2018年4月30日月曜日

3-5:検査診断処方箋


十年以上前から年に三回ほどある夜中のノタウチマワルような腹痛で、今回初めて夜間の急病の診療を看板にしている病院に行ってみた。タクシーの運転手は「私も覚えがありますが、それ、盲腸ですよ」と云った。苦しいので黙っていたが、無論盲腸ではない。年に三回十年以上盲腸になり続ける者はいない。

病院の待合室には昼間と同じだけ診察待ちがいた。急病人を相手にしている病院だからてっきりすぐに診てもらえると思っていたのでアテが外れた。その上、待っているうちに痛みが和らぎ、宿直医の前に座った時にはだいたい治まってしまった。正直にそう云うと、若い医師は「そうですか。じゃあ、診ようがありませんね。もう帰っていいですよ。一度、どこかでちゃんと検査してもらってください」と、詐欺師のような仕事ぶり。

少し経ってから昼間に時間ができたので、詐欺師の助言に従って胃腸専門のクリニックで胃カメラを飲んだ。胃腸の専門医はカメラを操りながら「十二指腸に潰瘍があるけど、こんなのはまだ軽い方で、本当にひどいのになると血を吐くからね。だから、原因はコレではないだろうね」と云った。検査のあとで椅子に座って話をした。「いつも夜中過ぎの明け方前に痛くなるでしょう?」と訊くので、そうだと答えたら、「症状が出た日の前の晩にどんな食事をしたか思い出してご覧なさい。食べ過ぎてたり、脂っこいものを食べてたり、アルコールを飲み過ぎてたりしているはずだから」と云った。ホールで買ったチョコレートケーキをバカ喰いしたのを思い出し、それを伝えると「まず、間違いなく膵炎です」という診断。更に、夜中に痛みで苦しむのが嫌なら、何より食べ過ぎないことで、脂っこいものやチョコレートのような重たいものも控えた方がいいという助言。今度もし症状が出たらどうすればいいのか訊いたら、薬はないので我慢するしかないという無慈悲な回答。
「あとは絶食」
絶食?
相手はうなづく。
「膵臓を休ませるんです」
飲んでいいのは水くらい?
「いやいや。水もダメです。症状が出ている時に胃に何かを入れるのが、この病気には一番よくないわけですから、絶飲絶食です」
胃薬が効かないわけだ。
「むしろ、余計苦しくなったはずです」
そんな気もする。
「そもそも胃が痛いわけじゃないから、胃薬なんて飲んでも無意味です」

会計で処方箋と最寄りの薬局の場所がプリントされた地図を渡された。「コビ薬局」。東隣のビルの一階にある。

2018年4月29日日曜日

3-4:客室係


まず第一に歩いて通える距離であること。バイト先を決める時の常に変わらぬ第一条件。電車もバスも自転車も不確定要素。その道は帰宅困難者へと続く。自動車通勤は論外。渋滞、ガス欠、故障、そして人身事故。そもそも自動車に使える毎月のカネがあるなら働かない。本末転倒とはこのこと。

面接のおばさんが念を押す。
「普通のホテルじゃないですよ」
微笑みと共に頷く。
「分かってますか?」
再度微笑む。
「そう…」
面接のおばさんは履歴書に目を落とす。
「で、なぜウチで働こうと?」
だから、一番近かったので。
面接のおばさんは変な顔をした。
採用。

黄緑色の間抜けな半袖制服を着て、日替わりの二人一組で仕事をした。或る日組んだ老婆は「私はやめないよ。ここも大変だけど、どこに行っても同じだから」と云った。別の日に組んだ若いシングルマザーは「子供育てなきゃならないからさあ」と煙草を吹かして笑った。他のパートから毛嫌いされて「チェック係」(誰とも組まずに一人でする仕事)に回された或る60女の弁当はいつも漫画の爆弾のようなまん丸の大おむすび一個で、「うん、これがね、これが一番簡単で、簡単なのよ」と、誰からも訊かれてないことを、誰の目も見ずに話した。

どこにでも人間はちゃんといて驚く。

或る日の夕方、鬱陶しいことを云う無線機に向かって「云いたいこと」を云ったら(空腹のなせるワザ)、同じ無線機がすぐに支配人室に来るように云った。行くと、椅子に座ったスーツの男がいた。初めて見る。頭から湯気を出して色々云うが、実態は、聞いて覚えただけの云い回しを状況に応じて並べているだけの「人工無脳」で、思わず笑みが漏れた。それを見てまた相手が怒りを爆発させる。しかし、実力を伴わない怒りの爆発はウケない一発ギャグと同じだとコビもラジオで云っている。ナニゴトもなく休憩室に戻ったら、キヨミズ君がスゴイと云って感心した。キヨミズ君はいつも疲れた様子の年下の先輩だ。
「イヤ、ホント、この会社にアンナこと云って、それでクビにもならず、辞めもしないって…こんなヒト初めてですよ、フフフ…」

しかしその2ヶ月後に、他にやりたことがあると嘘をついて辞めた。本当は、もうすぐ暑くなることに気づいてゾッとしたのだ。やたらに腹が減るのも不経済で不健康。なぜか「パートさんたちのリーダーとして頑張ってほしかったのに」と引き止められた。
冗談でしょう。
最後まで笑わせてくれる職場だった。

2018年4月25日水曜日

グルグル眼鏡


グルグル眼鏡のアイツが友達。
ちっとも勉強しないアイツが眼鏡で、
勉強している僕の顔には眼鏡がない。
あのグルグルで、空を見あげる。星を見る。
何か見つけて、拾って帰る。
あのグルグルで、世界の渦巻き探してる。

溺れたのに死ななかった


溺れたのに死ななかった。
ぶくぶく沈んで底まで行った。
息することを思い出さないようにして、
そのまま岸までどんどん歩いて助かった。
でも、それきり息することを忘れてて、
夕べ思い出した時には、もう死んでいた。

