2020年2月19日水曜日

日に焼けて色の変わったことわざ辞典(三省堂)を眺めていたら「医者の不養生」という言葉に出くわした。曰く、「医者は、人には養生を勧めながら、自分は案外不養生なものである。立派なことを言いながら、実行が伴わないことにいう」とある。ああ、なるほどそうだね、それは知ってるよ、と。で、類句として「坊主の不信心」が出ていて、これに引っかかった。これは、本当のことを言えば、医者の不養生とはまるで違うだろ、と。

本来、本当の意味で、つまり、ゴータマさんの教えの実践者としての坊主なら「不信心」が当たり前で、すなわち信仰心など持っていてはオハナシにならんのだ。だから、今この世界に生きている坊主は、ダライ・ラマを含めて全員、ゴータマさんの教えには背いていることになる(死んだらどうとか、生命の本源がどうとか、戒律がなんだとか、世界平和がどうしたとか、すべては人間の生命信仰=生命教が生み出した執着物にすぎないからね)。もし、ゴータマさんが今いたら、やれやれ、それ見たことか、と大きなため息がつくだろう。

「坊主の不信心」ということわざを好意的に解釈すればこうなる。坊主というものは、宗教とか信仰とか生命の尊さとか死後の世界とか、そういうものが単なる人間の「趣味」「嗜好品」「慰み」に過ぎないことを知り尽くしているので「そんなものはどうでもいいことなんだ」と、ちゃんと理解している。もっと端的に言えば、(もしそんな者がいるとして)本当の坊主(ゴータマさんの思想の実践者)は、生命教信仰から自由になっているから、生命教から生まれるあらゆる「虚構」を退けることができる。しかし、坊主ではない「普通の人」は、これはもう、全員[無自覚ゆえの頑固さ]を持った「生命教信者」なので、方便として「信仰が大事」と言ってやって、百年かそこらを、ただの生き物としておとなしく穏やかに生きてもらうしかない。

つまりその場合「坊主の不信心」とは、「普通の人は、その凡庸さと怠惰ゆえに、信心というマヤカシで人生をごまかして生きていかなくはならないが、坊主は修行して心の目を開いたおかげで『不信心』という、普通の人が到達できない状態に達していて、さすがに立派もんだ」という意味になる。が、まあ、これでは最早ことわざでもなんでもない気がする。

とにかく、自分でも信仰心を持ち続けることが大事だなんて思ってる坊主は、正体としては全員ただのコスプレイヤーで…