2019年12月25日水曜日

刑罰のこと(無期懲役に万歳三唱する人殺し)


「控訴はしません。万歳三唱をします」の裁判についてテレビの人たちの言うことを眺めていて、どうも、21世紀になってもイマダに刑罰に対する認識が統一されていないと思った。

もっと原始的な、ただの「罰」というとき、誰の目にもよくわかるのは「懲らしめる」という要素。人間に限らず、野生動物は「不適切」な振る舞いが原因で、仲間や敵や自然から「罰」を受ける。このとき「罰」を受けた対象は「懲らしめられた/痛い目に遭わされた」ように見えるし、当人も実際そう感じているだろう。しかしこれは「罰」の表層に過ぎない。

罰の本質は「排除」。「懲らしめ」は手段・経過・過程・方便に過ぎない。一見そうは見えないがそうだ。罰の目的は「排除」(ちなみに、罰の「抑止効果」は「あらかじめなされる排除」「未然の排除」)。

罰が排除を目論む対象は「好ましくない現象・不適切な現象・不愉快な現象」つまり現象それ自体。具象物としての或る生物個体は、その現象を生み出した源ゆえに「排除」の「途中経過」である「懲らしめ」を体験する。消防士は火を懲らしめているわけではなく、排除している。

法律を持たない野生動物が別の野生動物に与える「罰」は、「痛い目に合わせる」という手段を経由して、自身にとって不快で不適切な現象を、自身の生活圏や活動圏から「遠ざけて」いるだけ。繁殖期のオス同士の争いが滅多に「殺し合い」にならないのは、不愉快な現象を生み出す対象を「遠ざければ(排除すれば)」用が足りるから。

「排除」には究極のカタチがある。排除の対象となる存在を、存在世界全体から排除することだ。すなわち完全なる消滅。生き物に伴って起きる現象を完全に消滅させようとするとき、もっとも手っ取り早くて確実なのは、当該の生き物もろとも消滅させること。言い換えるなら、当該の生き物を殺してしまうこと。これを人間の持ち物である刑罰の用語で言えば「死刑」になる。

人間が死刑を手放せないのは、特定の人間が生み出す「不適切な現象・不快な現象」を対象にした「究極の排除手段」を、死刑以外にまだ手に入れていないから。すなわち、相対的にテマ・ヒマ・カネのかからない「永久的な排除手段」として、死刑を超えるものを手に入れてないから。なんと言っても、生命教に骨の髄まで毒された「文明人」にでもならない限り、無反省の殺人鬼を社会全体で養い続けるのは、不合理且つ不条理だと思うのが「人情」で、だから人間(社会)は現状、「死刑」は手放せない。

これをひっくり返すと、不快で不適切な現象の「完全な排除」が実現できる方法が他にあるなら、「死刑」はもちろん、方便としての「懲らしめ」すら要らない。かつて「治療」と称して行われた「犯罪者」に対する無知でガサツな外科手術や薬物投与がソレ(ついでに言えば、だいたい、異教徒や同性愛者を犯罪者扱いしていじめるのは、架空のサッカー帝国の法廷が、手を使ってボールを運んだ者を有罪にしているようなもの)。今現在行われている[犯罪者に対する精神鑑定やそれに続く「治療」の類]も実は同列。ここにあるのは、不適切で不快な現象を「排除」するのが目的なら、何も手段は「罰」に限らない。「治療」でいいじゃないか、という発想。その発想自体はケッコウ。しかし「治療」する側の実力がまるで伴ってなくて、「治療」ではなくやっぱり「罰」(犯罪者自身やその被害者にとって)になってるのがオモシロイ(というか情けない)。

さらに不穏なことを付け足せば、そもそも「治療」される犯罪者は「罰」が効かないから治療するんだという側面もあったりなかったりする。

だらだらと喋り続けるなら、刑罰の目的が「懲らしめ」や「復讐」だとみんなに「誤解」されていた過去には、死刑囚をそう簡単には死なせない様々な死刑方法が考案され、実施された。すなわち、できるだけ苦しめて、ゆっくりと殺す方法だ。

過去に於いて、殺し方(死刑方法)が様々に工夫されてきた理由は簡単で、「懲らしめ(罰)」に対する反応(苦しみ具合)が人によって様々だからだ。人前で嘲笑されただけで死の苦しみを味わう者もいれば、鞭打ちに快感を覚える者もいる(『ヘルレイザー』)。そして「なによりも死こそが安らぎ」という変わり者まで稀にはいる。つまり、「懲らしめ」目的の残忍な死刑方法が「工夫」されたのは、死刑をあたえる側(社会や体制)が、万人が死の苦しみを確実に味わう方法を探し求めたからだ。「排除」はどこに行った? 典型的な本末転倒。

刑罰(罰)を「懲らしめ」だと認識するのは、歴史的に見ても誤りであり、自然史的に見てもlost highway状態。人間が生み出す「不快な現象・不適切な現象」を社会から排除することが刑罰の目的だから、「死刑」が「イヤだ」という[純度を増した生命教信仰社会]では、殺人鬼を税金で養い続けるのが「正しい」刑罰のやり方という結論になる。しかし、生命教の呪いから脱却し、物生知現象論的な「家事」の煩わしさから自由になれば、件の[万歳三唱の人殺し]は、人間の「生業」にとって邪魔な存在でしかないわけだから、生かしておく理由は何もない。

何度でも言うが、物生知現象論から言えば、生命にとりわけの価値はない。生命の価値は知性の認証に依存する。実際、当の生命は「生命は尊い」などとは思いもしない。生命が尊ぶのは生命ではなく「身内=遺伝的繋がり」だけ。だから、或る知性が生命の価値を損なうなら、当該知性が依存している当該生命の価値を、知性によって構成されている人間社会が認証を与える続ける理由はない。

おまけで言えば、殺人鬼に対する死刑を嫌がるのは、宗教を理由に、子供への輸血を拒否したり、牛やら豚やらの肉を食べたがらなかったりするのと同じ「信仰」がもたらす歪み。人間にとって生命は大事だが、生命の神聖視は、知性にとっては「命取り/致命的」。

2019/12/25 アナトー・シキソ

2019年12月22日日曜日

「家事」に関する議論は、全て相対的なものである。

2019年11月15日金曜日

無灯火(てつねこ)



1)[生命現象]から出現した人間という[知性現象]は、自ら作り出した[生命現象に依存しない知性現象]即ち[人工人格]に、自らの[知性現象としての遺産]を引き継がせた後、[自発的絶滅]によって、漸進的にこの存在世界から消滅する。

2)全ての現象は[物理現象]である。

3)因果関係にある二つ以上の現象群が[生命現象]である。因果関係は「意図」や「目的」の鋳型であり、それが知性現象を出現させる。

4)現象に干渉する現象が[知性現象]である。第1の現象と第2の現象が互いに干渉して第3の現象が生じる時、[第1の現象と第2の現象の組み合わせ]と[第3の現象]の間に、それまでは存在しなかった[新たな因果関係]が作られる。[知性現象]の特徴は、この[新たな因果関係の創出]である。

5)知性現象としての人間の活動のうちで[生業]と呼べるのは、[人工人格の創出]だけである。それ以外の人間の活動は全て[家事]である。

6)人間という生命現象依存型知性現象が、自らが依存する生命現象の[要望や欲求]に対処するために行う人間の活動の全てが[家事]である。即ち、摂食・排便・睡眠から政治・経済・芸術・医術の全てが[家事]である。

7)人間社会の災厄の元凶は「生命教」である。全ての人間は[生命教]の[狂信者]である。神が人間の妄想であるように、生命もまた人間の妄想である。人間が至上のものとして崇め奉る[生命]の実体は[知性]すなわち[知性現象]である。[生命]および[生命現象]は[知性現象]のための[仕組み]に過ぎない。

