「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年4月1日月曜日
8-3:世界の誰とも似ていない紳士
ソノヒトが深海プールに飛び込むと、やはり光は水底からやってくる。暗いはずの水底が明るいのも奇妙だが、まるで浮力を感じないのはもっと奇妙だった。浮力は感じないが、さりとて沈むわけでもない。比重が同じなのだとソノヒトは気づいた。してみると、この水はただの海水ではない。
ソノヒトは自分の体と同じ比重を持つ謎の液体の中で上下が分からなくなったが、ともかく明るい水底に向かって腕と足を動かし続けた。するといきなり水面に顔が出て驚いた。今出た水面はさっき飛び込んだ水面とは違った。部屋の作りは似ていたが、天井には煌々と明かりが灯っていた。あるいは、プールに潜っている間に照明がつけられ、それがために、まるで街灯に引き寄せられる虫のように方向感覚がおかしくなってしまい、それで、水底に向かっているつもりが、元の水面に戻っただけなのかもしれない、とソノヒトは考えたが、そうではないことがまもなく分かった。ソノヒトを出迎えてくれた杖をついた片麻痺の紳士が、ここが一つ上の階だと教えてくれたからだ。一つ下ではないのかとソノヒトが確かめると、紳士は「なぜ?」と訊いた。ソノヒトは答えられなかった。
紳士の左目は眼帯で覆われ、その顔は世界の誰とも似ていなかった。
世界の誰とも似ていない隻眼の紳士は、ソノヒトをシャワー室まで連れて行く途中にあった階段を杖の先で指し、今日の麻雀大会はあの上でやるのだと云った。麻雀を知らないソノヒトはただ、そうですかと答えた。
ソノヒトがシャワーを使っている間、世界の誰とも似ていない紳士は、すぐ外の壁にもたれかかり、麻痺した左手に嵌めたツイードの手袋の指先を引っ張ったり戻したりしながら、全知全能神を崇めるありとあらゆる宗教は、『全ては無価値で無意味』というシンプルかつ美しく揺るぎない事実に対する、人間の涙ながらの無益な抗弁なのだと嘆いた。無論、シャワーを使っていたソノヒトにはただの一言も聞き取れなかった。
ソノヒトはシャワーの水に、水ではない液体が混じっていることに気づいた。最初その液体が何なのか分からなかった。水の割合が徐々に減り、水ではない液体の割合が増えてきて、それがガソリンだと気づいたときには既に相当量を全身に浴びていた。ガソリンは燃えればもちろんだが、たとえ燃えなくても人間の皮膚を焼く。ソノヒトは今すぐ深海プールに飛び込むべきだと考えたが、それと同時に未知の化学反応も恐れた。