「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年4月12日金曜日
8-8:人体安置所
壁面がガラス張りの円形の人体安置所。ガラスの向こうを姥鮫の群れが周回している。シーツから足だけ出した人体を乗せた無数の安置台が整然と並ぶ。その間をレコードプレイヤーを乗せた車椅子を押して歩く青いワンピースの看護婦。後ろをヘッドホンをつけたソノヒトがついていく。ヘッドホンはレコードプレイヤーに繋がっている。レコードは回っている。針は溝をなぞっている。音楽はソノヒトの耳に届いている。
人体の多くは裸足だが中には靴を履いたものもあった。防ぎようのない手違いからソノヒトの靴も人体のどれかが履いているが、それがどの人体かはソノヒトが今聴いている音楽でわかるはずだ、と青いワンピースの看護婦は説明した。
暗い安置所の中を歩きながらソノヒトが聴いていた音楽は、逃げる男が岩や川や海に拒絶される歌だった。岩は叫び、川は血を流し、海は沸騰することで逃げる男を拒絶する。逃げる男は絶対者の不興を買ったのだ。絶対者の皮肉な勧めで向かった先で、逃げる男は遂に歓迎される。そこで待っていたのは、或る資格を持つ者にだけ、もはや逃げ回らずに済むだけのチカラを与えてくれる裏界者。歓迎は、逃げる男にその資格があることを意味する。
看護婦は正しかった。或る人体の近くに来た時、その足が、ソノヒトが聴いている歌に合わせてリズムをとっていた。看護婦に確かめると「間違いないでしょう」という答え。遂にここまで来た。ゴールは目の前だ。胸が苦しくなる感じを覚えながら、ソノヒトはヒクヒク動く靴に手を伸ばした。その時、その人体が、頭からシーツを被ったままでひょいと上体を起こした。
人体はシーツ越しに云った。
「死の超越?」
それからするりと足を組んで半跏座になった。
「永遠を獲得?」
人体は上半身を乗り出した。靴がシーツの中に隠れた。
「ダカラナニ?」
沈黙と不動。
シーツの人型がくにゃりと潰れた。下から一匹の猫が顔を出した。鋳造したての鉄の色をした猫。ソノヒトと目が合った。猫とソノヒトは見つめ合う。ヘッドホンの音楽が終わり、針が溝の終点で飛び跳ね始めた。ソノヒトは無意識に針の飛び跳ねを数えた。9まで数えた時、猫が低い姿勢でシーツを飛び出した。そして一目散に走り去る。
「追いかけなさい。このままだとまた靴に逃げられるわよ」
レコードをジャケットにしまいながら看護婦がソノヒトに忠告した。ソノヒトはヘッドホンを看護婦に返すと、あわてて逃げた猫の後を追った。