「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年4月3日水曜日
8-4:ケセラー医師の魚の日
「私は画期的な死刑を思いつきましたよ。自殺刑です」とケセラー医師は云った。「死刑囚の苦しみは刑が執行されるまでのものです。死んでしまえば、苦しみも何もありはしませんからね。体験の主体がなくなれば、体験そのものが消える。刑の執行は死刑囚にとって或る種の救いでしょう」
ケセラー医師は、よく切れるナイフで肉を切り分けて口に運ぶ。新しいが出来の良い赤ワインを一口飲んで、ウムと頷く。
「一方、死刑執行人、というか、まあ刑務官ですかな、彼らの苦悩は、まさに刑の執行によって生まれ、その後ずっと続くのです」
ケセラー医師がソノヒトを食事に招待したのは治療の一環である。ケセラー医師にとって火傷の一番の薬は肉であり、彼は主治医としての義務を果たしたのだ。
「死刑囚は刑に処されるべきですが、しかし、その刑の執行のために罪もない人間が苦しめられてはならない」
ケセラー医師が皿の上で切り分けているのは、よく見ればただの生肉である。いや、臓器である。それも腫瘍のある。ケセラー医師は臓器から変色した腫瘍を切り取って口に運ぶ。目を閉じ、微笑み、ワインを一口。
「さてそこで自殺刑です。自殺刑も死刑の一種ですが、刑を執行するのが死刑囚自身だという点が画期的なのですな。自分で自分に刑を執行すれば誰も苦しめません。自殺刑の導入には費用も大してかかりませんよ。通電ボタンを死刑囚自身の手元に置けるように少し改造するだけで現行の電気椅子がそのまま使えますからな。絞首刑なら更にお手軽ですよ。死刑囚自ら穴に飛び込めばいいだけですから。おや、いけませんね。ちっとも召し上がらない。それとも肉はお嫌いでしたか?」
ソノヒトが何か答える前に、ケセラー医師はあっと云って掌で自分の額を叩いた。「なるほど、今日は魚の日でしたな!」
ケセラー医師はすぐに給仕に指示した。「肉料理」が下げられ、代わりに「魚料理」が置かれた。設備、広さ、調度品。とても深海艇の中とは思えなかった。しかし深度計の針は確実に動いている。こうしている間もソノヒトは深海プールの底に近づいているのである。
「人間の肉差別の起源は何だとお考えですか。つまり、或る生き物の肉は食べていいが、或る生き物の肉はダメだというアレのことですがね…」
「魚」に手をつけようとした時、給仕がやって来てソノヒトにメモを渡した。メモには「個体発生は系統発生を繰り返す」とあった。
深海艇の外で女の叫ぶ声がした。