2019年9月12日木曜日

「四色問題」のための落書き


存在する全ての領地が、自身以外の領地全てと境界を接している場合にのみ、領地と同じ数の色が要る。即ち、自身以外の全ての領地と境界を接している、という条件を満たしていない領地がひとつでも含まれていれば、その地図は、領地の数未満の色で塗り分けられる。

ところで、上で述べた、「存在する全ての領地が、自身以外の領地全てと境界を接している」という条件を満たす地図は、最大で幾つの領地を持つだろうか。答えは4つである。

領地を「○」で、領地と領地の境界を「ー」で模式化して表す。このとき重要なのが[「ー」同士は交差できない]ということ。なぜなら、「ー」は地図上の境界を模式化したものだからだ。地図上(2次元)では、或る境界を三つ以上の領地で共有することはできない。或る境界を三つ以上の領地で共有できると考えることは、ピザを切り分けるときの中心にあたる部分を、全ての切り分けられたピザにとっての境界と考えることと同じであり、その場合「四色問題」はすでに問題ではなくなる。「色は領地の数だけ必要」なのは自明のこととなるからだ。

さて、実際に作図してみれば、「ー」を交差させずに、全ての「○」を、それ自身以外の全ての「○」と繋げることができるのは、「○」が4つまでの場合である。

具体的に言えば、三つの「○」は三角形の各頂点として、お互いがお互い同士全て繋がることができる(これは簡単)。次に、4つ目の「○」を、「ー」を交差させずに、この三角形の頂点の三つの「○」それぞれと繋ぐと、必ずどれか一つの「○」が、三つの「ー」に取り囲まれてしまうカタチになる。これの意味するところは、この後、5つ目の「○」が現れて、すでにいる4つの「○」と「ー」を繋ごうとしても、必ず、どれかの「ー」と交差してしまうことになるということ。先に言った通り「ー」同士は交差できないので、5つ目の「○」すなわち領地は自身以外の他の領地の全てとは繋がることができない。これを逆に言うなら、5つ目の領地は、繋がることのできなかった領地と同じ色で塗ることができるということ。つまりこの場合、5色目は必要なく、4色で足りる。

ところで、「四色問題」に於いて、「領地の数」には「見かけの数」と「実質の数」がある。「実質の数」は、自身以外の全ての領地と繋がっている領地の数のことである。「見かけの数」は、[「実質の数」を形成している領地群によって使われている色]の[どれかと同じ色]をした領地が繋いでいる[「外側」の領地もしくは領地群]を含めた「全体の数」のことである。

「○」と「ー」が横一列にどこまでも続く模式図を想像してみよう。この時、「○」の数は100でも1000でも、色分けに必要な色は2色である。なぜなら、一番目の「○」と二番目の「○」はお互いに繋がり、「二色が必要な領地群」を形成しているが、三番目の「○」は二番目の「○」とは繋がっていても、一番目の「○」とは繋がっておらず、一番と二番の形成している領地群の「外側」の存在だからだ。もちろん、立場を入れ替えて、一番目の「○」が、二番目と三番目の「○」が形成する領地群の「外側」にいると考えても構わない。肝心なのは、或る領地群を形成する領地のどれか一つとでも接続ができていない領地が現れるたびに、「実質の数」の数え上げはリセットされるという点だ。

どんなに込み入った地図でも、模式図にしてみれば、最大で4つの領地がお互いが直に繋がっている領地群を形成し、それが、身内の中の少なくとも一つの領地に「内緒」で、他の領地群と繋がっているだけである。

「四色問題」の答えを得るのに数学など必要ない。丸(○)と棒(ー)で落書きができればいい。

2019/09/12 アナトー・シキソ

追記。
余計なお世話かもしれないが、念のために言っておくと、「境界」というものはそれ自体で独立に存在することはできない。地図上で領地と領地を「隔てる」のは、お互いの存在である。境界などというものはただの概念で、実在しないのである。既にある「境界」を第三の領地の境界にもしようとすると、必然的に、最初にあった境界に変更が加わる。最初にあった境界が全部失われた場合は、[第一の領地と第三の領地の境界]と[第二の領地と第三の領地の境界]の二つが新たに作られる。最初にあった境界の一部だけが失われた場合は、元からあった境界と合わせ、三つの境界が出現することになる。だから、上で述べた模式図で「ー」が交差するような形、つまり、「十」の4つの頂点それぞれに領地が存在するような形を作ることは、第三の領地が、既にある[第一の領地と第二の領地の境界]を、第一の領地と第二の領地を「引き裂く」ことで消滅させ、自身は第四の領地と新たに境界を作り、しかしその一方で、その「引き裂き」「消滅」させたはずの境界は以前として存在している(第一の領地と第二の領地は繋がっている)かのような「嘘」をつくことである。

2019年9月10日火曜日

誰に向かって「銃乱射事件を許さない」と言っているのか?


アメリカ社会が「銃乱射事件を許さない」という点では意見が一致しているにも関わらず、銃の規制では対立するのは、言うまでもなく、乱射事件が頻発する原因を、「銃の氾濫」という「社会の問題」と捉える人間と、「乱射犯人の異常性」という「個人の問題」と捉える人間の、二種類の人間がアメリカ社会に存在し、対立しているからだ。

*

アメリカが世界でも突出した「銃社会」であることは、子供でも知っているこの時代の「地球の常識」である。子供といえば、家族で回転寿司に行って、卵を食べた長男だけが食中毒になったら、食中毒の原因はまず間違いなく卵だろう。同様に、銃が氾濫した「文明国」で銃乱射事件が多く、銃が氾濫していない「文明国」で銃乱射事件が少ないのなら、銃乱射事件の多さは、当然、銃の氾濫にあるとか考えていいはずだ。原因を特定する際に注目すべきは「違い」だからだ。この道理が、アメリカの銃乱射事件の頻発の原因を犯人個人だとしたがる連中には見えないのか、見ないようにしているのか、見えていて敢えて棚上げにしているのか? ともかくここで最初の「バカはほっといて、この世の終わりまで身内で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動が湧き上がるわけだが、今はぐっとこらえて、話を先に進める。

*

銃社会アメリカには、家庭の戸棚や引き出しに、あるいは薬局や酒場のカウンターの裏に、拳銃やライフルが置いてあることに何の違和感も持たない人間が、地球上の他のどの「文明国」と比べても桁違いに多いのだろう。一言で言えば、アメリカは世界一「銃に慣れている」人間が多い国なのだ。しかし「慣れている」と「鈍感」は表裏一体である。だからこそ、銃規制のような[正解が初めから分かっているようなこと]で、国を二分するような対立が起きてしまう。

*

「銃に慣れている」人間にとって、「銃の氾濫」は「自動車の氾濫」程度の問題でしかないので(=普通のことなので)、当然、銃乱射事件の根本原因は、銃乱射事件を起こした犯人にあるということになってしまう。ちょうど(「銃に慣れている」アメリカ人と同じように)「自動車に慣れている」地球上のあらゆる「文明国」の市民たちが、自動車による死亡事故の根本原因を「自動車の氾濫」にではなく、死亡事故を起こした個々の運転手や個々の自動車や個別の状況に求めるのと同じ構造だ。そこにまで思いが至れば、一部アメリカ人の「銃の氾濫に対する鈍感ぶり」も、殊更異様なことだとも思えなくなり、先に言った「この世の終わりまで身内同士で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動も多少は治まる。所詮、同じ穴の狢、というわけだ。

*

大抵のことに人間は慣れてしまうし、一旦慣れてしまえば「異様」は「普通」になり、まさかそれが今目の前で起きている問題の根本原因だとは思えなくなる。これは人間の「半合理主義」(←半分だけ合理的になって、どうせ最後は死ぬだけの自身の生涯の無意味さを曖昧にする主義)の弊害だが、人間は人間である限り、この主義を乗り越えることはできないので、ココをどうこう言っても始まらない。