突然、出て行った


突然、出て行った。
置き手紙もない。
ケータイも置いたまま。
心当たりを全部調べてまわった。
でもいなかった。
ちゃぶ台の前に胡座をかいて、
缶ビールを開けたとき初めて気が付いた。
右足の裏の「サヨナラ」の四文字。

手術が長引いてる


手術開始から、はや七年。
手術室の赤いランプは一向に消える気配がない。
時々、医者や看護師が出入りして、
通りすがり、長椅子の僕に向かって、
大丈夫ですよ、安心して下さい、
などと云うが、僕は心配でたまらない。

2018年4月24日火曜日

3-3:非デジャブ


海の近くに泊まる。土地の名前は先住民の言葉で「釜をかけたり」。ホテルは木造モルタル二階建てで、古くもないし新しくもないが、清潔感はあり気分がいい。そして当然海が近い。部屋にある小さなベランダの下は砂浜だ。無論、砂浜に建っているわけではないが、砂浜ギリギリには建っている。ベランダの手すりから身を乗り出すと、下は砂浜だ。窓枠の風景もまるで海の上。しかし、散々フェリーで揺られてまた海かと思わせないところが海の面白さ。

晩飯。下のレストランに行く。他に客はいなかった。そもそも泊まり客自体が他にいない。気配がない。図らずも貸し切り。茸のパスタと地ビールを気分良く平らげる。

部屋に帰ってテレビをつけると、視聴者の依頼を探偵に扮した芸能人が調査する番組をやっていた。しばらく眺めていて、既に観た内容だと気づく。新聞を調べたが再放送ではない。しかし確かに既に観ている。デジャブではない。デジャブは所詮あと出しジャンケンだが、これはそれとは違う。展開と結果を先に云える。つまり、デジャブではない。

CM。女の声のナレーション:
デジャブ。今初めて見たものを既に知っていると感じる時、実際には「今この瞬間」の知覚すなわち体験が、瞬時に「過去」に送り込まれ、過去の体験として「思い出される」のです。故に認識者がそれを「既に知っている」と思うのは自然な反応です。認識者が「以前から」と思う、その認識自体は実は誤りでありません。なぜなら、厳密に云えば、どんな知覚=体験も、脳による処理の過程で、全て「過去」の出来事になってしまうからです。脳は、体験と認識との時間差をあらかじめ織り込み、それらを「同時」と錯覚させる或る種の「嘘」をつくことで、私たちの日常体験の根幹を支える重要な機構となっているのです。デジャブについてお悩みの方、更に詳しくお知りになりたい方は、是非、当社まで。C-O-B-E。私たちはコービーです。

仏壇屋のCMに変わった。大昔の幼児が手を合わせる。
テレビを消した。今は睡魔。これをどうにかしたい。無闇に大きいベッドに潜り込み目を閉じた。

目を開いた。暗い。日の出前。どれほど眠り続けるだろうと思ったら、翌朝普通に目が覚めた。睡眠負債の案外な低金利。ともかく、フェリーで取り損ねた分は全て取り戻した。

朝飯後に近所を歩いて、一軒しかない食料品店で梨を買った。部屋に帰ってから、食料品店で借りた包丁でその梨を切った。

2018年4月23日月曜日

3-2:四半世紀人


先住民の言葉で「砂の入江」。そういう名前の海岸に来た。迎えの者が是非にと勧めたからだが、本当は勧誘者自身の念願。脇道に入って車を降り、崖を下った普通の砂浜の「立ち入り禁止」の向こうに見上げる崖の途中の奇妙な建物。
「竜宮です」と迎えの者。
竜宮は海の底ですよ。
「竜宮です」
迎えの者は満足げだ。確かに建築様式が独特で浦島太郎が一杯やっていそうだが、アメリカ映画に出てくる忍者を連想させる違和感もある。少しすると迎えの者が「ちょっと失礼」といなくなった。来た崖の上にオバケ公衆便所があった。一人になると睡魔が勢力を盛り返してきた。堪らず近くの岩に腰を下ろし目を閉じる。

「ちょっとヨロシイかしら?」
肩を叩かれて振り返ると、怪士(あやかし)の能面のような顔の女が立っていた。女はニジューゴネンジンについて話したいがいいかと訊いた。
ニジューゴネンジン?
「正確にはその優しさの源についてです」
どうぞ。

怪士面の女の話:
ニジューゴネンジン、別名〈四半世紀人〉は生まれて25年経つと子供を産む。その点で、有名な〈17年ゼミ〉いわゆる〈素数ゼミ〉と似ている。(無論25は素数ではありませんよ)。ニジューゴネンジンの赤ん坊には両親が居る。その両親は25年前に生まれた。更にその25年前に祖父母が生まれ、その更に25年前には曾祖父母が生まれた。(彼らが四半世紀人と呼ばれる所以です)。人数は、最初の赤ん坊が一人。次の両親が二人、祖父母は4人、曾祖父母は8人。それぞれの人数を2の累乗で表すと、指数はそれぞれ、0、1、2、3。指数は百年で4カウントずつ増えていくので、千年でざっくり40になる。(あくまでザックリとですが)。現在のニジューゴネンジンの人口は70億。四十年前は30億。千年前はもっとずっと少ない。しかし上の計算に従うなら千年前の先祖の数は2の40乗人。約1兆人。ここに論点がある。現実に生きた先祖の数が、計算上の先祖の数よりも何桁も少ない。この圧倒的不等号の〈意味〉を理解すること。

「つまり」と怪士面の女は云った。「全てのニジューゴネンジンは家族なのです。主義主張としてではなく、喩えでも希望でもなく事実としてそうなのです。これがニジューゴネンジンの優しさの源です」
そうなりますか…
「参加無料の講習会に是非どうぞ」
怪士面の女はパンフレットを差し出した。受け取って表紙を見ると、そこには「COBE主催」の文字があった。

2018年4月22日日曜日

3-1:ベンザ問題


フェリーを降りてから到着の電話をした。自家用車で迎えに来ると云う。
自分:何時頃?
相手:今何時?
時計を観た。午前9時。
相手:昼までに。
自分:昼までに?
相手:はい。
自分:じゃあそれで。
相手:はい。じゃあ。
電話を切った。(じゃあってなんだ?)

