2019年4月4日木曜日

現の虚 2014-9-8【深い水の底に眠る】


窓から俺の部屋に入って来た暗視ゴーグルの女は、低血糖症で動けなくなった俺の顔にスプレーを吹き付けながら、世界のサカイメを支配するのは人の記憶よ、と云った。暗視ゴーグルの女は俺の後頭部に手を当てると、ゲーム画面を表示したコンピュータのモニターに俺の顔を押し付けた。てっきりブラウン管(恐ろしいほどの旧型なのだ)だと思っていたそれは実は水面で、俺は顔を水の中に押し付けられて息ができない。水中から顔を出そうと慌てて頭を引いたら、どう間違えたのか本当は引いた側が水中で、俺は鼻と口から思い切り水を吸い込む。ガラス張りの水槽の中でもがく俺は、硬質ガラスの向うに腕組みをして立っている暗視ゴールグの女を見つけ、助けを求める。するとなぜか女の声が耳元で囁くように聞こえる。

ここでは物理法則ではなく記憶が支配してるって云ったでしょう。助かりたければ自分の記憶の道を辿り抜けることね。

俺の眉間に小さな稲妻が走った。

深海プール。ここは深海プールの中だ。

慌てる必要はない。俺は真鍮で出来た頑丈な潜水服に守られている。太くて丈夫な管を通じて新鮮な空気も絶えず送り込まれている。プールの壁にはライトが灯っているから、深く潜っても決して暗闇にはならない。全てが順調。俺は潜水服の重みでゆっくりと確実に深海プールの底へと降りて行く。

深い水の底に、それは本当にあった。分厚いアクリル樹脂で出来た透明の棺。中には、長い髪の、だが手脚のない裸の白い女が横たわっている。いや、女は手脚がないのではなく、萎縮して(あるいは溶けて)小さくなっているだけだ。白い女の切り開かれた喉には、3本の管が差し込まれていた。赤と白の二本が気管へ、黄色い一本が食道に差し込まれていることを俺は知っている。更に、白い女の頭と体からはコードが何本も伸びている。それが枕元の装置に繋がって、装置はチカチカと赤や黄や緑の発光ダイオードを光らせていた。

俺は潜水服の腹のポケットから小瓶を取り出した。中身は合成樹脂を食べるバクテリアの濃縮液だ。ハチミツのようにドロッとした金色のソレを棺の蓋の上に垂らすと、少し凹んだ中央に集まって溜まった。見えはしないがバクテリアはもう食べはじめている。棺は三日と保たないだろう。

不意に白い女が瞼を上げ、俺を見た。白い女は無表情のまましばらく俺を見て、それからすっと視線を動かした。その視線の先には人間の右手がゆらゆらと漂っていた。