2020年2月23日日曜日

松っちゃんの番組で、高須クリニックの院長が、(一部で有名な)スイスの安楽死協会に会費だか手付金だかを振り込んだ話をしていた。どうやら、安楽死の「審査」のようなものにパスしたのではなく、まあ、「審査」が受けられる[期限なしの予約]を取ったみたいなことらしい。当人は、いつでも使える航空券を手に入れたようなものだ、みたいなことを言っていた。

それはいいとして、この国は、というか、世界中の多くの国が安楽死や尊厳死を認めていない。これもまた「生命教」がもたらす弊害・害悪。安楽死や尊厳死を選択肢に選ばざるを得ない状況に陥っていない殆ど全ての人間には弊害・害悪という認識はないだろうが、そもそも知性現象として存在する人間にとって、生命現象という[媒体/機構]の不具合がもたらす最悪の苦しみを[回避/解消]する現状唯一の手段である[安楽死/尊厳死]を選ばせないようにするこの考え方(この場合は信仰=生命教信仰)は、マギレもない弊害・害悪。

まあ、「安楽死や尊厳死を法的に認めないのは、安楽死や尊厳死のフリをした殺人を未然に防ぐためだ」という[ニセの実践的モノイイ]も存在するが、そんなのはカラッポの主張。というのは、どんな医療行為にも失敗や想定外は付いて回るもので、医療行為の「失敗」で患者が死んでしまったこれまでの事例のうちのどのくらいに「医療行為の失敗を装った殺人」が紛れ込んでいるか分かったもんじゃないからだ(コロンボが言うように、医者がその気になりゃ、殺人なんかやり放題)。たとえ「失敗」や「事故」ではくても、医者が「もうこれ以上は手の施しようがありません」と言うとき、それが事実なのかは、患者やその家族(遺族)には知りようがなかったりする。人生に絶望した医者が、助かる命をみすみす見殺しにすることだって、なくはないだろう。

安楽死や尊厳死が殺人の隠れ蓑になるかもしれないという主張の「ウソ」は、普通の医療行為に既にある「キケン」を、安楽死や尊厳死にだけ適用しようとしているからだ。安楽死や尊厳死が殺人の「隠れ蓑」になる危険があるからやるべきではないなら、全ての医療行為もやるべきではない。知らんけど。

生命教信仰は「生命」という特別なアリヨウが存在すると信じることで、人間を、知性現象である前に、生命現象であると見做す。これは人類最凶最悪の「邪教」で、知性現象としての人間の苦悩の最も深い部分に巣食う魔物で…