初上陸の最北の地。既にはっきりと寒い。ともかく待ち合わせの駅に向かう。歩き始めて気付いた。猛烈に眠い。思い返してみるとゆうべはいくらも寝ていない。なぜだかウトウトしているうちに朝になってしまったのだ。

駅に着いた。9時半にもなっていない。港町は港と駅が近すぎる。珈琲屋に入って一杯注文した。珈琲と煙草は人間の証し。動物にはどちらも必要ない。変なガラスの灰皿に灰を落とし、メニュー立てからメニューを取って開いてみるとノートだった。(メニューは床に落ちていたので拾って戻した)

【ノートの中身】
男が使用後に便座を下ろしておかないことを非難する女の中にも、そうと決めても使用後に便器の蓋を下ろしておくことができない者は多い。そもそも洋式便器の蓋は使用後に閉めておくためにある。故に、使用後に便座を下ろさない不埒な男も、使用後に蓋を下ろさない怠惰な女に対してだけはこう主張していい。「使った後の便座はちゃんと〈上げて〉おけ!」と。要点は、自分は蓋を下ろさないのに便座が下りてないことに腹を立てる女は、単に自分が使いやすいかどうかだけの都合で腹を立てているのだから、入ってすぐに立って小便が出来るように便座を上げておくべきだと男が主張したとしても、それを否定することは出来ないということ。(COBE)

なんだいこりゃ?
ページを繰ろうとしたら珈琲が来た。ノートを脇に置く。さっきは気付かなかったが表紙にも「COBE」。COBEといえばCosmic Background Explorerで、それならアメリカの深宇宙探査衛星。宇宙マイクロ波背景放射を最初に観測した衛星だが、まあ、関係は無いだろう。
「それ、私のなんで、返して下さい」
ウェイトレスが云った。〈それ〉とはノートのことだ。いつまでも帰らないのでオカシイと思った。ノートを手渡しながらCOBEの意味を訊いたが、無視/無回答。そのままノートを持って立ち去ってしまった。

外は曇って来た。更に寒そうだ。珈琲を啜る。人の気配に振り返ると、さっきとは違うウェイトレス。湯気の立つ珈琲を盆に乗せて立っている。
「あら、もう来てますね、珈琲」

2018年4月17日火曜日

2-9:鏡像


寒い。目が覚めた。納棺された夢を見た。棺は冷蔵庫。冷蔵庫が棺。庫内の温度は摂氏10度以下で夏でもドライアイスなしで遺体が痛まないのは発明だが、(死体の体温は室温のはずだから、室温より温度が低いと死体も寒いんじゃないかな)と、船室のベッドの上で震えながら考える。無論、道理は粉々に砕けている。夢の無重力の影響が残っているのだ。
重力は徐々に戻って来た。
口の中が苦い。
(歯を磨かなくては…)
洗面所の鏡の前に行く。
鏡にヒビが入っている。
ナニカをぶつけたのだ。
ぶつけたナニカはすぐに分かった。
鏡の中の顔が眉間から血を流している。
触る。
痛みはない。
顔を洗う。
顔を上げる。
鏡の中の眉間から血が流れ出す。
また顔を洗う。
また上げる。
また流血。
止血するものが要る。
(そんな都合のいいものがあったかな?)
タオルくらいは、と鞄を探る。
あった…だがタオルではない。
包帯の新品。
(いつの間に?)
鏡の前に戻る。
巻き方を知らない。
とにかく巻いてみる。
鉢巻き状にしてみた。
これでは眉間の傷を覆えない。
眉間を覆うにはバツの字に巻くしかない。
そうした。
鏡を見る。
まあまあだ。
血が滲んで来る様子もない。
(なぜだろう? たまたま巧く傷を塞いだ?)
まあいい。
残りを適当に顔の上下に巻きつける。
出来上がりを見て笑う。
ミイラか透明人間。
しかしこれでいい。
この顔に見覚えがある。
なるほど、と思う。
なるほどアイツはコイツだと納得する。
煙草をつける。
煙を吐く。
また笑う。
(そうだ。歯を磨くのを忘れてた…)
煙草を消す。
顔を上げる。
鏡の中に包帯でぐるぐる巻きの顔。
(一体、何のつもりだ?)
包帯を外す。
ゆっくりと巻き取っていく。
全て取って、顔中くまなく調べる。
傷も何もない。
巻き取った包帯を眺める。
捨てようかと思ったがやめる。
屈んで、鞄の奥に突っ込む。
体を起こしたときに耳の石がズレた。
目が回り、無重力が戻って来る。
(傷を負ったのは顔ではない。別の箇所だ。顔の包帯はその象徴に過ぎない)
ふらついて、バランスを崩す。
額をナニカにぶつけた。
割れる音。
(鏡?)
目眩が止まらず眼を開けられない。
それでも世界はグルグルと回り続ける。
(それはそうだ。誰も観ていなくても世界は回り続ける)
ドアをノックする音にハッとなる。目を閉じたまま返事する。フェリーが港に着いても下船していない客が居るというので乗組員が船室に様子を見に来たのだ。
了解し、すぐに降りる旨を伝え、目を開けた。