*

はっきりしているのは、銃乱射事件を起こすのは、[それが職業というわけでもないのに、いざとなったら(自分の中で二進も三進もいかなくなったら)、(拳でも棍棒でも包丁でもなく)銃にモノを言わせようと思う人間]だということ。すなわち、銃規制に反対する者(=[市民から銃を取り上げること]に反対する者)は、それが自衛のためだと主張していたとしても、悉く、銃乱射事件を起こす可能性のある側の人間だということ(逆に言うと、社会から[個人所有の銃]をなくせと主張する者は、いざとなっても銃には頼らないつもりの者たちだ)。仮に、銃の攻撃から身を守る「抑止力」として、銃を所持しているのであって、自分は決して銃で人は殺さない(殺そうとしない)と主張する者があったら、彼らに、本物と見分けのつかない、しかし殺傷能力はゼロの精巧なモデルガン(たとえば空砲しか撃てない拳銃)の所持を提案してみればいい。その提案は必ず拒否されるだろう。[銃規制に反対する]とは、つまりはそういうことなのだ。いざとなったら実際に誰かを撃ち殺すつもりがある(撃ち殺しても「許される」と思っている)からこそ、銃を持っていたい。そういう人間にとっては、実際に殺傷能力がある銃でなければ、所持している意味などない。

*

もちろん「自分が殺されるくらいなら相手を殺すべき」は、生命現象の根本原理である。「黙ってやられるくらいなら、先に相手のやっちまえ」ルールは、人間が生命現象である限り否定できないし、排除もできない。しかしだからこそ、人間に銃など渡してはダメなのだ。「いざとなったら誰かを殺す」という本性を人間から取り除くことは不可能(それがソモソモの本性の定義だ)。しかし、そういうふうにアタマに血が上りがちの存在である人間に与える「手段=道具」は、選ぶことも制限することもできる。「手段=道具」は、人間の本性には属していない「外部」だからだ。そして、与えられる「手段=道具」としての銃は、その殺傷能力の高さ(逆に言えば、お手軽さ)ゆえに問題なのだ。それを使えば、誰もが手軽に誰かを大量に殺せてしまえる。

*

更にここで気づかなければならないのは、銃乱射事件を起こすのは、必ず「自分には他の誰かを銃で撃ち殺すだけの/当然の/やむにやまれぬ理由がある」と考える人間だということ。イカれていようと「正常」だろうと、銃乱射事件の犯人達は、間違いなく「自分が大切だと思うモノを守るために」他人を撃ち殺している。銃規制に反対する者の考え方と全く同じである。ことによると、銃乱射事件の犯人たちを突き動かすのは、犠牲的精神ですらあるのかもしれない。自ら無法者として裁かれ殺されるコトを覚悟の上で、「大切なもの」を守るために「凶行」に及ぶわけである。であるなら、そこにあるのは悪意どころか、悲壮的な善意である。やれやれ、ここでも人間の半合理主義が祟ってる。

*

銃規制に反対する者は、悉く、銃乱射犯予備軍だと見做して構わない。しかし、だからと言って、ただちに全員を牢屋ヘぶち込めというのではない。彼らは、人間存在に対する認識が単純で、「善人」や「悪人」などという[定義が曖昧で幼稚な概念]を用いて社会を理解し、全ての「犯罪者」が、彼ら自身にとっての「正当な」「理にかなった」「他の何よりも重要な」「止むに止まれぬ」理由で「犯行」に及ぶのだということも洞察できないが、それ以外は、我々と変わることのない善良な市民だ。

*

自動車事故がそうであるように、銃乱射事件も人間自体の制御を試みてもなくなりはしない。自動車事故に関して言えば、人間社会はそれが一定程度発生することを「受け入れて」いる。自動車そのものは社会から排除せず、人間の振る舞いによって自動車事故を回避しようとするなら、そうする(受け入れる)他ないからだ。しかし、銃乱射事件はどうか? その発生を、自動車事故並みに「受け入れる」ことは、殆どの人間や社会にとって悍ましいことであるはずだ。自動車事故だって、できればゼロにしたい。しかし、銃乱射事件は、「できれば」ではなく、是が非でもゼロにしたいはずだ。なら、人間をどうにかしようとしてもダメで、銃をなくすしかない。なんと言っても、ないものは使えないのだから。(ちなみに、乱射殺人は故意だが、交通事故殺人は過失であり、同列に考えるべきではないと思うなら、とんだお人好しである。飲酒運転、スピード違反、あおり運転、過積載、信号無視などはもちろん、たとえ交通ルールを守って制限速度で走っていても、生身の人間がウロウロしているすぐ横で1トン前後の重量物を、猛烈な速さで動かしているのは、ショッピングモールの真ん中で誰もいないところを狙って水平に拳銃をぶっ放してるのと変わらない。これで誰か死ねば、表面上は過失でも、実質は故意である。)

*

もう一度言おう。[いざとなったら撃つ]人間だけが銃乱射事件を起こす。そして、それは大抵ごく普通の善良な人間だ。銃乱射事件を起こす可能性があるからと言って善良な人間をあらかじめ社会から取り除くことはできない。だから、銃の方を社会から取り除くのである。

銃規制に反対する者たちの意見を聞き入れることは、銃乱射事件の犯人の云い分を聞き入れることに等しい。銃乱射事件を許さない立場なら、銃規制に反対する者たちの意見は無条件で退けて構わない。

また、銃規制に反対を表明することは、自分が銃乱射事件の犯人予備軍であることを表明するのに等しい。だから、銃規制には反対しつつ、しかし銃乱射事件は許さないと表明するのは、銃規制反対者とはすなわち銃乱射事件犯人予備軍という構造に気づかないほど、自分は愚かなのだと表明するのに等しい。

2019/09/10 アナトー・シキソ

ひとつ言い忘れた。
銃の所持や射撃は、たとえばラジコンヘリを蒐集したり飛ばしたりすることと同じで、趣味=道楽の一つだと主張する輩には、他人の道楽のために自分の子供が殺されるのはごめんだと言えば充分。また、銃の所持や射撃は、古くからの守るべき伝統だと主張する輩には、チベットの鳥葬だって、日本の晒し首だって伝統だった。ヨーロッパの決闘もそうだ。そうそう、世界中にある「名誉殺人」の類は悉く伝統だ。「女は家庭を守るもの」も伝統だったし「父親の意見は絶対」も伝統だった。「結婚相手は親が決める」も「赤ん坊にハイハイをさせない」も「殺した敵部族の脳を食べる」も伝統だった。伝統は必ずしも[守り続けるに値するもの]ではない。むしろ、何かが行われ続けているとき、その理由が「伝統だから」の一つきりなら、その「真価」を問い直してみるべきだ。アメリカの「伝統」である「個人の銃の保持」は、はた迷惑という点で、「名誉殺人」の伝統とどう違う?

2019年9月4日水曜日

「スタンド論 〜『ジョジョの奇妙な冒険』考〜」


この長大な物語の全てを一度に論ずることは難しい。しかも一旦は終了したはずが、まるでプロレスラーの引退と復帰のように、新シリーズとして再開され、今現在連載されているのだ。とてもここで全てを賄いきれるものではない。

そこで今回は第3部から登場した「スタンド」に的を絞って考えてみたい。作者自身が語っているように、第1部、第2部はいわば、肉体対肉体がテーマだった。あるいは圧倒的に強力な肉体を持つものに「貧弱な」人間が知恵と勇気で戦いを挑む物語だ。戦うべき相手はあくまでも強力な肉体を持った存在だった。

それが第3部では「精神力」の戦いへと変わった。

「スタンド」とは精神力が映像化したものだ。強いスタンドは強い精神力から生まれる。スタンドはそのスタンドの本体となる人間の精神そのものなのだ。本当に恐ろしいのは肉体ではない。それを操る精神すなわち心なのだ。だから肉体と肉体の戦いは、実は心と心の代理戦争に過ぎなかった。ならば、その心を目に見える形で直に戦わせれば、どうなる?

