2019年4月12日金曜日

8-9:手の石が作動し全てを吹き飛ばす


猫を追ってソノヒトが余の書斎に現れた。ソノヒトは余を見上げた。余はソノヒトを見下ろした。ソノヒトは書斎を見回し「靴を探しています」と云った。余はペンの尻で書棚の一つを指した。そこに鉄色の猫がいた。猫はキラキラ光る目でソノヒトを見下ろした。「なるほど、ありがとう」とソノヒトは云った。

余は書き物机に肘をついて、ソノヒトが書棚をよじ登る様子を眺めた。ソノヒトは二度書棚から滑落した。一度目は大した高さでもなかったが、二度目の時は無事では済まない高さだった。落ち方もよくなかった。事実、書斎の床に叩きつけられたソノヒトは、そのまま一週間ほど全く動くことがなかった。余は、おそらくもうダメだろうと思った。しかし八日目の朝、ふと書き物の手を止めて見てみると、ソノヒトはいつの間にか起き上がって、書棚の上で香箱を作っている猫を見上げていた。諦めた様子は見られなかった。事実ソノヒトは登攀を再開した。

余は驚いた。と同時に感心した。しかし気の毒にもなった。一体あれは何のための苦労だろう。逃げだした猫を連れ戻したところで、猫がそばに留まるのはほんのいっときに過ぎない。猫は必ずまたソノヒトの元を離れる。猫とは本来的にそういうものなのだ。であるなら、猫のことはきっぱり忘れて、この裸足の安寧にとどまり続けるべきではないのか。

余は、ソノヒトの努力と熱心を称えつつも、その無意味を、ソノヒトに説いた。それに対してソノヒトはただ「分かっています」と微笑んだ。しかしその微笑みは何も分かっていない者の微笑みだった。余は、書棚にへばりついたソノヒトの襟首をつまんで床に下ろした。そうしてソノヒトに虚無を説いた。宇宙、存在、時間の無意味と無価値をできるだけ優しい言葉で明らかにした。しかしソノヒトはやはり同じ微笑みを浮かべ「分かっています」を繰り返しただけだった。

余は落胆し、余の仕事に戻ることにした。猫はどうしたかと見てみると、いなかった。猫はソノヒトの足元にいた。自分で戻ったのだ。猫とはそういうものだ。猫はソノヒトを見上げて呑気にニャアと鳴いた。

こうしてソノヒトは靴を取り戻した。

ソノヒトは靴の紐を結び終えると、まっすぐに立って、正面の余を見た。ソノヒトの右の手の中には例の石が握られていた。そして不意にその石が作動した。その場の全てが吹き飛んだ。ソノヒトも消え、余も消えた。あとには深い水の底に待つ虚無の裏側だけが残った。