2018年4月16日月曜日

2-8:待合室


その25分後。

一人は顔面包帯巻きで詰襟。青い煙を立てて一人掛けのソファに腰を下ろしている。斜向いの二人掛けソファには二つの大きなジャガイモ袋が座る。
「中身はジャガイモではありませんよ」
ジャガイモ袋の一つが云う(男の声)。
「ただの年金暮らしの夫婦ですわ」
隣のジャガイモ袋がホホホと笑う(女の声)。
「コイツはつまり防護服です」

【ジャガイモ袋防護服の着用法】
(1)一人当たり二つのジャガイモ袋を用意します。
(2)袋に両脚を入れて胸まで引き上げます。
(3)別の袋を頭から被って腰まで下ろします。
(行政発行の小冊子より)

ジャガイモ袋の夫は小冊子を袋の中にしまう。

周囲を埋め尽くすガラクタは、家具、食器、家電、瓶と缶。裂けて垂れ下がった赤いカーテンと、ゴッホの渦巻きのように宙を舞う大量の塵埃。

夫のジャガイモ袋が云った。
「あなたのお顔の包帯も今度の爆弾で?」
相手が何とも答えないうちに妻のジャガイモ袋が
「まあ、それはお気の毒にねえ…」
空井戸に小石を落すとこんな音がする。ただ云ってるだけのオクヤミ。
「幸い私たちは二人ともどこも何ともありません」
「本当にありがたいことですわ」
「このジャガイモ袋のオカゲだよ」
「まったくね。家の中はメチャクチャになったけど」
「それでも怪我がなかったのはナニヨリさ」
「本当に」
床のガラクタの中から電気ポットが這い出した。両手に揃いの紅茶茶碗をぶら下げている。脛毛の生えた丈夫そうな二本の脚。大きく跳躍してテーブルに登った。電気ポットは夫婦の前に紅茶茶碗を並べ、安全装置を自分で解除すると、湯気の立つ中身を二つの茶碗に注いだ。
「あら、紅茶じゃないわ」
そう云って見せた中身は、月のない真夜中のようなブラック珈琲。
「状況を考えると贅沢は云えないさ」
「でも私ブラック珈琲は飲めないのよ」
「冷蔵庫に牛乳があったろう?」
「カフェオレね」
夫のジャガイモ袋から伸びた腕が、床に仰向けに倒れた冷蔵庫を開けた。
「おや、ダメだ。固まってるよ」
夫のジャガイモ袋は牛乳瓶を振った。
「きっと今度の爆弾の熱のせいだわ」
「いや。電気が止まったせいさ」
逆さにした牛乳瓶から白い液体がぼとりと落ちた。
「冷蔵庫が動かなくてそれで腐ったんだよ」

いや。電気は止まってない。冷蔵庫も冷えている。証拠は庫内に横たわる真っ白な凍死体。裸足の親指に「見本品」のタグがあり、捲ると小さな活字で「中身はレジでお渡しします」と書かれている。

2018年4月15日日曜日

2-7:テープレコーダー


あと一晩で港。明日には新天地。体力も神経も消耗するだろう。
早めに寝る。
枕に頭をつけたらナニカが当たった。異物。枕カバーに手を入れる。ある。取り出した。マイクロカセットテープレコーダー。テープが装着済み。イジェクトボタン。取り出す。裏表。手がかりなし。未知のテープを装置に戻す。
再生。
ハブが回る。
声)もしもし、エディ?
留守電のテープらしい。
声)そう、そりゃよかった…
ちがった。電話の録音だ。しかし相手の声は聞こえない。代わりに無音が挟まる。
声)でさ、ウン…そうなんだけど…
声)あの…大事なこと先に云っていい?
声)いきなりだけど、この電話盗聴されてるんだ。
一旦止める。
ナンダコレ?
まあ、いい。再生。
声)どこかに盗聴器が…(ガサゴソ音)あるはずなんだけど…で、たぶん録音もされてるから滅多なことは話せないんだけど…ないなあ、どこだろう?
声)そう。裁判で証拠にされるからね…
声)うん、そう、そのとおり。でも、もう構わないことにしたよ。
声)何って…トム少佐のことだけど。確かにいうとおりだと思ってね。あと、ジュディについてはこちらからは一切話さないから。
次々と登場人物。盗聴の事実を知りながら?
煙草をつけた。
声)ダメダメ。ここは今、禁煙だから。
おっと…。テープを止めて室内を見回す。船窓の円内は夜の海のはずだが今は何も見えない。ふうと煙を吐いて再生。
声)猫に遠慮してるんだよ。だから本当は禁煙じゃなくて断煙。つまり吸う本数を二十年に一本くらいに減らしただけで、やめたわけじゃない。
吸っても吸わなくても死ぬんだから吸えばいいのさ。
声)そういうのってやっぱり死神に魅入られてるんだろうけど、死神なんて実はどうってことないんだよ。死神が祟るのは生命だけだから。
へえ。
声)本当に厄介なのはMr.SoWhat。あれは知性に直接に祟るからね。
…?
声)ダカラナニ氏のことだけど?
急いで止めた。手帳を取り出して古い自筆のメモを読み返す。
>死神は所詮生命現象に祟るだけ。人間にとっての本質的な問題ではない。
>本当に厄介なのはダカラナニ氏。こちらは知性現象に直接祟る。
さっきより真剣に室内を見回し、テープももう一度調べてみるが何もない。
煙草を消す。
再生。
声)そう。魔女の仕業。
声)思考が電波になって漏れ出す。
声)装置じゃない。病気。こっそり感染させる。
声)そうさ。巧妙なのさ。
声)いや、治療法はあるよ。
声)患部の右手を切り落とす。

