。

2022年12月13日火曜日

脱出ロケットを回収してもしなくても、マ・クベはソロモン戦に間に合わない

「ドズルがゼナたちに会うために司令室にいなかったから、ソロモンはソーラーシステムを食らった」とか、「脱出ロケットを回収したせいでグラナダからの援軍は間に合わなかった」とかいう岡田斗司夫の解釈にはいちいち不満がある。いちいちと言っても、根っこは同じ。それは、岡田斗司夫が、人間がそういう行動を取ることの「意味・重さ」にピンと来ないせいで、それらの〔行動・場面〕を「戦争の趨勢を左右した出来事を描写したもの」としか理解できないことからくるもの。なので、不満の対象は、実は、たった一つということになる。

それはともかく。

本論の主題の説明をする(さっき便所掃除をしていて、嗚呼、書かなきゃと思ったので)。と、言っても別段込み入った話ではない。極アタリマエに考えて、マ・クベが何をしようと、グラナダからの援軍は間に合ないのだ。因みに、私の記憶が確かなら、分かりやすさをモットーにしている劇場版では、シャアも「間に合うとも思えんが」と呟いてくれるし(シャアがその時どこにいたのかは知らないけど、要請があったんだから、月の裏側よりも遠くはなかったのだろう)、永井一郎のナレーションも「明らかに遅すぎる援軍が出発しつつあった…」的なことを言ってくれる。が、そんな富野さんの親切などなくても、グラナダからの援軍がとうてい間に合わないことは、TV版のみで判断できること。何のことはない、ソロモン攻略戦を計画した連邦軍の側に立って考えてみればいいだけのこと。ほら、わかったでしょ?

【蛇足】
連邦軍は、当然、グラナダからの援軍がソロモンに到着する前に、決着をつけるつもりの攻略作戦を立てている。そのための「ソーラーシステム」という早期決戦用大規模破壊兵器。いくら「無能」な連邦軍でも、「ドズルは絶対に援軍など求めない」という前提で攻略作戦を立てやしない。こちらがソーラーシステムを使って、ソロモン側が「こりゃまずい」となり、「それ!グラナダに援軍を要請だ!」となってから、実際にグラナダからの援軍がソロモンに到着するまえに、勝負をつけることができると踏んだから、連邦軍はソロモン攻略作戦を実行したのだ。

と、今、言ったことは、、当然、ジオン軍側も「気づいている」(=ソロモンからの〔連邦軍の攻撃を受けたという一報〕から〔援軍要請〕までの時間の「短さ」や、〔連邦軍が「新兵器」を使用した〕という具体的な報告などから)。つまり、「こりゃあ、連邦軍は、〔グラナダからの援軍問題〕を解決・回避したソロモン攻略作戦をやったんだな」と。要するに、グラナダから援軍が発進した時点で、キシリアもマ・クベも、そして多分、バロムさえも、「間に合わない」のは分かっていたのだ。援軍の発進は、多分に、政治的な意味合いや、軍の士気を保つための「形式」に近いもの。だから、マ・クベとバロムの〔脱出ロケットを回収する・しない〕対立は、〔ソロモンに間に合う・間に合わない〕の場面ではなく、マ・クベの人間としての「鈍感さ=冷酷さ=冷淡さ」を描いた場面になる。

そもそも、あのときのマ・クベは、もう、全然やる気がない。彼は、キシリアから「名誉ある任務」を与えられて、ソロモンに向かっているのではないからだ。むしろ逆。―――という話は、後で書く「キシリアを絡めて考えるとマ・クベがよく分かる」説で。

2022年12月12日月曜日

『銀河漂流バイファム』:メモ:15話まで観た

『バイファム』、好いよねえ。見続けるほど好くなっていく。「巨大ロボットアニメです」と「嘘」をついて、じっくりと人間ドラマを描き続けている。「おもちゃ屋を騙して」作った『ガンダム』は、それでも毎回、主人公ロボットが登場したり、無駄な合体をしたり、敵が「毎週のように」新型「ロボット(モビルスーツ)」を繰り出したりして、「巨大ロボットアニメ」の「義務」の実践を強いられていたから、それと比べると「表現の自由」を手に入れてるなあ、と思う

で、今回の15話を観ていて思ったけど、それぞれまったく源を異にする進化の果てに高度な知的生命体となった異星人同士の姿形が、互いにそっくりになる確率って、どれくらいなのだろう? フツウに想像したら、似たとしても、まあ、『スターウォーズ』や『コブラ』に登場する異星人同士の感じだろう。『バイファム』のように、医学的によーく調べなければ見分けがつかないくらいソックリなら、それはきっと、もともとは同じ「種」くらいのものだったと考えたほうがいい気がする。『イデオン』の地球人とバッフ・クランもそうだよね。コッチの場合は混血児までできるのだから、生物学的には、異種どころか同種だよ。

