生命をいくらありがたがってもショーガナイというのは、ちょっと考えたら実は誰でも分かることで、それは、恐竜の行く末を見ても明白。生命原理に忠実に「持続可能な生活」を、何億年何十億年続けたところで、隕石一発でお陀仏。
人間も同じで、生命万歳、自然万歳で、生まれて老いて病んで死ぬ、生まれて老いて病んで死ぬをあと何十億年繰り返しても、ダカラナニってことになる。隕石がぶつかったり、地球が凍結したり、太陽が膨張したり、凶悪な疫病が蔓延したら、ハイソレマデヨだ。だが、生命現象としては、これで全然イイ。生命現象というのは、個々の個体はもちろん個々の種でもない[生命現象というそれ自体]で、ひとつのアリヨウなんだから、個別の種が絶滅したところでどうということない。更に言えば、物理現象の立場から言っても、生命現象という、物理現象の亜種が姿を消したところで、どうということはない。
どうということがアルのは、知性現象の立場。知性現象は、物理現象依存ではあるが、物理現象を制御できる現象であるがゆえに、いわゆるメタな存在になっている。メタな存在というのは、特定の物理現象の「外」に居るということ。これはもちろん、知性現象が、物理法則を超越した存在だとか、精神的な霊的なナニカだとかいうハナシではない。知性現象は、今現に自身が依存している物理現象なり物理法則なりに、必ずしも縛られなくてもいい、という話。音楽は、ビニールレコード盤にも、テープにも、メモリーチップにも、録音し再生することができる、というのに少しに似ている。この場合、音楽が知性現象で、レコード盤やテープやメモリーチップなどの媒体が物理現象。
人間の歴史が発展の歴史なのは、新しく生まれた子供が成長して「新しい」ことを始めるからだ。人間以外の動物は、生命現象の原理にのみ忠実で、あくせくと、次の世代も次の世代も延々と前の世代と同じことしかない。生命現象としてはそれで正解で、あとは「進化」の法則がドーニカするに任せている。しかし、人間は、次の世代が前の世代を引き継いだり乗り越えたりして「新しいモノ」を生み出すことでナニカを成し遂げつつある。そのナニカってのは、生命現象の宿命を乗り越えるということ。生命現象の宿命ってのは、つまりは、「今依存している物理現象の巻き添えを食う」ということ。そして、世代ごとに「新しいモノ」を生み出しているが、他でもない知性現象。