2018年4月10日火曜日

2-6:フランス式サンドイッチ


食堂は憂鬱なので売店で晩飯を買う。店員は外国人。労働力不足なのか。

これは?
「ロワイヤルチーズ」
ハンバーガー?
「そう。クォーターパウンダー」
どっち?
「どっちも」
どっちもって?
「同じ」
意味が分からない。じゃ、これは?
「サンウィチーズ」
チーズ?
「ちがう。サンウィチーズ」
サンドイッチ?
「はい」
この長いバゲットまるごと?
「フランス風。チーズ入り。私、毎日食べてる」
これを?
「はい」
全部?
「はい」
どうやって?
「齧る。今朝も齧った」
このまま?
「齧ります。美味しいですよ!」

買った。紙に包まれたサンドイッチを抱えて部屋に帰る。ベッドに座って紙を拡げる。切るものがないのでそのまま齧った。堅い。堅いがなるほど美味い。
確かに!
齧るちぎる噛む噛む噛む。齧るちぎる噛む噛む噛む。
美味いが疲れた。咬筋不足。一緒に買った不味い珈琲を飲んで休憩。
再開。
齧るちぎる噛む噛む噛む。齧るちぎる噛む噛む噛む。
もうどの辺だろう?
テレビをつけた。何も映らないつもりが映った。陸の近くを離れず進んでいるせいだ。但しこの地方CMは観たことがないし天気予報の地図も違う。航海が進めばこれからもう一度変わるはずだ。
サンドイッチを齧る。
トトトトンとドアを叩く音。開けた。背の高い顎の尖った男。
(船長?)
恰好はそうだ。雰囲気は全然。入っていいかと訊く。答える前にもう入っていた。猫背気味。長身のせい。ふたつあるベッドのひとつに腰を下ろす。
早口。
「まず現在から始めてすぐに過去に戻る」
分かったかとコチラを指さすので頷く。
「それから現在を跳び越えて未来を見せる」
人指し指に頷く。
「そのあとで現在に戻って物語を閉じる」
また指したのでまた頷く。
「するとどうなると思う?」
今度は指ささない。コッチも頷かない。
「それは何だい?」
サンドイッチだと答える。
「へえ…」
早口の男は本題に戻る。
「観客は主人公の過去と未来を現在のうちに見る」
そう云っておいて、いや待てと手を広げた。
「分からないだろう。うん、これでは分からない」
少し考え、おおそうだと顔を上げる。
「原因と結末の後で途中に戻れば…」
気を使って自発的に頷く。
「死を否定することなく、しかも永遠に生きられる」
どうだこれで分かったろうという顔。
珍紛漢紛。
「それ、少しイイかな?」
サンドイッチをねだられた。
渡す。
バゲットの尻にカブりつく顎の尖った男。
「なんだ…マヨネーズが入ってるぞ」
顔をしかめて、ゆっくりと口を動かす。

2018年4月9日月曜日

2-5:フクロウ


フェリーの大浴場の湯に包帯巻きの顔のまま浸かっていると、あとから若い裸がドヤドヤと入ってきた。混浴だったかと最初は驚いたが、いや、単にどちらかが間違えただけかもしれない、あるいは、或る特殊な接待ということもなくはない、などと考え直し、様子を見ていると、隣で茹っていた灰皿のような眼鏡が云った。
「あのフクロウたちは見かけとは違います」
灰皿眼鏡は湯の中から名刺を出す。完全防水仕様。灰皿眼鏡は派遣会社「梟の森」の社長で、裸のフクロウたちはその所属タレント。慰安旅行中だという。
「一緒に風呂に入って裸を見てもらえば仕事の宣伝にもなりますから」
しかし勝手に混浴にするのはどうだろう。
「いや、生物学的には混浴ではありませんからね」
つまり?
「だから、見かけとは違うと」
性改造人間?
「面白い云い方ですが、それならむしろ性改修人間です」
近くで見てもその完成度の高さはまるで天然物。とても人工物とは思えない。

巨大ディーゼルエンジンの排熱で湧かした湯に浸かった包帯と眼鏡と超性別連。全員無言で熱と水圧を堪能する。ふと閃き、包帯の中からイザという時の一本を抜き出し咥えた。しかし火がないことに気づく。すると隣にいたアフロヘアがモジャモジャ頭からターボライターを取り出して、ジェット噴射の青い炎で、湿った煙草に火をつけてくれた。
一服。
湯気と煙。
閃きを追った。
天然でも人工でも生命は生命。生物でも機械でも知性は知性。どちらも出自や機構には左右されない。出自は原因。機構は手段。しかし「女」はどうなのだろう? あるいは(同じことだが)「男」は? よくよく考えてみると、「女」も「男」も出自自体/機構自体なのかもしれない。「女」や「男」こそ、気の持ち様だと考えていたが、どうやらそうでもないらしい。現象として見た場合、「女(男)」は、生命に及ばないし、知性にも適わないが、物理と直結している可能性があるという点で、事実としてはその両方に優るのかもしれない。
「考えてますね?」
灰皿眼鏡が勘違いの目玉を動かし、安くしておくので一人どうかと勧める。
「このままお持ち帰りで構いません」
無論断る。
「滅多にないキカイだと思いますがね」
重ねて固辞。
「そうですか。ま、無理強いはしません」
「しかし性は虚構ですよ」と社長の唐突。「そうして虚構は母数つまりパラメータが全てです。ですから、例えば人工子宮装置が女でないのは母数が問題なんです」
逆上せた。