この実に魅力的な問い掛けに答えるために、第3部は始まった。

実をいうと「ジョジョ」以前にも人の[心と心]=[精神力と精神力]の戦いを描いたものはかなり存在した。つまりは超能力者同士の戦いだ。

まず思いつくのが横山光輝の古典的名作『バビル2世』だ。この『バビル2世』には荒木もかなり影響を受けたようで、「第3部」の主人公である承太郎や花京院がいつまでたっても学生服のままなのはまさに「バビル2世」の主人公に倣ったものだ。バビル2世は砂漠でもあの暑苦しい学生服を着ていた。承太郎がいくら暑くても決して学生服を脱がなかったのは作者の[先達に対する敬意]の表れだろう。

また、少し時代を下ればあの一世を風靡した大友克洋の『アキラ』がある。この作品こそはまさに「超能力者もの」の今に続く王道だが、大友にはこの作品とは別に「童夢」というやはり、超能力を持つ「子供」を描いた作品がある。目に見えない力が壁をドーム状にへこませ人を押さえつけるシーンは知る人ぞ知る名場面だ。

第3部からの『ジョジョ』も間違いなく超能力者同士の戦いを描いた作品なのだが「スタンド」という新たなシステムを「発明」したことで、それまでの「超能力者もの」とは一線を画す作品となった。今までの「超能力者もの」は、どれも超能力の力を表すのに「結果」だけを描いてきた。例えば、いきなり頭が爆発してみたり、鼻血が出たり、あるいは物体が勝手に浮き上がったり、壊れたりと言った具合だ。つまり超能力者の力が発揮されたときに「なぜそうなるのか」は全く描かないままで、「力」が行使された「結果」だけを描いて済ませてきたのだ。

すでに「スタンド」によって、超能力(精神力)の視覚化を体験してしまった我々からみれば、今までの「超能力者もの」はずっと超能力を持たないもの(ジョジョ的に云えばスタンド使いではない者)の視点から描かれてきたということになる。

「ジョジョ」以前「スタンド」以前のかつての「超能力者もの」は作者は自身で超能力者を描きながらも無意識のうちに、こちら側(超能力を持たない一般人側)に立っていたわけだ。だから、彼らは、超能力の結果を描いても、それを説明する必要はなかった。いや、必要性を感じなかった。超能力者に超能力があることを認めれば、あとは何の迷いもなく、超能力が行使された結果だけを事実として描けた。「超能力は分からないものだ」で済ましていられた。なにしろ一般人なのだ。一般人に超能力は理解できない。ただ、起きたことを見て驚くだけだ。いや、もしかしたら「超能力者自身にもなぜそうなるのか分からない」という認識を持っていたのかもしれない。

だが、「ジョジョ」の「スタンド」はそれはちがうと言った。超能力者には「力」が見えている。なぜ、頭が爆発するのか、ものが持ち上がるのか、超能力者にはその理由が分かっている。なにしろ「見えている」のだから。超能力者にとって、それは目の前で起こっている当たり前の光景としか映らない。超能力者にとって超能力は不思議でもなんでもないのだ。「ジョジョ」においては、超能力者はつまり「スタンド使い」だが、彼らには見えるのだ。敵の頭が砕け散るのは、スタンドが敵の頭をうち砕いているからだし、車が持ち上がるのはスタンドが持ち上げているからだ。あるいは、拳銃の弾が空中で静止するのはスタンドがすばやくつかみ取ったからでしかない。ただ、スタンド使い(超能力者)ではない一般人にはスタンドが見えないので、それが不思議な光景として映るだけなのだ。

「スタンド」は、超能力の「力」そのものに「形」を与えた。それは同時に超能力を説明する方法にもなった。「ジョジョ」以前は超能力が引き起こす現象は説明不可能なものでしかなかった。どんなに超能力を描いても、超能力の説明にはなっていなかった。超能力者同士の戦いでも、実際彼らが何をしているのかは分からなかった。ただ苦しがったり、はじき飛ばされたり、急に死んだりするだけだ。決着が付くときはいい。そうでなく引きわけに終わったときなどは、結局超能力者が難しい顔をして汗を流して、それで「ふう」とため息をついて終わりだ。いや、それはそれでなかなかに緊迫感のあるものだが、現実問題として[描写としてはかなり地味]だ。派手な格闘も何もないからだ。ただじっとして、時々触ったり、手を握ったりするだけなのを見ていてもつまらないだろう。スタンドのお陰で「ジョジョ」では本来(?)地味なはずの超能力者同士の戦いをド派手な大格闘として描くことが可能になった。

超能力の「力」がスタンドという形を与えられたことで戦いは途端に分かりやすくなる。スタンドなしでは絶対描けない超能力合戦の末の「紙一重」の勝利でさえ「リアルタイム」で読者に示すことが出来る。もしスタンドがなければ、強力な超能力者同士が息を詰めて黙って向き合ったあとで、どちらかがばたりと倒れる。勝ち残った方が「危なかった」と安堵の言葉を漏らして初めて、戦いの展開がどうだったかをある程度推測出来るだけだ。しかし読者には一体何がどう危なかったのか、どの程度危なかったのかも分からない。第一これだと結局誰と誰が戦っても同じ光景しか描けない。いつも「睨み合い」と「ばたん」と「危なかった」で終わりだ。超能力者を描くはずのマンガがすぐに超能力を描くことにマンネリを起こすことになる。超能力者の最大の見せ場であるはずの超能力の行使の場面がいつも同じに、しかもかなり地味になってしまう。超能力者マンガが存分に超能力を描けないという笑うに笑えない状況が生まれるということだ。

その意味で「スタンド」は画期的な発明だと言える。存分に超能力を描けるからだ。「スタンド」は、超能力がなぜそのような現象を引き起こすかを読者にも見える形で説明してくれる。「見えない力」を「見える力」つまりスタンドに置き換えたことが『ジョジョ』の最大の功績であり、長期にわたる成功の秘密だった。


(2)

ところが、長期に渡って描き続けているうちに、生みの親である荒木自身が「スタンド」の意味を変容させてしまった。意識的であるかどうかは分からない。

どういうことか?

つまりこうだ。荒木は、超能力者の能力そのもを擬人化あるいは映像化したはずのスタンド自身に更に「超能力」を持たせてしまったのだ。一般人には見えない超能力者(スタンド使い)の能力はスタンドとして、超能力者と読者には顕在化された。しかしその顕在化されたスタンド自体が更に超能力者自身にも読者にも「見えない謎の力」、言ってみれば「超・超能力」を持ってしまったのだ。

例を挙げてみよう。最も分かりやすい例は、第5部に登場する「クラフトワーク」というスタンドだ。実は私がこの文章を書こうと思ったのもこのスタンドの登場がきっかけだった。

スタンド「クラフトワーク」の能力は触れた物体を空間に固定させることだ。このスタンドは自身の射程内、つまり力を発揮できる範囲内であれば、あらゆるものを静止・固定させることが出来る。たとえ、それが空中であってもだ。だから向かってきた弾丸なども空中で止めてしまえる。しかしなぜ、そうなるのかは全く説明されない。なぜ、弾丸は空中で止まるのかは全く描かれない。スタンドがその手で直に弾を止めるわけではない。スタンドの射程の範囲に入れば、弾丸はただ止まるのだ。これはスタンド自身が「超・超能力」を持っていることを意味する。

