生命現象というのは一種の方便で、コレと言って存在を指摘できる個別の現象は、物理現象と知性現象の二つのみ。生命現象は、物理現象と知性現象が混ざり合った「みせかけ」でしかない。人間は[感受性の異なる三種の視細胞]で「あらゆる」色を感じ取る。それと同じで、物理現象と知性現象が混ざり合うと、それが生命現象として認識される。言ってしまえば、生命現象などという独立した現象は、人間の頭の中の産物で、この宇宙のどこにもない。
人間がアリガタがったり、尊敬の念を抱いたり、愛したりしているものは、実は、生命現象ではなく知性現象だ。というのは前にもどこかで書いたけど、これがなかなか分かってもらえない。大昔に菩提樹の下でゴータマさんが「俺の発見は人間には理解し難いから、説明しても無駄だろう」と思ったのはココ。生命活動と言っているあれは「囲い込まれた物理現象」に過ぎない。水路を水が流れてるとか、風車が回ってるとか、そういうことと何も変わらない。実際、一定の法則性を持った物理運動を目にすると、人間はすぐに「生命」を感じてしまう。ナニヨリの証拠。でも、そこでフハっとしている対象の正体は「生命」ではなく「知性」。
知性現象ってのは何かって言うと「物理現象を制御する現象」。素の物理現象は成り行きが全て。言い換えると[因果が常に固定されている]。原因があって結果という流れ。逆にいうと、物理現象は、どんなに複雑に込み入っていても「結果を見越して原因を作る」ということがない。知性現象が物理現象を「制御する」というとき、具体的に何が行われているかというと、この「結果を見越して原因を作る」ということ。物理現象に対して、物理現象Bを実現するために物理現象Aを(物理法則に従って←ここ重要)実現させることができるのが知性現象。だから生命現象とは、要は「因果をひっくり返した」物理現象の総体。でも、本体は、生命ではなく知性。生命は知性の「影」にすぎない。
面倒臭いというか、面白いのは、しばしばこの認識が逆転すること。人間の多くは、生命現象から知性現象が生まれると思い込んでいる。だがそうではない。物理現象から知性現象が出現した時、それが生命現象に見える。これが正しい認識。
「生命それ自体は無価値=幻影」ということ。人間という存在は何よりもまず知性であり、生命は知性が関わる物理現象の一種に過ぎず、その制御には当然限界がある。以上。