2018年4月8日日曜日

2-4:老人相撲


中央ホールでの余興はフェリー会社主催の相撲トーナメント。百歳王決定戦。百歳超えの老人達の戦い。決勝戦に間に合った。バーでホットミルクを注文する。胃の調子が良くないのだ。熱々を受け取り一口。仮設の土俵を遠巻きに立ち見。
東が白い締め込みの月ノ光(つきのひかり)。
西が黒い締め込みの黒蝙蝠(くろかわほり)。
双方ともに全身タイツの覆面姿。正体を隠すのは主に家族の希望(「いい歳をしてまったく…」)。どちらもヨチヨチ歩き。あるいはギクシャク歩き。仕切り線から塩の場所にヨチヨチ歩く。塩を摘んで投げる。それからまた仕切り線にギクシャク戻る。双方ともに蹲踞は出来ない。少し膝を曲げ、すぐに伸ばす。背中はずっと曲がり気味。ただし睨み合いだけは堂に入ってる。歳をとると体内時計の刻みが遅くなる。すなわち老人にとっての五秒は周囲の十秒。老人は少し植物に近づく。
たっぷり一分間睨み合った。
周りから拍手が起こる。お互いに目をそらしてその場を離れる。ヨチヨチ歩きで塩を取りにいく。ギクシャク歩きで仕切り線に戻る。
そしてまた一分間睨み合う。
それが延々と続く。いつまでも戦わない。
もうやるか?
…まだか!
最初大きかった拍手もパラパラになる。熱かったミルクもすっかり冷めた。コップを覗き込むと白い表面に黒いナニカ。小さい顔。
カンダタ?
地獄の血の池で浮いたり沈んだりしている。人間の血が赤いのは鉄分のせい。地獄の血には鉄分は含まれない。代わりに脂肪分が含まれている。すなわち地獄の血の池は白い。真っ白な血の池から顔を出すカンダタ。
いや待て。
鉄分の含まれていない血は酸素を運べない。それはまるで客車が一つもない機関車。むしろ鉄輪だけが鉄路を転がるようなもの。悪くはないが役には立たない。価値がない。しかし意味はどうだ?
意味だって?
小さく歓声が上がった。顔を上げ土俵に目を向ける。
どっちが勝った?
勝負有り!
行司の軍配が東を指す。すぐに審判の手が挙がった。物言い。審判たちが土俵中央に集まる。話し合いが済みそれぞれの場所に戻る。審判長がマイクを手にする。
「ただ今の協議についてご説明いたします。黒蝙蝠の心筋梗塞で行司軍配は東を上げましたが、月ノ光の脳溢血が先ではないかと物言いがつき、協議した結果、月ノ光の脳溢血が先に起きており、行司差し違えで、黒蝙蝠の勝ちといたします!」
少しの歓声と少しの響めき。パラパラの拍手。
そしてふたつの老人の死体。

2018年4月5日木曜日

椅子の男には逆らえない


端末をしまえ!
煙草を消せ!
上着を着ろ!
胃袋を黙らせろ!
あの窓の顔を追い払え!
その猫も叩き出せ!

椅子の男がガナリたてる。

議論は尽くされた!
採決の時だ!

僕らは誰も逆らえない。
なぜなら、僕らには椅子がない。

死神の事実


目立たない出で立ち。
死神が光る輪を手に世界を巡る。
人間は死に場所を選べない。
村、街、山、海。
孤島、戦場、アスファルト、畳。
移動は徒歩と公共交通機関。
自動車の運転は厳禁。
死神が人を殺すわけにはいかない。

地球を取り戻せ


海や土や川や森や空や命の占有権をめぐって人間が殺し合っている。徹底的に、最後の一人になるまで殺し合ってくれたら嬉しい。そしたら簡単だから。いくら人間でも、一人なら、俺たちチイサイモノにも簡単に殺せる。

2018年4月3日火曜日

鶏が怒ってる


鶏が怒ってる。相当頭に来ている。
立て篭ったファミレスの床を爪をカチカチ鳴らして歩き回る。

卵。鶏は卵が大嫌いだ。あの形。あの色。あの無言。
でもヒヨコは大好き。黄色くてふわふわだから。

早くヒヨコになれ卵!

月の人影


屋上で君は月の人影の話をする。
満月の時が見やすいと云う。
去年の祭りに屋台で買った千二百円の望遠鏡。
これで見ろと僕に手渡し、月を指さす。
ほら、今日は肉眼でも見える。
五千人くらいはいる。行列で歩いてるよ。

蚊だけを一瞬で消す装置


地球上の蚊を一瞬で消す装置が人類に手渡された。蚊だけを消し、他は何もしない装置だ。

蚊を憎む人類はスイッチを押した。

蚊が消えた。と思ったら、次々に他の生き物も消えていき、最後に、勝ち誇った人類も消えた。

書き順教


久しぶりに乗った路面電車で「書き順教」信者の一団を見た。噂どおり、本当に全員が黙々と掌で指を動かし、ナニカの書き順の確認か練習をしていた。
すぐに世界三大宗教の信者数を追い越しますよ。
教団トップの弁だ。

オンボロロボット


オンボロロボット。
八十年前に作られた原子力で動くポンコツ。
休みなく働き、今も働く。
黒い雨が降る燃えかすの大地に草の種をまく。
種はみんな腐る。
オンボロロボット。
CCDの目で昼の闇空を見上げて太陽を探す。

乾涸びたカエル


教室の窓際。埃の水槽。
乾涸びたカエルに水を数滴。
瞳が僅かに潤う。
更に数滴。
口が動く。コッと短い声。
カエルは死について何か云おうとしている。
だが、水はもうない。
カエルの名はグンター・フォン・ハーゲンス。

鉄筋コンクリートの男


鉄筋コンクリートから首だけ出して、
身動きできずに生きている。
蹴られ、踏まれ、躓かれる。
昨日は雨で潤った。
嗅がれ、睨まれ、突つかれる。
今日は太陽が暖かい。
鉄筋コンクリートの寿命は約50年。
絶妙なナガサ。

蝿の王


飛んでいる。
這い回っている
笑っている。
ゲラゲラ笑って、無闇に手をこすり合わせる。
突然黙り、ぴたりと動きを止める。
と思った矢先、バカ笑いで飛んでいく。
アイツ、蠅の王。
合成ピレスロイドの煙草を吹かしてる。