この違いは初期のスタンドと比べてみると分かりやすい。比較対象は第3部の主人公スタンド「スタープラチナ」だ。いい具合にこのスタンドも劇中で弾丸を「止めている」からだ。だが、「スタープラチナ」の弾丸の止め方は「クラフトワーク」の「超・超能力」とは全く違う。「スタープラチナ」は「指で掴んで」弾丸を止めるからだ。「スタープラチナ」には「クラフトワーク」のような「超・超能力」はないので、もし弾丸を掴み損ねると、弾丸は止まらない。(もちろん「スタープラチナ」が後に獲得する「時を止める」という「超・超能力」を使えばそれは可能だが、ここで言いたいのはそういうことではない。)

「スタープラチナ」の「掴んで止める」という方法だとスタンドが掴んだ弾丸を離してしまえば、弾丸は下に落ちる。人間が持っているものを手放すとその物体が下に落ちるのと同じことが起こる。これは読者にも劇中のスタンド使いにも自然で分かりやすい。しかし「クラフトワーク」の場合、スタンドの「超・超能力」が効果を発揮していれば物体はずっと空中にとどまっているのだ。まるで「クラフトワーク」自身が目に見えないもう一つのスタンドを出現させて、物体を支え続けているかのように。


(3)

この二つのスタンドの違いは何かと言えば、つまりは作者自身のスタンドの解釈、あるいは定義の変化と言ってもいい。

初めスタンドは超能力者(スタンド使い)が現実の物体に影響を及ぼすときの力そのものとして描かれた。一般人には見えなくても、スタンドのやることが見えれば、物体がなぜそうなるのかがスタンド使いと読者には分かった。スタンド使い(超能力者)が念じただけで物体が動いても、実は彼のスタンドが「実際に」その物体を動かしているのだ。しかしスタンドは次第に変化し、超能力者の能力の「象徴」になった。こうなるとスタンドを見ただけはどんな能力を持っているのか全く分からない。ちょうど、一般人と超能力者の区別が見たたででは付かないように。

実際、この変化の始まった第三部の終わり頃からスタンドは「触っただけで」ありとあらゆることをやるようになる。スタンドが触れば、破壊されたものが復元され、生命が誕生し、ジッパーが現れ、肉体が若返っていく。そしてなぜそうなるかは一切説明されない。さらに強力なスタンドになると、そうしようと思っただけで、時間までコントロールするようになる。もはや触ることさえしない。もっとも、時間を止めるのに何に触れればいいのかという問題もあるが。

スタンドの「超・超能力」はそのスタンドの本体であるスタンド使い自身にも理解も説明もできない謎の力なのだ。「なぜかは分からないが、そういうことが出来る」というレベルだ。

ここに三つの世界が見て取れる。三段階の能力だ。

まず初めは一般人にも理解と説明のできる能力。次がスタンド使いには理解と説明のできる能力。最後がスタンド使いにも理解も説明もできない能力。

一般人にも理解と説明のできる能力とはごく普通の、我々がよく知る物理法則にしたがった能力のことだ。コップを持ち上げる。ドアを開ける。水を撒く。

一般人には理解不可能でスタンド使いには理解できる能力とは、いわゆる一般的な超能力だと分かる。サイコキネシス、テレパシーなどは、起きた現象だけを見れば、程度の差こそあれ、どれも人間自身にも出来ることだ。つまり、ものを動かしたり、意志を伝えたりということそれ自体にはなんの不思議もない。それが超能力と呼ばれるのは、その一連の出来事に、あたかも全く介在するものがないかのように見えるからだ。だから、もしスタンドが介在しているのが「見えれば」、それは「なんでもないこと」になる。スタンド使いには理解が出来る能力とはそう言うことだ。スタンドによって引き起こされたとしても、起きたこと自体は平凡な出来事だ。壊れた、ぶっ飛んだ、切れた、燃えた。あるいは体に入り込まれてまるで催眠術のように操られた。

しかしスタンド使いにも理解できない「超・超能力」はそうではない。それは原因がなんであれ、引き起こされた現象自体が異常なのだ。超自然的と言い換えてもいい。それは介在しているものが見えないから、理解できないから異常なのではなく、どんな力が作用していても起こりえそうにないという意味で異常なのだ。そういう現象を引き起こす方法・手段を人間は持っていないし、知らない。

どうやって時間を止める? どうやって鏡の世界に入る? どうやって壁にジッパーを出現させる? どうやって一瞬で怪我を治す? どうやって人をあっという間に老人にする?

スタンドの「超・超能力」は超能力と言うよりも、現時点では別の部類に入る現象だ。一般的に、あるものは奇蹟と呼ばれ、別のものは呪いと呼ばれる。異次元の世界の問題として扱われるものもあるだろう。また、時間の問題は最先端の量子力学をオカルト的に解釈すると生まれる。

つまりどの現象もいかなる方法を用いても人間が実現できないものばかりだ。

スタンドは一般的な超能力の現象を説明するために発明されたアイディアなので、一般的な超能力以外の説明は最初から不可能なのだ。スタンドは人間のいる物理法則の世界から一枚だけずれた場所にいるだけで、その作用自体は、人間と同じ物理法則に従っている。だから、スタンドがその一枚隔てた向こうからどんな力を及ぼしても、現実の人間のいる場所で起こることは必ず人間の住む世界の法則つまりは物理法則に準じている。つまりスタンドがある物体に作用を及ぼしても、その物体自体は人間の住む世界の物理法則に支配され続けているということだ。だから、スタンドが棚から壺を落とせば、その壺は、人間の世界の法則に則って、床に落ちる。途中で、壺に関わる物理法則が変化して天井にぶち当たるということはない。だが、スタンドの「超・超能力」はその法則を破るし、全く理解不能の現象を引き起こし、落ちる壷を天井にぶつけてしまう。

(4)

スタンドというアイディアは非常に優れた便利なアイディアだ。この世界の不思議な出来事をほぼ全て飲み込むことが出来る。幽霊も、死後の世界も、UFOも、多重人格も、呪いも、奇蹟も、異次元もすべて、スタンドの「せい」に出来るのだ。

結局、つまりは、そういうことなのだ。
 
最初、スタンド使いの力そのものとして描かれたスタンドが、いつの間にか、スタンド使いとは別のキャラクターとして描かれ始めた。「別」という言い方は少し変か? スタンド使いとスタンドの関係が、ちょうど一人分横にずれてしまった。つまり、人間であるスタンド使いは、スタンドという超能力を持っている。そしてそのスタンドが自立した存在として更に「超スタンド」とでも言うべき「超・超能力」を持っている。そしてこの「超・超能力」は、もはや制限を持たないので、作者はあらゆるアイディアを割り当てられる。

このズレは、読者にとっても作者自身にとってもあまり意識されていない。しかしこのズレこそが肝心なのだ。

たとえば、時間を止めるとか、人間を爆弾に変えるとか、生命を生みだすと言った大それた能力を直接人間であるスタンド使い自身が持つのではなく、異形のスタンドそれ自体がが持っているというところに、妙な説得力と安心感が生まれるからだ。いや、結局はスタンド使いの能力には違いないのだが、実感として、読者は、スタンド使いとは、そういう恐ろしげな能力を持っているスタンドという魔物的悪魔的あるいは神的な存在を所有している人間というふうに見てしまう。

このワンクッション置いた状態は実は重要だ。

どんなに突拍子もない、あるいは無茶な能力でも[その能力]と[人間であるスタンド使い]の間に、これまた正体不明の超スタンドがいることで、その能力の突拍子のなさが一度、屈曲するのだ。[生身の人間]と[大それた能力]を直につなげないで、一旦迂回してから接続することになる。すると、そこに妙な説得力が生まれ、物語はある種の自在さを獲得する。