日本のアニメに多い、地球人ソックリの異星人は、物語自体が、地球人同士の争いの暗喩メタファーになっているからなのは、勿論、承知しています。

岡田斗司夫を悩ませた「無意味」な三択

今日(2022年12月11日)配信の「サイコパスの人生相談」で、岡田斗司夫が「なんで、こんな分かりきった三択の質問をしてきたのか?」と頭を悩ませた。

答えは簡単で、質問者は「彼の子供を生むことが第一義ではない」からだ。

選択肢はこんな感じ(正確に知りたければ配信動画を観てね)
①彼に、アナタの子供を生みたいと打ち明ける。
②現状を維持しつつ、他の男も探しておく。
③コンドームに穴を開けて、強行突破的に彼の子供を生む。

質問者が「彼の子供」を生みたいだけ(=相談内容に対する岡田斗司夫の「理解」)なら、実は、選択肢①と選択肢③を分ける理由がない。輒ち、「(選択肢①)彼に、アナタの子供が生みたいと打ち明け、拒絶されたら、諦めたふりをして、(選択肢③)コンドームに穴を開けて、強行突破をする」という形で、2つの選択肢を統合して構わないからだ。しかし、実際には、選択肢①と選択肢③が別々に存在している。その理由は、選択肢①には、「子供を生むことを彼に拒絶されたら、質問者は、彼の子供を生むことを諦める」という、質問者の「意図・心づもり」が存在するからだ。

そうなると、選択肢③の意味合いも変わってくる。単に「彼の子供を生む」だけの目的で、質問者は「コンドームに穴を開ける」のではない。コンドームに穴を開け、妊娠した(子供が出来た)という既成事実を切り札として、彼に、質問者が生んだ〔彼の子供〕の存在を「受け入れさせたい」のだ。ここでいう「受け入れさせたい」は、法律的に認知させたいとか、生まれた子供のために結婚してもらいたいという意味ではない。もっとも一般的な意味で、ただ「認めて・承認して」もらいたいだけ。質問者が生んだ子供が、彼の子供であることを、彼がアタリマエとして認めている世界(関係性)を作り出し、結婚制度とかそういうものとは無関係に、ただ、その子供の父親であることを、彼が「フツウ」に受け入れ、質問者とその子供に対しても「フツウ」に振る舞ってほしいのだ。

だから質問者の目的の第一義は、「質問者が生んだ〔彼の子供〕を、彼が自分の子供として認めている状態を実現したい」ということ。この第一義が実現されないなら、彼の子供を生んでも仕方ないし、生むつもりはないのだ。

選択肢①を選んだ場合、彼の子供を生めるかどうかの確率が半々で、それがギャンブルになるのだが、選択肢③を選んだ場合は、子供は「確実」に生めるが、その後の彼の「出方・反応」が読めないので、そこがギャンブルになる。こちらの場合は、彼の子供を妊娠した(生んだ)質問者と、彼との関係性が賭けの対象になる。つまり、第一義に触れるのだ。それが質問者の悩みで、結果、「サイコパスの人生相談」となる。

さっき、質問者が単に彼の子供が生みたいだけなら、選択肢①と選択肢③は統合できると書いたが、「質問者と彼の関係性を過度にこじらせないままで、彼の子供が生みたい」のなら、選択肢③は、選択肢①を実行する際の「武器・脅迫ネタ・保険」を手に入れる手段になる。輒ち、選択肢③を実行し「無事」に懐妊したあとで、素知らぬ顔で選択肢①を実行するのだ。この時、彼が「質問者が子供を生むこと」を承諾すれば、質問者は、選択肢③が実行されたことを、彼に明かす必要はない(妊娠期間等で疑われたらバラすしかないかもしれないけど)。逆に、彼が「質問者が子供を生むこと」を拒絶したら、「武器・脅迫ネタ・保険」として、「すでに妊娠していること」を告げれば、彼からの承諾を得る確率は高まる(もちろんコンドームに故意に穴を開けたことは内緒)。しかし、彼が断固として、子供を生むことを拒絶し続けたら、もう、ぐちゃぐちゃ。うっかりしたら、両方の家族、両方の職場を巻き込んだ「醜聞」にまで発展しかねない。あるいは、質問者は誰も知らない町で密かにその子供を生み落すことにも成りかねない。質問者はそれを〔恐れて・忌避して〕いるのだ。いずれにせよ、「強硬手段」としての選択肢③は、質問者が彼の子供を生むための強硬手段ではなく、質問者が彼の子供を生んだことを、彼に認めさせる(法的な認知ではなく普通の意味で認めさせる)ための強硬手段なのだ。