賑やかな景色


賑やかに見えるこの景色は、
実は一枚きりの大きな絵で、
街も人もただのアクリル絵の具。
でも、雨だけは本物で、僕は独りで傘もない。
雨粒は容赦がなく、僕はずぶ濡れ。
雨宿りをしようにも、ここには雨以外何もない。

朝起きたら死んでいた


気付いたら居たあの場所の、
手の付けられない情況の中、
翻弄され、あるいは打ちのめされ、
何度も朦朧となりながら、
怒りと嘆きと諦めと希望の果てに、
やっとのことでここまで辿り着いた僕ら。
朝起きたら死んでいた。

2-3:漂流者


朝の食堂が開く前に具合が悪くなった。核実験で生まれた怪物に近づき過ぎたせいだ。強めの放射線。その影響だろう。医務室に行く。
「船酔いだね」
煙草を咥えた船医が云った。火はついてない。睡眠薬を渡される。
また寝る?
「寝るのが一番」
さっき起きたのに?
「そのための睡眠薬」
ここで飲んでも?
「どうぞ」
水を貰う。眠くなった。
ベッド借りれますか?
「悪いね。先客が居るんだ」
覗くと半透明のビニールに包まれた大きな人体。
死体?
「まさか」
船医がビニールを少し開く。大きな顔が見えた。体温計を咥えている。
「…ないね」と体温計を振る船医。大きな顔が何か云った。
「疲れたって?」と船医。大きな顔は「Zigarette…」と口元を指さす。
「なんだ、煙草かい?」
三人で煙草を吸う。

大男は北極から流氷に乗って来た。海水温が上がって流氷が溶けてからは、ビニールに包まって漂流した。そこをビニールごとフェリーに救助されたのだ。救助された大男はドイツ語を喋る。フランス語と英語も出来る。だが日本語は分からない。船医とはドイツ語で話した。

大男:機能不全を起こした身体Aから脳Aを取り出し、一方で、脳死状態の身体Bから脳Bを取り除きます。脳Aを身体Bに移植するとき、延命されるのはAでしょうか、それともBでしょうか。

船医:人間の本質は人格すなわち意識だろう。意識は殆ど脳に由来する。だから、延命されたのはAになるだろうね。

大男:脳自体をツギハギにしたらどうですか。脳の一部を取り除いて別の脳の一部と置き換える。それを何カ所も繰り返しひとつの脳にする。その時その脳に宿る意識はどうなるでしょう。最大勢力を占める意識が全体となるでしょうか。複数の意識が混在する多重人格となるでしょうか。

船医:そのような脳の結合は少なくとも現代医学では不可能だよ。しかし、思考実験としては興味深い。

大男:私の脳は元は4人の人間の脳です。大勢が巻き込まれた爆発があり、その時、或る悪魔的な技量を持つ無免許外科医が現れ、4つの壊れた脳から一つの完全な脳を作ったのです。彼は、4人のうちの誰か一人でも助けようとしたのです。その脳が今私の頭の中にあります。しかし私は4人のうちの誰でもありません。4人全員が混在しているのでもありません。私は、謂わば、5人目の新たな人間なのです。

三人は黙って煙を吐いた。
寄せ集められた脳の断片を音という物理現象と考えるなら、意識とは旋律だろう。

2018年4月2日月曜日

2-2:眼帯


暗いうちに目が覚めた。大して寝ていない。オカマの丸太の長話のせいだ。甲板に出たら、少々寒いがいい気分。ベンチで煙草をつける。空が徐々に明るくなる。

手摺りに海を見ている男。煙草を咥えて隣に行く。挨拶をする。挨拶が返って来る。眼帯がトレードマークの有名な若い博士で、英雄的行為を讃える写真入りの新聞記事を読んだばかりだからすぐに分かった。
「見えますか?」
博士が水平線を指す。独特の輪郭は遠くてもよく分かる。核実験が生んだ巨大怪物で博士の超兵器によって抹殺されたはずだ。
「違うのです」
博士に煙草を勧めると「どうも」と一本抜き取った。煙を海風に飛ばし、「戦争ですか?」と、こちらの顔の包帯のことを訊く。曖昧な返事に博士は頷き「私は目です」と自分の眼帯を指した。この時代の身体欠損はありふれている。整形手術は戦争が生んだ私生児。いや、人類の持ち物の多くが戦争の私生児だ。
「ご覧なさい」
博士が指さすフェリーのすぐ横の海中を怪物が並走している。
いつの間に?
「つきまとわれてましてね」
博士がオモシロそうに笑う。それから唐突に、
「人間が戦争をやめない理由を考えたことは?」
生物は全て蹴落とし合いで前に進む。共存共栄は生物にとってただの妥協。潰し合いこそが生物の駆動力。善いも悪いもない生物の本分。そして人間にとって今や競合者は人間のみ。故に人間は戦争をやめない。生物である限り戦争は人間の一部であり続ける。
博士は頷く。
「私は更に一歩踏み込んでこう考えました。戦争は或る備えになると」
怪物が海上に首を出した。臭う。
「つまり、究極の怪物の出現に対する備えです」
だがしかし、戦争のための兵器開発競争自体がこの怪物を産んだ。
博士は笑う。
「この程度のものを究極の怪物とは呼びません。これはただの公害です。あるいは事故です。究極の怪物は宇宙から来るのです。それは人間の営みの埒外から容赦なく襲いかかる。小惑星の衝突や全球凍結。あるいは老いて膨脹する太陽。つまりは宇宙の季節の巡り。それが究極の怪物です」
怪物がこちらを向いて口を開いた。背びれが光る。博士は怪物の口の中に煙草の吸い殻を投げ入れた。怪物は海水になって海面に流れ崩れた。
「その時々の最恐の敵を凌駕し続ける。それが最後に現れる究極の怪物を退ける備えになるのです。何物にも脅かされない生存になることが生命の最終目標であり、戦争とは生命の最終目標達成努力なのですよ、これが…」

