2019年4月22日月曜日

■ワサビの音楽


もし、ワサビについての何の経験も予備知識もない外国人に、ワサビをたっぷり効かせた寿司を食べさせたら、口に入れた瞬間に驚いて吐き出すだろう。毒かナニカだと思うかもしれない。そのものについては何も知らないのに(あるいは知らないからこそ)拒絶反応が出る。その反応は動物的な自然な反応だ。原生動物が火に触れそうになって咄嗟に離れるのと同じ。

さて、今、ネット上には玄人素人有名無名を問わず、たくさんの音楽演奏が存在し、自由に聴くことが出来る。そういう中にはミゴトなのもあれば、そうでないものあるし、巧みなのもあれば稚拙なものもある。オモシロいと感じるものもあれば、ただウルサイというだけのものもある。が、そういう次元とは明らかに違う「これは誰が聞いても音楽として失敗だろう」と思えるようなものも時々ある。つまり、チューニングが極端にオカシなギターの演奏だとか、オモシロくも美しくも不気味でもない〔ただの調子ッパズレ〕とか、そういう音楽だ。

コッチとしても、いわゆる現代音楽に代表される前衛的な音楽について全くの未体験なわけでもない。だから、どうでもこうでも調性が「正しく」なれければ音楽ではないとかいうつもりも、そういう「耳」しか持ってないつもりもない。だから、ここで云ってるのはそういう類いの音楽ではない。そうではなく、聞いた瞬間に「うわ〜ッ」と思って演奏者の方を見れなくなる感じの演奏。大真面目に演説している人の鼻から鼻毛が一本飛び出してるとか、明らかな言い間違いを繰り返しているのに気付いたときの気まずさを感じてしまうような演奏。そういうものだ。

で、その「失態」に当人だけが気付かず、周りはみんな気付いて失笑を堪えているってのならカマワナイ(カマワナイというのは、気にならない、大した問題じゃない、〔そんなのフツウ〕という意味だ)。カマワナクないのは、現実には、失笑とは正反対のことが起きていることがあるから。それにガクゼンとするのだ。

つまり、ネット上に存在するそういう明らかな「失態」でしかない音楽、失笑モノでしかない音楽に対して、賞賛のコメントが付いていることがある。それも一人や二人ではなく大量に。で、それらの賞賛コメントが、ヒヤカシや皮肉やカラカイでないのなら、彼らには、実際に、その「失笑モノ」の音楽(演奏)が〔すばらしくて美しいもの〕に聞こえているということになる。

そこで悩むことになる。音楽のジャンルや種類やムードで、好みは色々、人それぞれだからそれは別にいい。そうではなく、音楽を楽しむことのできる人間なら誰でも気付きそうな欠陥や失敗や失態を聞かせている音楽に対して、それを「好い!スバラシイ!」と云う人間が存在することに悩んでしまうのだ。

考えられる答えは二つ。一つは、失笑モノの音楽を、好いと云っている連中の音楽的感受性に著しい欠陥がある、というもの。もし全てがこれなら安心だ。耳が全く聞こえなければ、音楽も道路工事の音も区別はないのだから。

ただ、もう一つの答えの可能性を考えると、ちょっと暗鬱となる。つまり、それが最初に云ったワサビだ。

ワサビの風味は、予備知識なしの身体にとって、その解釈・反応は「毒」だ。ワサビでなくてもいい。大粒の山椒の実を口の中でうっかり噛み砕いた経験のある者なら分かるだろうが、あれだって、予備知識がなければ、てっきり毒を盛られたのかと思うほど舌が痺れる。それがワサビや山椒だと知らなければ、あわてて吐き出すだろうが、知っているので「キクネエ!」などと笑いながら食べ続ける。つまり、身体が露骨な拒絶反応を示しているのを知識で押さえ込んで、その感覚を「楽しんで」いるワケだ。それと同じことが、どの方向から見ても聞いても失敗している失笑ものの音楽演奏にしか聞こえないものを「好い!ステキだ!」と云ってわざわざ賞賛のコメントと付ける連中にも起きてるんじゃないかということだ。

そうすると、オカシイのは、その失笑ものの音楽を、失笑ものだと云って笑っている俺たちの方になってしまう。だって、俺たちだって、ワサビや山椒はなくてはならないスパイスだと感じているし、ワサビや山椒の良さが分からない外国人を、バカにしたりヤレヤレお気の毒、と思ったりするわけだから。

ほら。

(2013/06/08)アナトー・シキソ


追記:

脳は「痛み」を「感じる」と脳内麻薬物質を放出して、快感を与える。激辛料理がヤミツキになったり、ランニングハイなどがいい例。要するに、自家製麻薬中毒。すなわちこれが、極下手くそな音楽を「好い」と感じてしまう理由かもしれない。

2019/04/22 アナトー・シキソ