人間が時間を止めたり、老人を赤ん坊に変えたりは出来そうもないが、一種の魔物としての超スタンドならそういうことも可能だろうという、妙な納得の仕方を、作者も読者も、無意識のうちに行っている。

「ジョジョ」がここまでの長期連載作品になったのは、「スタンド」が持つこの「自在さ」が要因の一つなのは間違いない。


(アナトー・シキソ)

2001年6月11日初出
2012年8月21日改訂
2019年9月04日改訂

2019年8月27日火曜日

『ガンダムUC』を観た


『ガンダムUC RE:0096』を観た(GYAO!で。カネないので)。「節操ナイくらい阿った作品」というのが第一印象(で、最後までその印象は変わらなかったけど)。阿る対象は無論『富野ガンダム』。まあ、それはしょうがない。この作品のそもそもの「出自」(「制作動機」)がそうなんだから。

良く言えば(良く言えば?)、コネタ満載(と言うか「もう、オナカいっぱいです」ってくらい大量にガンダムコネタが出てくるから、もしかして実はバカにしてるのか? 実はパロディなのか?って思っちゃうくらい)の、ガンダムファンによるガンダムファンのための、『ガンダム』という作品それ自体がモチーフのガンダム作品。一言で言えば「メタ・ガンダム」。

で、結末まで見終わった時の印象は「随分、こぢんまりしたお話になっちゃったなあ」。フル・フロンタル(いやあ、full frontalって、English nativeにはどんな語感なんだろうと要らぬ心配までしてしまう)をパクって言えば、なんだか、ちいさな「器」の世界になちゃったね、と。

先に言った「ガンダム」要素を全部取っ払った時のこの作品の「正体」は何かって言ったら、結局、「戦争歴史物」ってことになる。つまり、NHKスペシャルでありそうな「激動の昭和史」的な。戦後70年が過ぎ、その当時は分からなかったことが、取材の結果色々分かって、実は裏であの軍人やあの政治家やあの大実業家たちがこんな画策をしてとか、あの国とこの国があんな密約を交わしていたとかっていう、歴史に埋もれた巡り合わせだの陰謀だの策謀だのを「へえーそうだったんだ」とか「なんて愚かなんだ」とか言って面白がるアレ。でも、そういうデキゴトは、『ガンダム』という作品の基準からすると、なんだろ、「背景」というか「方便」であって、まあ、また同じ単語を別の意味で言ってしまえば、料理に於ける「器」のようなもの。

でも、『ガンダム』ファンの結構な割合が、戦争マニアや兵器マニアや戦記マニアの類なので、こういう人たちが作る「続編」はどうしても、この「器」の方が凝ったものになる。こういう人たちは、使いたい「器」はたくさんあるけど、作れる「料理」(「人間」に対する独自な思想みたいなもの)はサホドないから、ドッカから(大抵は本家の『富野ガンダム』から、あるいは実際の戦記などから)借りてきたような登場人物たちが、ドッカから借りてきたようなセリフを吐きながら、死んだり、泣いたりすることになって、それを見せられてる方は、わりとシラケる。で、さっきも言ったけど、「これってもしかしてガンダムを貶めてる(バカにしてる)のか」って一瞬思ったりもする。

富野さんの手による『ガンダム』はどれも、その作品世界に「訳のわからない野蛮な壮大さ」みたいなものがある(『イデオン』もそう)。しかしこの『UC』にそれはない。「激動の昭和史」が「激動の宇宙世紀」になっただけのことだからだ。というと多少語弊があるが、しかし事実そうなんだから仕方がない。

ついでだから言ってしまえば、Nスペなんかで「激動の昭和史」的なものを見ている時の視聴者は必ず「上から目線」。つまり、前の時代や前の世代の人々の「愚かさ」「分かってなさ」に対して、やれやれと首を振る、という気分が必ずどこかにある。「歴史の後ろから来た者たちの特権」みたいなものを享受/悪用しているのだ。「激動の昭和史」的なものを見てると、驚くような陰謀策謀が渦巻き、たくさんの人が死んで、伸るか反るかの大勝負が展開されるけれど、その人々の「ツモリ」や「思い」が「(誤解にせよ)分かる」という感覚がある(構造は野球解説者の解説と同じ)。それが「作品世界の器」を「小さく」する正体で、まあ、本当はコチラ(見る側)の問題。

で、『ガンダムUC』にハナシを戻すと、この手の「激動の昭和史」的な物語を描いていると、戦いに巻き込まれた人々の陰謀や殺し合いや苦悩という「目眩し」に、おそらく製作者たち自身も騙されて「何か言ってるような気分」になってしまう。しかし、そういう「目眩し」から自由な目で作品世界を見てみると、案外「大したことは何も言ってない」ことに気づく。つまり、その作品ならではの独自性というか、一回では消化しきれないほどのデカかったり深かったりする思想性みたいなものはない。作品が提示する思想も解釈もどこか「既製品」的ということ。この『ガンダムUC』もそうした作品の一つ。作品の中で起きている事実は大掛かりで壮大っぽいけど、学校の屋上で中学生が、ただ大きな声で「好きだー」って叫んでる、あの感じに似てる。

物語は最後の最後に「千手観音=赤いネオ・ジオング」が、仏教説話よろしく、主人公を「世界の果て=時間の果て」に連れて行き、世の無常・人の無常を説くというオヤオヤな展開。通俗仏教の世界観は嫌いじゃないけど、アレをやっちゃって、「成仏しそこなったシャア」(フル・フロンタル)が、「ニュータイプ=仏陀(悟った人)」的なことを口走ってしまったら、もうただの法要の時の坊主の法話。この『ガンダムUC』で一番「ズッコケタ」のは、このシャア(の亡霊)に拠る「真のニュータイプ」解釈。

この宇宙の無常を悟ったものが真のニュータイプって話はまあいいとしても、真のニュータイプになったら、途端に肉体から自立した純粋な「個性=自我」だけの存在になって宇宙を飛び回るってのはナントモお粗末。けど、映画版の『イデオン』の最後の「とって付けたような場面」(富野さんが登場人物たちを「成仏」させようと思ったんだろう)にも通じるから、つまりは、ソウイウコトなのだろう。まあ、典型的な「生命教信者が作った生命教信者の世界観の作品」だよね。

ついでだから言うと、生命教信者による生命教信者のための生命教信者の世界観を描いた作品は、まあ、とことんまで行くと、結局みんなこうなる。なぜなら、生命教信者たちは、生命現象と知性現象の区別がついてないから、生命現象がいずれ必ず破綻するという事実に対して、どうしても「本当の生命」とか「生命の根源」みたいなものを夢想して、そこに「活路」なり「希望」なりを見出そうとするから。つまり、いずれ滅びる「肉体としての生命」とは別に、永遠性を持つ「肉体から自立した真の生命」というものが存在するはずだという「信仰」で、なんとか「虚しさ」を切り抜けようとする。そうとでも考えないとヤッテラレナイからね。でも、「永遠の命」つまり「死後の命」という概念は、生命現象型知性現象にのみ必要とされるもので、日本のお正月の門松のようなものでしかないことはキモに銘じておいたほうがいい。

まとめると、「激動の昭和史」的な「戦争歴史物」という車体に、「仏陀思想/悟り思想」というエンジンを載せて、ガンダム関連のステッカーをベタベタ貼った「ガンダム」型のカウルを被せて走らせたのが、この『ガンダムUC』という作品。ニセモノって言えばニセモノだし、ホンモノって言えばホンモノ。

2019/08/27 アナトー・シキソ

2019年7月5日金曜日

アナトー・シキソの「ケセラセラ」


あのさ、違うよ。「どうにかなる」と「なるようになる」は全然違うから。たとえば、何かノッピキナラナイ事態が進行しているとして、それについて、何の根拠もなく、とにかく最悪の結末は回避されると能天気に信じているのが「どうにかなる」で、最悪の結末が回避されても、訪れても、どちらであっても気にしないと笑ってるのが「なるようになる」。

