1000年後の人類(もしそれまで続いていれば)が見れば、生身の人間のすぐ横をどこの馬の骨が運転しているかも分からない鉄の塊(自動車)がワンワン走り回ってる今の街の光景は悪夢だよ。
自動車なんて、タバコの百倍はハタ迷惑なシロモノなんだけど、みんな「便利で安全」だと思い込まされてる(洗脳されてる)から、こういう事故が起きるとびっくりして大騒ぎする。年間で何千人も殺してる機械が「安全」なワケないだろう?
てんかんがどうこうじゃないのさ。居眠りも、酔っぱらいも、認知症も、なんでも殺人に繋がるのが自動車運転だ。それで、クチャとかベチャっとなったら、もうそれで何人か殺すわけだよ。ただてんかんだとか、ただ居眠りしたとかよっぱらっとかボケたとかじゃなかなか人は殺せない。自動車を運転してたからこそ殺しちゃうわけだろ? 今回の祇園の大事故だって、原因はてんかんじゃない。自動車だよ。みんなすぐに反対に考えるけど、居眠り運転でも、飲酒運転でも、ボケたジイサンの高速逆走でも、それで殺人事故が起きたら、その殺人の共通の原因は自動車なんだよ。
て云っても、大抵のヤツは何云ってんだ、て思うんだろうな。
タバコは完全な嗜好品で「便利」とか「有用」ていうキーワードが使えなかったから、割合簡単に社会的に抹殺されつつあるけど、自動車は「便利」とか「有用」ってキーワードが使える要素があるから、タバコみたいにはならない。ならないけど、喫煙と自動車運転の、周辺に及ぼす害悪のパターンはそっくり同じだよ。使用者だけがいい思いをして、まわりはただ迷惑なだけ。そしてそのどちらにも重篤な健康被害(サイアクの場合は死)をもたらす可能性がある。
因みに可能性とか確率とかいうコトバを使うと、途端に人間は、そのなかに「起きない」を入れたがるけど、物理法則に違反しないことは全て「起きる」ことで、その物理法則に違反しない事象についてナニカ云うときに用いられるのが可能性なわけだよ。物理法則に違反するなら、可能性なんかないし確率がどうとも云う必要はない。そんなことはこの宇宙ではただ「起きない」からだ。
その観点からすれば、たまたま自動車の運転中にてんかんの発作を起こして、たまたまその辺にいた7、8人をひき殺す、なんていうのは、可能性どうこうは余計な付け足しで、ただ、ふつうに起きることだよ。これからだって起きる。そのときに、てんかんの症状がある人は車の運転をさせないように指導するとか取り締まるとかよりも、自動車そのものを街中から排除する方がずっと根本的。
原発に通じるハナシ。原発事故をなくしたいなら「原発を安全に運用する」とかいう、どうせ最初からしくじると分かってることをやろうとするより、原発そのものをなくしてしまえばいい。自動車事故をなくしたいなら、自動車をなくせばいい。簡単なハナシだ。今の人類の技術レベル社会レベルでは、自動車は輸送手段として手放せないだろうが、移動手段としてなら今すぐ手放したところで大した問題はない。電車やバスに乗って、あとは歩け。
と云っても、中毒だから、乗り続けるわけだよ、人間は。一昔前の子供が成人したら、もう、義務のように喫煙を始めるみたいなもんでさあ。必要があろうがなかろうが、免許取りたがるだろ、バカだから。
自動車産業は儲けなきゃいけないから必死で宣伝して、自動車が市民生活の中でなくてはならないもの、〔自動車のある生活のスバラシサ〕というイメージを植えつけようとするけど、そんなのはタバコメーカーがやってたことと同じで、根拠のないただのイメージだ。自動車なんかなくてもすばらしい市民生活は送れる。いや、むしろ、自動車がもし今より圧倒的に少ない社会に暮らせるなら、それだけ自動車に殺される可能性も減るわけだから、むしろ自動車は出来るだけない方がスバラシイ生活になる、とさえ云える。
輸送手段としての自動車は、ひどく出来損ないのシステムだし、そういう出来損ないのシステムが、これまた出来損ないの粗雑な交通システムの中で動き回っているから、ただてんかんが起きただけの人間や、道を歩いていただけの人間が自動車に殺されるはめになる。
玄関前に乗り付けられるのが便利とか云ってないで、もう、いい加減やめればいいんだよ、人間が暮らす街中を自動車が走り回るようなシステムは。まあ、街中を走れる車両は救急車か消防車くらいにして、あとは、ぜんぶ、街の外に追い出すか、地下か高架に自動車専用道路を作って、完全に隔離してしまえばいいんだ。
物流? 台車かなんかで運べばいいだろ。大きな駅の中でモノ運ぶのに自動車なんか使ってないだろ?
自動車の運転それ自体が仕事になっているヤツは別にして、今、街中で自動車を運転しているほとんどのヤツの自動車を乗り回す理由は、喫煙者が煙草を吸う理由と変わらない。要するに嗜好だ。好きだからそうしてる、そうしたいからそうしてる。けど、それは歩いているヤツが、歩きたいから歩いてるっていうのとは、まるで違う問題を孕んでる。つまり、自動車を運転するということは、今日、誰かの子供の頭蓋骨を自分の自動車のタイヤで踏みつぶす可能性を自らの手で生み出しているということだからだ。
「そんなの車でちゃっちゃと運べよ」とか「なんですぐ来なかった? 車があるだろう?」とか、そういう、大した用事でもないのに自動車を運転させようとする社会的な圧力を消せない限り、これからも人間は自動車に殺され続けるだろうな。あとあれだ、自動車を使うことを前提にしている町づくりや商売のやり方も、大した用でもないのに自動車を使わせようとする圧力になってるよね。
まあ、どうでもいいや。
(アナトー・シキソ)2012年4月13日金曜日