だから、質問者の相談内容は、正しく(?)は「三面記事めいたゴタゴタに巻き込まれずに、比較的平穏無事に彼の子供を生む方法はありませんか?」となる。

と、そんなことをつらつらと思ったり思わなかったり。

2022年12月2日金曜日

ウルトラ主題歌:メモ

『シン・ウルトラマン』鑑賞きっかけで、歴代(Qからレオまで)のウルトラ主題歌を聴き比べてみた。 You Tubeに便利にまとめてくれた動画があった。

ウルトラQ:既に古典。もはや番組から独立した千年残る名曲。work outのときには『ロッキー』のテーマ曲、ノルカソルカの大作戦が発動したときには『エヴァンゲリオン』のティンパニーがボンボン言うあの曲(タイトル知らない)と同じで、怪しく不気味なあの独特な雰囲気がほしいなら、ウルトラQの「デデデデ、デデデデ、デデデデ、デデデデ、デデ〜ン、デデ〜ン♪」

ウルトラマン:前にも書いたけど、名曲。リズムパートのファンキーさにメロメロ。

ウルトラセブン:これも以前に書いたけど、ただの軍隊マーチ。或いは自衛隊のテーマ曲(があるのかどうか知らないけど)

帰ってきたウルトラマン:序盤は初代のファンキーさを踏襲。しかしすぐに、すぎやまこういち節になる。すぎやまこういちさんに、初代の主題歌の編曲を頼んだら、こうなった、という感じ。「ウルトラマン+ドラクエ」。

ウルトラマンA:ド直球の軍歌。第二次大戦中の小学生男子が歌ってそう。「ウルトラマンエ〜ス♪」のところを、「戦艦大和」とか、「皇軍」とか、そういう不穏なものに置き換えてもまったく雰囲気が壊れないのが怖い。

ウルトラマンタロウ:完全に子供向けヒーロー番組の主題歌。ちょっと浪花節。

ウルトラマンレオ:まんま、熱血スポ根ドラマ・アニメのテーマ曲。『巨人の星』とか『侍ジャイアンツ』とか『アパッチ野球軍』とか、熱血野球アニメ風。あと、『空手バカ一代』(アニメになったのかどうか知らないけど)も。主人公レオも空手使いだしね。

2022年11月22日火曜日

『シン・ウルトラマン』:メモ

なにかと名作扱いされる『ウルトラセブン』の作品の主調音は「妙に真面目」だが、兄貴分の『ウルトラマン』の作品の主調音は「けっこうファンキー」。それは両者の主題歌の違いにも出ていて、『セブン』の主題歌は、言ってしまえば、ただの「軍隊マーチ」で、音楽的には全くつまらないが、『ウルトラマン』の主題歌のノリは実に素晴らしい。主題歌に関して言えば、『ウルトラマン』の圧勝。

で、今回の『シン・ウルトラマン』だが、ちゃんと先祖のファンキーさを引き継いでいて好かった。でも、物語としての「内容」は何もない。「設定」オタクが、「自分ならこうする」という「リアル設定」を描くためだけにでっち上げたお話なので、全編、英語学習用の会話(ダイアログ)みたいな印象。他の目的のために用意されたモノ特有のありあわせ感や即席感と言い換えてもいい。

あと、ちょいちょい出てくる「女優陣の顔をドアップ」がイヤだった。いろいろと見えてないふりしなきゃとか思って、変な気を使う。高解像度も良し悪し。山本耕史のメフィラス星人は愉しかった。

2022年11月20日日曜日

今日の猫さん(2022.11.19)

 

談志の右手



『新ドキュメント:太平洋戦争1942』後編:メモ

録画して放置してあった『新ドキュメント:太平洋戦争1942』を観た。この手の番組を見るたびに、そもそも、世界戦争を戦うようなウツワではなかったのだと痛感する。軍部や政府だけではない。当時、大日本帝国を名乗っていた人間集団の上から下まで全部が、まるごと、「ウブな世間知らず」。

2022年11月18日金曜日

松田優作/ブラック・レイン秘話:メモ

 NHK「アナザーストーリーズ」の松田優作/ブラック・レインの回を観た。多くの人が、松田優作の運命を「せっかくチャンスを掴んでこれからという時に」的に捉えるが、逆。ぎりぎり間に合ったのだ。

あと、この番組でナレーションを担当している濱田岳が、何故か毎回すごく変な声を出していて、嫌だったんだけど、今回は、そこまで変な声じゃなかった。誰かにナニカ言われたのかな?