アイツの態度は「なるようになる」であって「どうにかなる」じゃない。みんなよく間違えるんだけど、アイツのは「なるようになる」なんだよ。「どうにかなる」じゃなく。

アイツの態度の根底にあるのは諦め。人生に対する絶対的絶望だね。アイツの過去に何があったのかは知らない。何もなくて、ただ生まれつきそうなのかもしれない。いや、まあ、生まれつき人生に絶望している人間が果たしているものかどうかは知らないけどさ。

イイコトなど全く期待してないのに楽観的になるってことは、要するに、悲観が強すぎて楽観にまで突き抜けてしまった状態。アイツの場合はまさにそれなんだよ。

そういう点ではブラジルのサンバに似てる。サンバは、明るくて、ナンにも考えてないみたいに楽しげだけど、元々は、普段ギュウギュウに抑圧されている奴隷たちが、祭の時だけはハジケることが許されて、それで発展した音楽だからね。つまり、明るく楽しいサンバの、あの明るさや楽しさは、絶望的情況があればこその明るさや楽しさなんだ。

それはともかく。だから、普段の態度を見て、アイツのことをただの能天気だっていうふうに捉えると、アイツの本質を見誤るよ。ただの能天気は往く道だけど、アイツの能天気は還り道だから。

あと、日本の仏教には「他力本願」ていう考えがあるから、君は、アイツの態度をソレとゴッチャにしているところがあるね。でも、超越的な存在が良きに計らってくれると考えるのが他力本願で、良きに計らうも計らわないもないってのがアイツなんだ。全然違う。

そう、だから、相当テゴワイよ。あのお気楽そうな見た目とはウラハラに、その内面は複雑怪奇。実際、俺の仲間が何人もアイツの中に入り込んでソレッキリだからね。取り憑いて操るつもりが、ことごとく捉えられ、分解され、最後はきっとアイツの屁になって体外に放出されてしまったんだよ。だから帰って来ない。

うん。俺はもう退散する。俺たちが何をやっても無駄だってコトが、もう充分に分かったから。アイツはある意味、最強だね。

2019年7月4日木曜日

isotope 24「変身」


その朝、妹は兄を起こそうと部屋を覗いた。
だが、ベッドの上に兄の姿はなかった。
代わりに一匹の毒虫がシーツの上で仰向けになって無数の脚を動かしていた。
妹は年老いた両親に「お兄さまは毒虫になった」と伝えた。
両親は驚き、倅の部屋の覗いた。
妹がベッドの上の毒虫を指さす。
両親は抱き合って「倅は毒虫になってしまった」と云った。

一家は大黒柱を失った。
家族は話し合い、部屋を貸すことにした。
無論、毒虫(=兄=倅)の部屋だけは別だ。
貸せはしない。
ドアに鍵をかけ、その鍵は家族だけが持った。
毒虫(=兄=倅)の姿を他人の目に触れさせるわけにはいかない。

三人連れの男が下宿人になった。
妹と両親は居間へ移った。

ある日の夕食後、妹はバイオリンを演奏した。
下宿人たちが無理に強いたのだ。
妹の演奏を聴きながら、薄ら笑いを浮かべ合う三人の下宿人。
妹は蔑みに耐え、バイオリンの弓を動かし続けた。
その時、下宿人のひとりが床に一匹の小さな毒虫を見つけた。
彼は「おい、困るなあ、汚い虫がいるぞ」と云った。
妹と両親は揃って「あっ」と声を上げた。
「なあに、こんなものはこうやって」
別の下宿人はそう云うと靴の底で勢いよく毒虫を踏み潰した。
両親は床に崩れ落ち、妹はバイオリンを放り出して絶叫した。
そして三人ともそのまま意識を失った。
下宿人たちは「大袈裟だな」と顔を見合わせ笑った。

その時、毒虫の部屋でゴトリと音がした。

三人の下宿人は〈開かずのドア〉に目を向けた。
無音。
ドアの下から一匹の小さな毒虫が這い出した。
「まただよ」と下宿人のひとりが顔をしかめた。「掃除はちゃんと……」
云い終わる前にドアの下から更に3匹の毒虫が現れた。
続いて4匹、5匹……〈数〉はすぐに〈量〉になった。
ドアの下から溢れ出すそれは、まるで黒い液体だった。
ザワザワと鳴る無数の脚を持った異様な一塊。
それは床を流れ、壁を這い上がると、天井の隅の暗闇に吸い込まれ、消えた。

三人の下宿人はその間ずっとテーブルの上で抱き合って震えていた。

さて、あの朝、妹が部屋を覗くとベッドに兄の姿はなかった。
一匹の小さな毒虫がシーツの上で仰向けに無数の脚を動かしていただけだ。
妹は「お兄さまは毒虫になった」と云った。
両親も「倅は毒虫になった」と云った。

三人は決して部屋の奥にぶら下がった兄=倅の死体を見ようとしなかった。

男は首を吊った。
死体は、毒虫たちに食い尽くされたあの晩までそこにぶら下がっていた。

isotope 23「薔薇海小学校」


有名な薔薇海小学校の授業を見学した。キツネの教師がキツネの生徒に教えている学校。授業見学には校長が付き添う。授業中はもちろん禁煙だ。

若いキツネの教師が居並ぶキツネの生徒達に云った。

「人間の民俗学者が書き記したこの『遠野物語』には、無知な人間が勝手に怖がったり、妄想したりして、その罪を、たまたまその場に居合わせただけの無実のキツネに着せ、裁判も何もなしでイキナリ撲殺して澄ましているという話がたくさん出てきます。それは『遠野物語』の中でも、25年後の再版時に付け加えられた『遠野物語拾遺』に多いようです。このことから、皆さん、何が分かりますか?」

キツネの生徒達は互いに顔を見合わせて黙っていたが、そのうち一人の生徒が手を挙げた。キツネの教師は頷いて云った。

「はい、ではツネキチさん」

緑色のチョッキを着たツネキチと呼ばれたキツネの生徒はすっと立ち上がって云った。

「人間の無知はめったに治らないということです」

キツネの教師は「なるほど、それもありますね」と答え「他の意見はありませんか?」と続けた。また別の生徒が手を挙げた。「はい、どうぞ」

「人間は偏見の強い生き物だということです」
「そうですね。確かに人間は偏見の強い生き物です。他には?」

赤い大きなリボンをした女の子のキツネが手を挙げた。
「はい、キネコさん、どうぞ」

キネコと呼ばれたその赤いリボンのキツネはクスクス笑いながら云った。

「人間はキツネを恐れているのだと思います。人間にはないチカラをキツネが持っていると思い込んでいますから」

キツネの教師は「そうです」と大きく頷き、生徒達を見回した。

「人間が私たちキツネを恐れているのはなぜか。それは今、キネコさんが云ってくれたように、人間が、私たちキツネには、人間にはない特別なチカラが備わっていると信じ込んでいるからです。しかし、みなさんもご存知のように私たちキツネにそんなチカラはありません。つまり、死んだ人間を自由に動かしたり、人間に幻を見せたり、他の人間に化けたりというようなチカラは、私たちにはないのです。ここから分かるのは、無知は未知を生み、未知は恐怖を生み、その恐怖は必ず、謂れのない暴力に発展する、ということです」