2018年4月1日日曜日

石の地図


半分に割れた石の地図をポケットに持っている。
もう半分は誰かが持っている。
この星の上を歩き回る僕とその誰か。
石の地図を作った宇宙人のレーダー。
二つの点滅が、近づいたり離れたり。
一つになるのを待っている。

脳味噌泥棒


テレビを観てる間に脳味噌を盗られた。
あの、脳味噌泥棒の仕業だ。
僕の脳味噌を背負った怪盗。
国際警察を手玉に取り、地球の上を逃げ回る。
寝て、起きて、歯を磨く僕。
今、四輪駆動に揺られ、砂漠を南に向かってる。

蟻と煙草と宇宙の終わり


一匹の蟻がビルの壁を急いでいた。
人間の男が知らずにそこに煙草を押し付けた。
摂氏七百度の灼熱。蟻は小さな炭になった。
伝えられるはずだったメッセージは永遠に失われ、
この宇宙の終わりが賛成多数で可決された。

宇宙の侵略者


僕たちは昔から、異星人による容赦のない地球侵略と占領を恐れてきたけど、逆に、いつか自分達が他の惑星を容赦なく侵略し占領してしまう危険性については無邪気なほど無関心だ。僕が恐ろしく思うのはその点なんだ。

線を引くサル


木の棒で、乾いた土に線を引くサル。
大気の縁で軌道を守り続ける銀色の人工衛星。
太陽と月。海と空。風。
ヒトが滅びて二週間。
砂漠で水を探す蜥蜴は、今日も水のことだけを考えて生きている。
携帯電話の呼び出し音。

剥製の人


剥製の人が云う。
僕には中身がない。あるのは外側だけだ。
でもどうだろう?
中身だけで外側がない人を君は人だと思うかな?
僕はほら、ちゃんと人に見えるぜ。
けど、逆に中身だけなら?
絶対化け物にしか見えないよな。

電気スタンド


朝起きた
猫を怒らせた
女を殺した
友達に会った
蛇口のセールスマンが訪ねた
あの家のドアを開けた
百歳を越えた
片目の召し使いのことを書いた
旅人が持っていた
手紙を盗んだ
十歳のスリが誕生日に貰った
電気スタンド
消した

フライングマン


位置についてでもう走ってる。
段取り無用のフライングマン。
ブッチギリで負け知らず。
ゴールテープが間に合わない。
布団に入ればもう寝てる。
寝返り無用のフライングマン。
夢の楽屋に乗り込んで、台本破いて大暴れ。

空の雲から裸足の足


空の雲から裸足の足が一本飛び出す。
膝から下の男の足だ。
町を一つ、踏み潰した。
自衛隊のヘリコプターが足のまわりをブンブン飛ぶ。
ぼくらは隣町のビルの屋上からその様子を見ている。
足りない単位の話をしながら。

僕の猫を埋めに行く


僕の猫が死んだので埋めに行く。
靴の箱に入れて。
公園で怒られる。
だから、電車に乗って、階段上って、コーラを飲んだ。
知らない男の人が僕から箱を取り上げる。
その男の人は神様で、
だから、僕の猫は天国へ行った。

2-1:丸太


誰かが激しくドアを叩いて、火事だ、と叫んだ。
飛び起きた。
天井の通気口の唸り声以外の音はない。午前2時半。船窓の外は海(真っ暗で何も見えないが今はどの辺りだろう?)。念のために部屋のドアを開けてみた。誰もいない。ひっそりと通路が伸びている。
寝直す。
すぐにウトウトとなる。そこで隣のベッドから話しかけられた。よく聞き取れなかったので適当な返事をする。
…目を開けた。
二人部屋を一人で占領しているのだ。
…見た。
隣のベッドで丸太が寝ている。掛け布団から頭(?)だけ出して。比喩ではなく文字通りの丸太だ。丸太が云う。
「これでも元は松の木よ。今も松は松なんだけど。松はイタリアではピノって云うの。かわいいでしょ」
喋る丸太だが動くことは出来ないらしい。シーツの下でぴくりともしない。取って食われることは無さそうだ。起き上がって煙草をつけた。
「ちょっと…煙草はいいけど火には気をつけてよ。松は油分が多くて燃えやすいんだから。それにしてもアンタ、よくそんなの顔に巻いて煙草が吸えるわね」
余計なお世話だ。
喋る丸太はそりゃそうねと答えて、自分の話を続ける。
「私、前は人間だったんじゃないかしら。だって、木なんてオカシイわ。木に人間の言葉が喋れるなんて。きっと元は人間だったと思う。まあ、全然覚えてないんだけど。つまり、呪いかナンカで丸太にされたのよ。どう思う?」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。
「実はもう一つ考えていることがあって、つまり、東洋のリンネっていう考え方。リンネでは生き物はみんな生まれかわる。死んでもまた生まれかわる。しかも違うものにも生まれかわる。虫で死んで犬に生まれかわるとか、人間で死んで花に生まれかわるとか、そういうの」
ただの棒切れにしては知識が豊富だ。
「ただの棒切れって失礼ね。ただの棒切れは喋ったり考えたりはしないわよ。私は特別な棒切れよ…て、棒切れってナニさ。きっと前世は人間。それもケッコウな人間だったはず。じゃなきゃ今こんな感じのはずがないもの。人間の言葉を覚えてるなんて」
輪廻思想では前世の記憶は全て失われるはずだ。
「それよ。前世の記憶がないのは凡人でしょ。特別な人間はちゃんと覚えてるのよ。お釈迦様だって全ての前世の記憶を覚えていたわ」
大きく出たね。
丸太は喋り続ける。
「ねえ、アンタ、私で人形作りなさいよ。そしたら動けるし、きっと色々とお役に立てるわよ」
間に合ってるから。