2020年2月14日金曜日

とにかく毎日千文字文章を書く。これが千文字作文の決まり。他は何もない。スタイルもジャンルも縛りはない。前もって決めていてもいいし、適当に始めてもいい。動かさないのは千文字になったらピタリとやめるというただこれだけ。だから「毎日」の部分の「毎日」も「毎日の食事」程度の「毎日」。具合が悪かったり都合がつかなかったりしても、毎日の食事を諦めることはまずないが、絶対にないとは言えないのが「毎日の食事」の「毎日」。「千字作文」も、そういう「毎日」。

ぴったり千文字で、強制的に止めるというのは、テレビやラジオの生放送に似ている。タモリが『いいとも』や『Mステ』を延々と続けられたのは、あれは、生放送だから。撮り直しやヤリ直しがなくて、出来が良かろうが「事故」が起きようが、時間が来たら終わる。終わったら家に帰れる。始まる時間が決まっていて、家に帰れる時間が決まっていれば、予定が立つということで、予定が立つとなら、人間は結構いつまでも、それほどの苦もなく続けられる。逆に、始まる時間や終わる時間が一定してない、今日はいつ帰れるか分からない、というが、人間には一番辛い。それで、ビルから飛び降りたり、セーシンを病んだりすることになる。

今回は、第二回で、まあ「千字作文」の趣旨みたいなものを自分自身に向けて書いているわけだが、次回の中身は「千字掌説」になっているかもしれないし、「Vexations」になっているかもしれない(この文章はVexationsではない。癪に触ることを書いているわけではないからだ。これはただのザッカン=雑感。あるいはメモ)。たまには「連続もの」なるかもしれない。

ついでに書けば、誤字脱字誤変換の類もあまりとやかく言わない。1日一本、一年で365本を積み重ねて、その数の多さから、ナニカシラな価値が生まれることを目論んでいるからだ。個々の出来の[完璧性や完成度]は、さして重要ではない。だから、生命現象のやり口に似ている。進化のやり口と言い直してもいいかもしれない。ソコソコのものを、とにかくいろいろバーっと大量に生み出して、そのソコソコゆえの雑多性が、数というモノを一種の変換器にして(あるいはテコ)にして、自覚的に求める[個々の完璧性]では到達できない、言ってみれば、[無意識の完璧性]に到達できればシメたもの。

編集者や編纂者の意識が芽生えると表現は枯れる。リンチも言ってる。カネ…