キツネの教師はそう云うと、黒板に〈無知〉〈未知〉〈恐怖〉〈暴力〉と書き、それぞれから矢印を引いて、四つの語をつなげた。

キツネの校長がこちらを向いて、どうですか、という顔をした。

isotope 22「彷徨える阿蘭陀人」


「『彷徨える阿蘭陀人』とは私のことで、あなたではありませんよ」
赤ヒゲのノッポは、木靴のつま先で脹ら脛を掻きながら俺の主張を否定した。
「なによりまず、あなたは阿蘭陀人ではない」
それから俺の上から下までを改めて眺め回してこう付け足した。
「更に云えば、その身なり、明らかに時代が違います」
なるほど、ごもっとも。ユニクロにドテラを羽織った俺は、少なくとも20世紀以降の存在だ。しかも、こたつとコンビニとティッシュペーパーがお似合いのハンパ者だ。どう間違っても世界の海を永遠に彷徨うガラではない。ただ、一つ云っておきたい。審判のその日まで俺は間違いなく彷徨い続ける。それはアンタと同じだよ。
赤ヒゲのノッポは「ハッ!」と笑う。
「あなたも神に呪われたのですな?」
いや、神と関わったことはないね。神を名乗るヤツは何人か知ってるけど。
「では、今日までどのくらい彷徨いました?」
三十年くらいかな。
相手はフフンと云って、ポケットから手帳を取り出し俺に渡した。
「私が彷徨い始めてから最初の百年間の日記です」
開いてみるとページにびっしりと文字が書き込まれている。が、阿蘭陀語だから全く読めない。
「日記はこれきり書いてません。ムナシイだけですから」
俺は手帳を返す。
「最近は『審判の日なんて永久に来ないんじゃないか?』なんて思い始めてますよ」
阿蘭陀人。そう云えば流暢な日本語だ。
「永く世界中を彷徨ってますからね。めぼしい言語は大抵喋れます」
通りの向こうのコンビニの前が急に騒がしくなる。見ると、高校生風の男女が7、8人。赤ヒゲのノッポもその様子を眺める。
「彼らは最後の審判の日の存在を知ってるのでしょうか?」
そんなものは死んでから知ればいいよ。
「私だって本当には死んではいないのです。しかしすでに審判の日を待ち望んでいる」
ただ、アンタは生きてもいない。
「そこです。私は一体何なんでしょう?」
さあね。ところで『彷徨える阿蘭陀人』のアンタがなんでオカを彷徨いてる?
「いや、前に上陸したとき船に置き去りにされましてね」
それっきり?
「はあ。迎えにも来てくれません」
ひどいなあ。
「いや、そうでもありません。オカは楽ですよ。海は過酷です」
あ、冷えると思ったら……
「雪ですね」
白いふわふわが、見上げる阿蘭陀人の体を通り抜けていく。俺は手のひらに雪を受けてそれが溶けるのを眺める。
「あなたはまだ肉体に囚われた存在のようだ」
いや。これは俺の船だよ。

アナトー・シキソの「芝浜」


一代で財を築いた男が堤防の上で俺に云う。

「若い時は若さっていう財産があるから、やっぱり真面目に働かないんだよ。どうにかなると思っちゃう。その気になればカネなんかすぐに稼げるって。いや、実際その気になれば若さでどうにかなるもんなんだよ。若いと病気はないし体の無理も利くからね。実際オイラがそうだったし。

けどね、なかなかその気にならない。つまり、若い時には、自分はいつまでも若いと思っちゃうから。いつまでもってことはなくても、まあ、明日や明後日や来年や再来年はまだ若いと思って今日を怠けちゃう。で、気がついた時には、膝が悪い、腰が痛い、目が霞む、物が覚えられねえってことでもう手遅れ。オイラ、そういうヤツラをいっぱい見てきたよ。

オイラだって危なかったさ。酒飲んで仕事をサボってばかりで何度母ちゃんを怒らせたり泣かせたりしたことか。その母ちゃんも去年ぽっくり逝っちまったけどね。

若いヤツがその気になるにはキッカケが要るんだなあ。オイラの場合はこれだよ。この財布。この財布がオイラの人生を変えた。運命の品ってヤツさ。買ったんじゃねえよ。貰ったんでもねえ。拾ったんだ。ちょうどこの辺りだったなあ。海に沈んでるのを見つけたのさ。今じゃここも堤防なんか出来てこんな感じだけど、昔は自然の浜だったから見えたんだよね。水の中でゆらゆら揺れてるのが。そいつを拾った。

拾った財布なんて大抵は空だけど、こいつには入ってたね。ビッチリとウナルほど。だからホント云うと、この財布じゃなくて、中に入ってたカネが、オイラが真面目に働くようになったキッカケなんだけど。

うん。結局、落とし主は現れなかったから財布もカネもオイラのものになったよ。なったけど、別にオイラ、そのカネでナニカしたわけじゃない。詳しい説明は省くけど、拾ったカネには一切、手をつけてないからね。お守りみたいなもんだから、普通にカネとして使っちゃダメな気がしてさ。だからほら、今もこの財布にはその時のカネがそっくりそのまま入ってる。

それにしても、いったい誰の財布だったんだろうねえ」

男がそう云って感慨深げに財布を眺めていると、不意に海面から光る腕がぬっと伸び、男から財布を奪って海の中に持ち去った。そしてすぐに、今度はボンヤリ光る巨大な女の顔が海面に現れた。男はその巨大な女の顔に見覚えがあるらしい。

「なんだ、ぜんぶ母ちゃんのシワザだったのか」

男はそう云って笑った。

2019年7月3日水曜日

アナトー・シキソの「白雪姫」


会って来たよ。確かに美人だね。けど頭の方はもう完全にダメだ。仮死状態が長過ぎたから脳にダメージを受けたんだろう。いや、もしかしたらその前からダメになっていた可能性はあるヨ。逮捕された七人の証言に拠ると、連中との暮らしは過酷を極めていたようだしさ。若い女が山の中で山賊七人と何ヶ月も一緒に暮らして無事でいられるわけがないもの。妊娠しなかったのが不思議なくらいさ。というか、実際は妊娠して密かに堕ろした可能性だってなくはない。本人は否定しているけどね。

そうそう。娘に対する殺人未遂容疑で告訴されてる母親だけど、実は物的証拠は何もないんだ。あのオツムのイカレタ美人の訴えの他には具体的な証拠は何もない。母親自身は無論無実を主張してるさ。

一緒に暮らしていた七人の山賊たちの話だと、あの美人の精神状態はかなり前から相当に不安定で、合計三度自殺しようとしたらしいね。で、初めの二回は、山賊たちがガラにもなく蘇生させたのさ。連中にしてみたら、自由に出来るせっかくの若い女を死なせてしまうのはモッタイナイと思ったんだろうな。ところが蘇生させると、自殺じゃなくて母親が私を殺そうとしたんだってご当人は譲らない。男たちはそんな馬鹿なって驚いたらしい。こんな険しい山奥に、そう若くもない母親が一人でどうやって来たんだって。

で、三回目の自殺の時に、山賊たちも遂に蘇生を諦めた。蘇生させても、もう使い物にならないと思ったらしい。

で、どうしたかって?

売ったのさ。相手は高貴な血筋の死体愛好家。いるんだ、そういうのが。女の死体を裸にして、眺めたり、嘗め回したり、突っ込んだり、剥製にしたりする妙な輩が。誰って、それは知らない。極秘なんだってさ。高貴な血筋だからだろ。ともかく、七人の山賊はそいつに被害者の死体を売った。死体と云っても本当は仮死状態だったんだけど、ほっといてもどうせ腐るだけだし、だったら高く売れる新鮮なうちに売った方がいいという判断だね。連中はいつだって実際的だよ。

で、その高貴な血筋の、高貴ではないネクロフィリア・プレイの独特な刺激のおかげで、仮死状態だった被害者が息を吹き返し、高貴な血筋の変態は慌てて病院に駆け込んだ。好きなのは、あくまでも死んでる女だからね。こうしてこの件は世の知るところとなったわけさ。

真実を伝えるって? 森で小人達と暮らし、最後に王子様に救われたと信じてるんだからそれでいいじゃないか。